ゴールデンウィーク明けの学校は、妙に湿気を帯びていた。
長い休みのあとというのは、どうしてこんなにも足取りが重くなるのだろうか。別に宿題を溜めていたわけでもないし、特に事件が起こる気配もない。ただ、いつも通りの日常が戻ってきたというだけのはずなのに、僕の心の奥には、何かが取り残されたような重さが残っていた。
朝の空気には、初夏の匂いがほんのり混じっていた。草が伸び、花が咲き、湿った土が陽の光を吸って膨らんでいるような匂いだ。僕はうんざりした顔で靴を履き替え、昇降口の扉をくぐった。
そのときだった。
「ほら、咲き始めたわよ」
隣にいた東雲が、不意に足を止めて、校舎と体育館の間にある中庭を指差した。
「アジサイだな」
視線の先にあったのは、まだ満開には程遠いが、確かに色づき始めたアジサイの花だった。小ぶりの花がいくつも重なり、まるでシャボン玉が寄り添っているように咲いている。風に揺れるその姿は、どこか儚げで、それでいて鮮やかだった。
ふと、僕は眉をひそめた。
「変だな」
「なにが?」
東雲が、細い眉をわずかに動かして僕を見る。その視線は冷静で、いつものように少しだけ挑戦的だ。
「ここのアジサイ、同じ土に植わってるはずなのに、色がばらばらだ。青、ピンク、それに……紫まである」
確かに、不自然だった。一般的にアジサイの色は、土壌のpHによって変化する。中学生でも知っている理科の知識だ。でも、ここのアジサイは一列に並んで植えられていて、明らかに同じ土壌を共有しているように見える。
それなのに、どうして――?
「もしかして……誰か、ここに何か埋めたとか……?」
言ってから、ちょっとだけ背中が寒くなった。まるで自分の言葉が、知らぬ間に何かを呼び寄せてしまったような感覚。
東雲は呆れたように、しかしどこか楽しげに僕を見た。
「テレビドラマの見すぎよ」
「でも、実際あるだろ。花が妙に咲く場所には、死体が埋まってるとか……」
「フィクションではね。でも現実には、もっと単純な理由があることが多いの」
そう言って、東雲はしゃがみ込み、アジサイの根元に視線を向けた。制服のスカートの裾がかすかに揺れ、陽の光を反射して柔らかく光っている。彼女は細い指先でそっと土をつまみ、目を細めた。
「最近、この辺り、カラスがよくいるでしょ?」
「いるな。昼休みにパンとか狙って飛んでくる」
確かに思い当たる。中庭のベンチで弁当を広げていると、必ずといっていいほど、どこかから黒い影が滑るように現れる。頭がよくて、すぐに人の手の動きを見抜く。時には生徒の鞄からお菓子の袋を引っ張り出したり、運悪く落とした缶ジュースに興味を示してつついたり――そんな光景も何度か目にした。
「カラスってね、光るものを集める習性があるの。ボタン、アルミホイル、イヤリング、鍵……。そういうのを拾って巣に持ち帰ることもあるし、気まぐれに地面に落とすこともある」
東雲は言いながら、アジサイの花房を指先で軽く揺らした。淡い色の花が、かすかに揺れて光を反射する。その一つひとつが、まるで微細な鏡のように朝の光を砕いていた。
「もし、その中に金属――たとえば銅が含まれていたら?」
僕は思わず口を開く。
「雨で溶け出して、土壌の性質が変わる……。pHが変化するってことか」
「そう。そして、その結果、花の色が変わる。別に死体じゃなくても、金属ひとつで土の性質は変わるわ」
そう言いながら、彼女はすっと立ち上がる。その動作はまるで、答えにたどり着いた探偵のように無駄がなかった。
僕は、少しばかり赤面していた。
自分の想像力を、誇らしく思っていたわけじゃない。でも、何か謎を見つけたときに、それをすぐに事件に結びつけてしまう癖――それが少し恥ずかしかったのだ。
「今度、光り物をつけずに観察してみたら? もしかしたら、近くに金属片が落ちてるかもしれない」
「じゃあ、今度の自由研究はそれにしようかな」
僕は笑ってそう言ったが、心の中では小さな悔しさがじんわりと残っていた。あのとき、自分はただ“変だ”と思っただけで、そこから先を考えられなかった。東雲のように、別の視点で物事をとらえる柔軟さが、自分にはまだ足りない。
その違いが、きっと大きな差になる。
校舎の方からチャイムの音が鳴った。朝のホームルームが始まる合図だ。
東雲は先に歩き出し、僕もそのあとを追う。
ふと振り返ると、アジサイたちは何事もなかったように、静かに風に揺れていた。その一輪一輪が、まるで何かを知っているかのように色づき、咲いている。
日常の中にひそむ謎は、事件である必要はない。
ちょっとした違和感に、ちゃんと目を向けることができれば――それだけで、世界はぐっと面白くなる。