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第25話 推理は体育祭のあとで

 春の陽射しが穏やかに降り注ぐ、ある放課後の教室。ゴールデンウィークが終わり、生徒たちの間には体育祭への熱がじわじわと広がっていた。教室の後ろでは、掲示された種目表を見ながら、あちこちで作戦会議が行われている。


「どうしよう、笹島くんがリレーに出られないって……!」


 そんな声が廊下の方から聞こえてきたのは、ちょうど僕と東雲が席に戻ったタイミングだった。


「気合入ってるわね、みんな」


 東雲は窓の外に視線を向けたまま、興味なさげにつぶやいた。


「クラス対抗だからね」と僕は返す。


 普段は静かな東雲も、こういうときくらいはもう少し関心を示してもいいのに、と思いながら。


 そのとき、前方の席で陸上部の笹島が、手にしていたペットボトルのキャップをカチリと軽快な音を立てて開けた。右手首には、湿布が貼られている。


「笹島くん、手首どうしたの?」と誰かが声をかけると、彼は少し照れたように笑って答えた。


「昨日、部活のあとに転んじゃって。手首ひねったみたいで、リレーのバトン渡せそうにないんだ」


 周囲には一瞬、落胆の空気が広がる。笹島は陸上部のエースで、彼が出られないとなると勝利は遠のく。


「でも、百メートル走はもうメンバー決まってるから、変えられないんだってさ。だから、代わりに空いてる二人三脚に出てもらうらしいよ」


「え? 二人三脚って茜さんとペア組む予定だった愛さんが、風邪で欠席するって……」


 僕の言葉に、東雲がゆるくまばたきを一度だけした。


「へえ、ずいぶん都合のいい偶然ね」


 何気ないようで、どこか引っかかる言い方だった。


 東雲は黙ったまま、教室の隅で笹島と茜さんが打ち合わせをしている姿をじっと見ていた。距離を保ちつつ、少し緊張した様子の茜さんと、手振りを交えて説明している笹島。二人の表情は、どこかぎこちなくも初々しい。


「ねえ、何か気づいた?」


「何かって、すごく漠然としてるな」


「あら、そう。ミステリー作家になるなら、観察眼を鍛えることね」


 それだけ言うと、東雲は再び窓の外に視線を向ける。そこに、何かの答えがあるかのように。





 そして、体育祭当日。


 快晴の空に校舎の白が映えて、運動場には生徒と保護者の歓声が響いていた。クラスメイトたちは紅白の鉢巻を締めて、それぞれの競技に備えていた。


 僕は借り人競争にエントリーしていた。走ってカードを引き、その条件に合う人を連れてゴールするという種目だ。僕が引いたカードは、「クラスで一番頼りになる人」。


 当然、僕が向かったのは、あの人のところだった。


「……なんで私?」とやや不機嫌そうな東雲。


「だって、クラス一の推理力で頼りになるから」


 僕の返答に、彼女は小さくため息をついて「推理力だけで評価されてもね」と言いつつも、ちゃんとゴールまで付き合ってくれた。


 午後になり、いよいよ二人三脚の時間がやってきた。


 ペアは様々。どのクラスも見た目はバラバラでも、息を合わせるべく何度も練習してきた様子が伺える。


 そして、笹島と茜さんの番が来た。


 スタートの合図と同時に、二人はタイミングよく走り出す。息の合った歩調、互いを信じる視線。途中、よろめく瞬間もあったが、それも含めてなんとも微笑ましい。


 ゴールテープを切ったとき、歓声が上がった。見事、優勝だ。


 クラスメイトが駆け寄ってハイタッチする。笹島も満面の笑みでそれに応えた。僕は、その様子を見ながら、なんとなく引っかかるものを感じていた。


「……ねえ」


 東雲が唐突に口を開いた。


「笹島くんの手首の怪我、本当かしら?」


「え?」


「昨日、教室でペットボトルを開けてたわよね? あんなに自然に。もし、捻挫してたら、あんな動きは痛くてできないわ」


 言われて思い出す。あのときの、カチリというキャップの音。確かに、痛みをこらえる様子など微塵もなかった。


「それにさっき、ハイタッチしてたでしょ? 思い切り手を打ち合わせるなんて、怪我人がすることじゃない」


「じゃあ、笹島は怪我してなかったってこと?」


「たぶんね。でも、それが重要じゃないの」


 東雲の目が、静かに細められる。


「きっと、愛さんの“風邪”も仮病だったんじゃないかしら」


「え?」


「つまりこう。愛さんは、笹島くんが茜さんに好意を持っていることに気づいていた。だけど、自分が二人三脚のペア。そこで、一計を案じたの。風邪を理由に自分が辞退する。そして、笹島くんに“怪我”をしてもらう。そうすれば、笹島くんは茜さんとペアを組むしかない。無理にくっつけるのではなく、自然な形で」


 僕は息を呑んだ。


「そんなこと、考えるかな」


「考えるわよ。恋って、時々、探偵小説よりも複雑なんだから」


 東雲の言葉は冗談のようでいて、どこか真実味があった。


 確かに、すべては推測に過ぎない。愛さんが何を思っていたのか、本当のところは本人にしかわからない。


 でも、体育祭の終わりに見せた、笹島と茜さんのささやかな笑顔を見て、僕は思った。


 恋のきっかけなんて、たとえ“怪我”でもいいのかもしれない。誰かの優しい仕掛けで始まる関係も、悪くない――そう思える春の一日だった。

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