夜空には銀色に輝く満月が浮かんでいる。
時刻は夜――。
俺とアリシアは上等な絹の寝間着を着ながら、一流の庭師が管理しているのであろう中庭にいた。
中庭には1年中において月見や花見が楽しめるように、何人も座れる長椅子が設置されている。
その長椅子に、沐浴が終わった俺たちは涼しみのために座っていたのだ。
「やっぱり、どこの国でもお金持ちって変わっているのね。この屋敷のご主人もそうだけど、こんな凄いお屋敷に住んでいながら、昼間は平然と街の名所説明なんかをしているなんて信じられない」
日光浴ならぬ月光浴を満喫していると、俺の隣に座っていたアリシアが声を掛けてくる。
「この華秦国では珍しいことじゃない」
俺は満月からアリシアに顔を向けた。
「他の大陸の国ではどうか知らないが、この華秦国の富裕層の人間たちは人としての良い行いである徳を積むと、来世では幸せな人間に生まれ変われると信じているからな……まあ、全員が全員ともそうだとは言わないが」
俺の主人であった仁翔さまは徳を重んじる人だったが、俺を屋敷から追放した笑山はまったく徳を信じていない人間だった。
「でも、この屋敷のご主人はその徳を重んじる人だったし、あなたに本気で恩義を感じたからこうして色々と便宜を図ってくれたのよね」
「らしいな……しかし、まさかあの人が行政長官たちとも交流が深い大商人だったとは思わなかった」
現在、俺たちがいるのは中農の北にある、商同と呼ばれる街区に軒を連ねる屋敷の1つだった。
同とは「人が集まり住む」ということを意味しており、要するにここは商人の屋敷が集まっている場所ということだ。
しかも相当な資産を持つ大商人たちの屋敷しかなく、それこそ商同自体が専用の柵で守られた場所であるから、商同に入るためには許可証とともに専用の出入り口の門を通る必要があったぐらいである。
では、なぜそんな場所にある屋敷で俺たちは寛いでいるのか?
すべてはこの屋敷の主人――楊水連さんのおかげだった。
そう、広場で腰痛の完治を約束したあの水連さんである。
事の経緯の発端は今日の朝だ。
俺たちは昨日の昼間に春花から魔王の手がかりになる情報を持っているのが水連さんであることを知ると、今日の朝になるのを春花の家で待ってから水連さんのいる広場に春花を含めた3人で向かった。
そして俺は水連さんの腰痛を完治させたあと、何かお礼をしたいと言ってくれた水連さんに事情をすべて打ち明けたのである。
俺たちはある目的のために旅をしていることと、その目的を果たすための手がかりを水連さんが持っているかもしれないこと。
そのついでに春花は仙丹房で起こったことを話し、水連さんのために作っていた薬を作れなくなったことも謝罪とともに伝えた。
ところが水連さんはまったく怒らなかった。
なぜなら、俺が最後の施術で水連さんの腰痛を完治させたからだ。
どうやら春花が水連さんのために作っていたという薬は、腰痛を限りなく軽減させる薬だったという。
そのため水連さんは怒るどころか、そのような薬を親父さんが亡くなったあとも引き継いで作り続けてくれた春花に非常に感謝をしていた。
しかしそれ以上に水連さんは腰痛を完治させた俺に感謝してくれて、東安で起こっているという不可思議で血生臭い事件のことも事細かく教えてくれたのだ。
それだけではない。
水連さんは一宿一飯を提供したいとこの屋敷へ案内してくれたばかりか、東安までの旅費をすべて出してくれると申し出てくれたのだ。
ただ、それは俺とアリシアも気が引けた。
さすがに旅費まで出してくれるのは申し訳ない、と。
そのときに俺たちが話題にしたのは、東安までの路銀になるかもしれなかった薬草薬果のことだった。
もっと詳細に言うならば、この街の薬家長に仙丹果以外の希少で貴重な薬草薬果を不当な理由で没収されたことをである。
――そのお話をもっと詳しく教えていただけませんか?
そう尋ねてくると同時に顔から笑みが消えた水連さんは、私が返して貰いに行くので仙丹果を少しの間だけ貸してくださいと言ってきた。
その後、水連さんは俺たちから受け取った仙丹果を持って屋敷から出て行った。
複数の従者を引き連れて、しかも本来は役人の高官しか乗ることが許されなかった車輪が朱塗りされた馬車に乗ってである。
向かった先は薬家行。
そしてどんなやりとりを薬家長としてきたのかは知らないが、夕方前に帰ってきた水連さんの手には、薬家長に没収された俺たちの薬草薬果が1つも欠けることなくあったのだ。
水連さん曰く、薬家長と穏便な話し合いの末に返して貰ったという。
ちなみに薬家長こと鄭八戒という男は、自分の犯した罪の重さを反省して薬家長を辞任し、みずから潔く亭に出頭したらしい。
ただし、それが本当のことなのか俺は知らないし興味もなかった。
けれども、水連さんがそう言うのならばそうなるのだろう。
などと俺が考えていたときだ。
「いや~、さっぱりしたわ。やっぱり、金持ちの家の沐浴は庶民のとは違うな。まさか木の浴槽に家人が用意してくれた温水が張られて身体ごと入れるやなんて、こんなん士大夫や王族になったような気分やで」
と、全身からまだ湯気を出している春花が現れた。
俺たちと同じ上等な絹の寝間着を着ていた春花は、俺とアリシアの間にちょこんと座る。
そんな春花を見て、俺は昼間に確認したことをもう1度だけ訊くことにした。
「なあ、春花。本当に俺たちの旅についてくるつもりか?」
「何や、今さらアカン言うつもりか? 荷物はもう纏めてもうたし、それに色々と水連はんと話はつけたんや。はっきり言って準備万端やで」
どうやら本気で俺たちに同行するつもりのようだ。
「でも、あんな立派なお店を放っておくのも勿体ない気がするけど」
「せやから、水連はんと話をつけたんや。うちがいない間の百草神農堂の維持は、水連はんがしてくれるってな。もちろんタダやないで。うちの出世払いでや」
「出世払い?」
俺がそう言うと、春花は「そうや」と俺に顔を向ける。
「龍信はうちに言ってくれたやないか。うちは将来、この国に名を轟かせるほどの名薬士になるって。だから、うちは水連はんにそのことを話して、うちがいない間の百草神農堂の維持費は出世払いで返すいうことになったんや。水連はんも龍信が言うのなら信用できると即決してくれたで」
春花は言葉を続ける。
「せやから、その水連はんに龍信のことを失望させんためにも、うちはホンマに華秦国全土に名を轟かせるほどの薬士になったると決意したんや」
「だから俺たちについて来ると?」
「そうや。名薬士になるためには王都の薬事情にも詳しくないとアカン。それにうちも1度は王都の薬屋なんかを見て回りたかったし、うちみたいな薬士が一緒にいるだけで何かと融通が利くと思うで」
俺は「ふむ」と両腕を組む。
それは俺も昼間に思ったことだった。
水連さんからの情報によると、魔王の手がかりが掴めるかもしれない東安のある場所というのは薬士が重宝されるという。
そして昼間は春花の勢いに押されて何となく了承してしまった俺とアリシアだったが、今のように納得のいく理由を聞いた後だと、むしろこちらから春花に同行をお願いしても良いくらいである。
それはアリシアも同じ考えに至ったのか、それ以上は特に何も言わなくなった。
これも人の縁というやつかな。
俺はふと夜空に浮かぶ満月を見上げる。
俺たちの旅路の行く末を暗示しているのか、満月は雲1つかかることなく煌々と輝いていた。