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第三十七話  黒い狂気

 夜空には煌々と光る満月が浮かんでいた。


 その淡い燐光を放つ満月の下、中農からほど近い小さな街の外れに、今は裏の世界で無明と名乗っていた俺はいる。


 もしも今宵が満月でなければ、夜に俺の姿を肉眼で捉えることは難しいだろう。


 無理もない。


 俺はあの日起からずっと、全身黒ずくめの格好をしているからだ。


 肌を見られないように目元だけが露出している漆黒の頭巾を被り、今は右手だけに頭巾と同じ漆黒の手袋をはめている。


 普段は左手にも漆黒の手袋をはめているのだが、現在は取る必要があったので外しているのだ。


 そんな俺の周囲には、何人もの男たちの死体が転がっていた。


 俺の左手での攻撃によって絶命した者たちである。


 しかし、死因は打撃によるものではない。


 なぜなら、その死体の口からは大量の血泡が噴き出ているからだ。


 毒手功によって作り上げた、幸運にも俺の左手からの毒に身体を侵されてこの世を去ったのである。


 毒手功。


 それは特殊な治療薬と毒物を交互に平衡よく使用し、主に左右のどちらかの手だけを毒化させる鍛錬法のことだ。


 俺は1年前の今頃、中農の街で有名だった薬士を殺し、その薬士が書いたある書物を奪い取った。


 大金を積んで得た裏の情報網から、その薬士が効率よく毒手功を鍛錬できるほどの薬と毒に関する書物を持っていることを知ったからだ。


 そして俺はその書物に書かれた治療薬と毒物を参考にし、死に物狂いで毒手功の鍛錬に励んだ末に今の毒手を作り上げた。


 巷では今の俺のような毒手を使う武術の流派を、陰流(陰険で残忍な流派)と呼んで嫌っているらしいが、俺はそんな流派に属していたことはない。


 ただ、あの小僧に殺された俺にとって家族同然だった者の1人が、かつては陰流(陰険で残忍な流派)と呼ばれた流派で修行をしていたときがあったのだ。


 あいつは一仕事を終えたあとの宴会の席で、よく毒手功の修行についていけなかったときのことを悔しそうに話していた。


 それほど毒手功の修行は凄まじい苦痛を味わうのだと。


 宴席でその話ばかりするそいつのことが好きだった俺は、あの小僧に復讐を誓ったときに毒手功と鍛錬方法のことを真っ先に思い出した。


 同時にこれしかないと思ったものだ。


 その毒手功で作った毒手ならば、あいつを含めた俺にとって家族同然だった者たちを殺したあの小僧に、最大の苦痛を与えて殺せると思ったのである。


 けれども、あの小僧の強さは常軌を逸していた。


 もしかすると、左右のどちらかの手だけを毒手にしただけでは通用しないかもしれない。


 下手をすれば毒手にした手を、剣で手首ごと斬り飛ばされる可能性もあった。


 なので左手のみを毒手にした1年前の俺は、あの小僧を完全に殺せる確率を上げようと引き続き死よりも辛い選択を取った。


 それが……。


「こ、この化け物め!」


 俺が満月を見上げながら過去のことを思い出していると、生き残っていた男の1人が急に怒声を上げた。


 馬鹿な男だ。


 せっかくの逃げる好機を自分から手放すとは。


 俺は満月からその男へと視線を向ける。


 全身をガクガクと震わせ、満月の光でも分かるほど股間が濡れている。


 明らかに虚勢を張っているのは一目瞭然だったが、そのようなものは命が掛かっていない場面で発揮するものだ。


 だが、それが分からないほど今の男は気が動転しているのだろう。


 下手に生き残ってしまったことが仇となったのだ。


 生き残ったと言っても俺と闘ったわけではない。


 周囲に死体となって転がっている男たちと違い、その男は俺の実力を知るなり小便を漏らしてずっと立ち尽くしていただけなのだから。


 そして他の仲間たちが異様な殺され方をしたことで、思考と理性が一気に弾け飛んだのだろう。


 殺し屋家業をしていると、たまにこういう奴がいる。


 絶対に自分では勝てないと分かっていながら、自分でも予想外の出来事が起こると命乞いや逃走するという重大な選択肢が頭から抜け落ちる奴がだ。


 そういう奴は決まって雑魚と相場が決まっている。


 目の前の俺と同じ黒装束の男もそうだった。


 黒装束の男も俺が殺した男たちも殺し屋なのだろうが、今の俺から見れば雑魚以外の何物でもなかった。


 それこそ俺とあいつらの仇である、あの小僧の足元にも及ばない。


 そして、そんな雑魚はわざわざ殺す価値などなかった。


 たとえ一旦はあの小僧を殺せと依頼しておきながら、急に今度は殺すなと伝えてきたあの豚の息の掛かった殺し屋だろうとだ。


 どういう理由であの小僧の殺しを中止してきたのかは知らないが、別の殺し屋どもを差し向けてきたということは、何かしらの理由で俺の存在自体が厄介なものになったのだろう。


 まあ、そんなことは今さらどうでもいい。


 こちらとしては、念願だった仇を見つけられただけで十分である。


 だからこそ、俺は黒装束の男は見逃すつもりだった。


 これ以上、余計な殺しをして大事な時間を奪われたくはない。


 もちろん、それでも歯向かってきたならば話は別だ。


「よ、よくも俺の仲間たちを……か、か、か、覚悟しろ!」


 黒装束の男は二刀流の短剣使いらしく、両手に逆手で持っていた短剣自体は立派な業物だったが、いかんせん使う人間が刃物にたとえるなら鈍らだった。


 正直なところ、殺す気が失せるほど憐れみを感じてしまう。


「……貴様のような雑魚を殺すほど俺は暇ではない。特別に見逃してやるからさっさと消えろ」


 そうである。


 俺にはあの小僧を殺すという目的があった。


 潔く立ち向かってくる相手ならば別だが、対象者を前にして小便を漏らす殺し屋を相手にするほど時間を無駄にすることはない。


 などと俺が思った直後だ。


「そ、そ、そうはいかん!」


 黒装束の男は、しどろもどろになりながら再び怒声を上げた。


「お、俺たちは〈龍真幇りゅうしんはん〉に連なる者だ……た、た、たとえこの身を八つ裂きにされようと……い、い、依頼は果たさねば……」


 その瞬間、俺は黒装束の男が言った〝ある言葉〟に反応した。


 幇というのは同業や同郷の者たちが異郷で商売をするために作った互助組織の総称だが、現在では裏社会でも有名な犯罪組織を示す言葉となっている。


 しかし、俺は幇という部分に反応したわけではない。


 り・ゅ・う・し・ん……だと?


 ドクン、と俺の心臓が高鳴る。


 同時に俺は無意識に右手の手袋を外していた。


 それだけではない。


 俺は地面を蹴って黒装束の男に疾走する。


 慌てふためいた黒装束の男は短剣で応戦してきた。


 しかし、俺はその短剣での攻撃を避けなかった。


 上半身を中心に何度も短剣で斬られたものの、俺はまったく意に介せず黒装束の男の首根っこを強く掴んだ。


 左手ではなく、利き腕であった右手で。


「……な、なぜだ……なぜ、剣で斬られたのに……動ける……」


 俺はふんと鼻で笑った。


「当たり前だ。今の俺に刃物など効かぬわ。これがその証拠よ」


 そう言うと、俺は左手で自分の衣服の胸元を開いて見せた。


「な……」


 黒装束の男は絶句した。


 無理もない。


 俺の上半身は真っ黒な液体で覆われていたからだ。


毒膜甲どくまくこうという。体内から分泌される水分に毒を含ませ、その毒水を鉄のような硬度に意図的に固めることができる、常人には不可能な神技の1つだ」


 ちまたには皮甲ひこうと呼ばれる、皮革製の鎧をが存在する。


 それを体内から分泌させた大量の毒の液体で模した俺の固有能力だ。


 今も言ったが液体と言えども今のように瞬時に固めれば、それこそ鉄の鎧以上の硬度と防御力を発揮する。


 本気を出せば火薬の爆発にも耐えるかもしれない。


 それはさておき。


 黒装束の男は俺の驚異的な握力で首を絞められると、抵抗は無理だと悟ったのか両手から短剣をボタリと落とす。


「さて、では話を戻そう。貴様は先ほど言ったな?」


 俺は死の淵を彷徨い始めた黒装束の男に言う。


「りゅうしん、と……俺の仇と同じ名前を貴様は口にしただろうが!」


 ギリギリと俺の右手の指先が、黒装束の男の皮膚に食い込んだ。


「――――――――――――――――――――ッ!」


 即効性のある左手の毒とは違い、俺の右手の猛毒は左手の毒よりも強力かつ遅効性である。


 なので皮膚から体内に入った猛毒によって、黒装束の男は悲鳴にもならない悲鳴を上げて全身を痙攣させていく。


 やがて黒装束の男は全身の穴という穴から大量の血を噴き出しながら、この世での最大の苦痛を長く味わって絶命した。


 俺は肉塊と化した黒装束の男を地面に投げ捨てる。


「――りゅうしん」


 俺は死体となった黒装束の男の顔を踏みつけた。


「りゅうしんりゅうしんりゅうしんりゅうしんりゅうしんりゅうしんりゅうしん」


 俺は憎い仇の名前を連呼しつつ、黒装束の男の顔を踏みつけていく。


「孫龍信ッ!」


 やがてグチャグチャになった黒装束の男の顔から足を離すと、俺は下丹田に力と意識を集中させた。


 すると下丹田の位置に、目を眩ませるほどの黄金色の光球が出現する。


 その不可思議な光球からは火の粉を思わせる黄金色の燐光が噴出し、黄金色の燐光は螺旋を描きながら俺の全身を覆い尽くしていく。


 毒手功の――それもおそらくは誰も試そうともしなかった、全身の毒体化に成功したときに手に入れた不可思議な力。


 この力を上手く使えたときは信じられないことに、普段の数倍から十数倍の力が発揮できるのだ。


 それを知ったときの俺は、これこそ天命だと確信した。


 今は孫龍信と名乗っているあの憎い仇を、この不可思議な力と毒手によって恨みを晴らせと天が命じているのだと。


 ならばやってやる。


 いや、孫龍信に殺されたあいつらのためにも絶対にやり遂げねばならない。


 あの豚こと孫笑山が雇った情報屋から今まで得ていた情報によると、どうやら孫龍信は異国から来た金毛女と行動を共にしているという。


 これだけでも天が俺に味方している証だ。


 そんな目立った女と四六時中一緒にいれば、どこだろうと簡単に見つけられる。


 たとえ中農の街だろうと、王都の東安であろうとも。


 そして、この街から孫龍信がいるという中農の街はすぐ目と鼻の先。


 だが、焦りは絶対に禁物だ。


 相手は見かけからすると普通の小僧だが、その中身は龍の化身かと思うほどの強さを持っている。


 確実に殺せる好機と時機を見極めねばならない。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――――…………


 俺の恨みと憎しみに呼応するように、不可思議な力の勢いは増す。


「もうすぐだ。もうすぐ、必ず貴様を殺してやる」


 待っていろ、孫龍信!


 俺に殺される孫龍信の行く末を暗示しているのか、先ほどまで煌々と輝いていた満月は分厚い雲に隠れ始めた。


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