「あ、あの……ミューゼア嬢。覚えて、おられないのですか?」
「はい?」
「いいのです、なんでもありません」
そっか覚えてないか。あのときの俺なんか、ゴミカスのようなガキだったから仕方ないか。
「ともあれ町に向かいましょう。魔物の森は危険です、私から離れないでください」
手を差し伸べてみようとして、やっぱりやめた。
女性の手を取ったりしたら怖くてシャックリが止まらなくなりそうだ。
彼女をほんのり守りながら、俺は鬱蒼とした森の中を進んだ。
この森には出会ったら面倒な森の主、鋼黒竜ヴェガドと呼ばれるエンシェント級のドラゴンも居るけれど、奥に入らない限りはそう出会うものじゃない。
とはいえ魔物自体は多いので、普通商人や旅人は難儀する。今日もまた、途中で魔狼が襲ってきたので、剣の鞘で追い払った。
それでもしばらく歩けば、森が開けてくる。
「改めまして。――ようこそミューゼア嬢、ここが我が領ライゼルの町です」
「え、……あ? こ、ここがですか……?」
森の木々が途切れた瞬間、俺の目の前に広がったのは、どこまでも続く水の鏡だ。
春の陽光を受けてきらめく水面は、青い空と白い雲を完璧に映し込み、まるで天と地が一つに溶け合ったような幻想的な光景を生み出している。
ところどころに植えられたばかりの小さな苗が、春風にそよぐ緑の点となって水面に揺れていた。
「すごい……」
ミューゼア嬢が呆然と呟く。田舎すぎて驚かせたかな?
「まま、こちらへ。町へはこのあぜ道を通っていくのが近いんですよ」
やはり彼女の手を取るでなし後ろを着いてきて貰い、蛙の鳴く道を進む。ゲコゲコ。
すると。
「ギリアムさまー、おめでとうございますー」
「ライゼル領ばんざーい、奥方さま、ばんざーい!」
田んぼや畑で仕事中の領民に見つかってしまった。
皆、笑顔で手を振って歓迎してくれるのは嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい。
「ありがとうみんな! またあとでなー!」
手を振り返しつつ、早歩きで逃げる俺。自然、苦笑いが漏れる。
「急ぎましょう。ここはうるさくて敵いません――って、ミューゼア嬢?」
彼女は田んぼのふちに座り込んで、両手で水を掬っていた。
「……綺麗な水。とても良いお水ですね」
「ありがとうございます」
「この土地の水は、とても田畑に使えるようなものではないと聞き及んでいましたが」
「水質を良くするため魔法士を雇って研究をしたんです。大変でしたよ、魔法士が『これもう新魔法の開発みたいなものだ』って音を上げるくらいに」
やっぱりあのことを覚えておられないのかな?
少し寂しい。
「住民の皆さんも、明るくて幸せそう。私の知っているこの土地の皆さんは、もっと暗い顔をして、毎日の生活に苦しんでいたはずなのですが」
「まだまだ苦しんでおりますよ。もとが痩せた土地だから効率よくいかないのでしょうな、なかなか田畑も広がらなくて」
「なにを仰るのですか、こんな大規模な田畑は穀倉地帯でもそうそう見れません」
え、そうなの?
俺は他の都市をあまり知らないから。
「こんな大きな水田、見たことがありませんよ」
「そうでしたか。はは、なんだか自分が褒められてるみたいでテレますね」
「あなたを褒めてますよ、ギリアムさま。ここの領主であるあなたを」
え? あれれ? 褒められたのか。
素直に嬉しい。
「ライゼル領ギリアム、原作では民など顧みずに恐怖で領地を支配する方だったはず」
「げんさく? それはいったい?」
「あ、すみません、こちらの話です。とにかく私の知る限り、あなたはそんな穏やかな顔で笑うような方ではなかったはずなんです」
「や、これは手厳しい」
苦笑い。
確かにだ。昔の俺のままなら、彼女が言うような禄でもない男に育っていただろう。
「なにがどうなって、こういうことに……?」
「もし、俺が変わったというのでしたらそれはミューゼア嬢、あなたのお陰かと」
「私……の?」
ええい、言ってしまおう。思い出してくださるかな?
「はい。覚えておられませんか、父がセルベール公爵家に支援の申し出をしにいったとき、俺も一緒でした。あのときの貴女の『予言』が、俺を変えてくれました」
◇◆◇◆ ――sideミューゼア
予言、か。そんな子供じみた真似もしていましたね。
幼い頃、私はこの世界がシミュレーションRPG『ソングオブアース』そっくりだと気づいた。悪役令嬢ミューゼア・セルベールとして転生したなんて、信じられなかった。
胸が締め付けられるような恐怖を覚えた。
ゲームの記憶が蘇る。ミューゼアの結末は、どれも息を呑むほど残酷だった。
『ゲーム主人公である王太子との婚約破棄の末、ギロチンで首を刎ねられる』
『魔族の贄として捧げられ、頭だけの魔法ブーストパーツとして永遠に苦しむ』
『極悪領主の元に嫁がされ、奴隷のような暮らしの果てに領主共々惨殺される』
救いなんてもない。私の未来は、どのルートも七色の破滅エンドで塗り潰されていた。
それでも抗いたかった。運命をひっくり返したかった。
だから必死だった。
清く正しく生きようと祈り、公爵家の名を汚さぬよう、裏の仕事には目を瞑って表舞台で品行方正に振る舞った。
学校では目立たず、家の名誉のため笑顔で耐え、誰にも私の本心を知られぬよう、仮面をかぶり続けた。
なのに、どうしてだろう。
どんなに足掻いても、運命は私を嘲笑うようにバッドエンドへ引きずっていく。
清く生きようとすれば、父や兄たちが裏で手を汚し、悪名はさらに高まった。
家を良くしようとすれば、裏社会での力ばかりが膨らみ、私の手は届かない。
学校で静かに過ごせば、悪名高い先輩たちに目を付けられ、いつしか私は悪党たちの輪の中心に立たされていた。
何をしても、まるでこの世界そのものが、私を破滅へ導くために仕組まれた罠のようだった。
「どうして……私が何をしたっていうの?」
夜ごと部屋でそう呟いた。答えは返ってこない。冷たい石壁が、私の声を飲み込んでいった。
それでも諦めきれず、私は最後の賭けに出た。
公爵家の悪事を暴き、正しい道に引き戻そうとした。
家族を、せめて家族を更生させられると信じたかった。
けれど、結果はあまりにも無惨だった。内外の恨みを買い、家族からも「厄介者」と疎まれた。凍えるような夜の闇の中で私は悟った。
――私は、たった一人で戦ってきたんだ。
誰にも頼れず、理解されず、ただ破滅を避けるためだけに足掻いてきた。だが救いは遠のくばかりだった。
そしてとうとう、私はこのライゼル領へ追放された。
ゲームで知る最悪の未来――極悪領主ギリアム・グインの元へ嫁がされるエンド。
それが私の運命だと、諦めかけていた。
ギリアムは、領民を踏みにじり、魔族との戦いで荒れ果てた領地を欲望のままに食い物にする男のはずだった。
この地で私は奴隷のような日々を送り、最後は殺されるのだと。
――なのに。
今、目の前に広がるのは何だろう。
青い空を映す水田、笑顔で手を振る領民たち、そして、たどたどしくも優しく微笑むギリアムさま。
この景色は、私の知る『ソングオブアース』には存在しない。こんな希望に満ちた光景は、私の絶望で塗り潰された記憶にはどこにもなかった。
「あの時の、あなたの『予言』が俺を変えてくれました」
彼が言った言葉に、私は息を呑む。
私は彼に何を言った?
頭が混乱する。余裕のなかった日々でうっすら覚えているのは、ただ苛立ちと悲しみに任せて、子供のギリアムに八つ当たりしたことだけだ。
「私、ギリアムさまに何を言いましたっけ」
「俺がこのままだと、魔族には負け領地は荒れ果てて、とはいえ自分の失敗を認められずに民草を無碍にする事だけを生きがいとする極悪領主になるわよ、と」
ああ思い出した。
彼が将来統治するだろう土地の領民が可愛そうに思えて、まだ子供だった彼に少し八つ当たりしたのだった。
私はゲームで未来を知っていたから、予言の真似事ができる。
「その節は、失礼なことを……申し訳ありません」
「いえ。あの言葉で俺の目は覚めました、今の俺があるのはミューゼア嬢のお陰なのです」
えええ? そんなことあります?
ただの悪口にしか聞こえないと思うのですけど、どこにそんな感銘受けたのでしょうか。
私が眉をひそめていると、彼は言った。
「俺がミューゼア嬢の予言をハナで笑うと、あなたは直近で起こる事件を予言してくれましたっけね」
覚えていません。
「俺の態度に神さまが今から怒る、と。その途端に地面が大きく揺れて、俺の頭には天井から落ちてきた照明が当たりました」
ああ。私は心の中でポンと手を叩いた。
アレですアレ、ゲームでの大地震イベント。それも覚えていたから、ライゼル領への支援を皆に認めさせる材料にした覚えがあります。
魔族の新兵器、ということにしておいて、ライゼルを支援しないともっと酷いことになると告げたのでしたっけ。おかげでライゼル領への支援は成りました。
ライゼルが滅ぶと頭だけの魔法ブーストパーツエンドが近づきますし、ライゼルを救うと極悪領主の元に嫁がされエンドが近づいてしまう。
ですけど、頭パーツエンドの方が近い未来だから、ライゼルを支援したのでしたっけ。
「思い出したました。あなた、頭にランプぶつけて泣いてた」
「はい。そして八つ当たりで、まだ幼いミューゼア嬢に殴り掛かりました」
あら? そうでしたっけ、私どうしたのかしら。
記憶になかったので彼に問うてみると、ギリアムはクスリと笑い。
「逆にワンパンでノされましたよ。見事な右ストレートでした」
きゃああ、なんとはしたない。記憶にありません!
「倒れた俺に『そんなだから今でもおねしょをするのです』と。誰にも秘密なはずのことまで知っておられて。それ以来、俺は女性恐怖症です」
そんなことまで!
もう心の中で平謝りです。でも彼の語りがなんだか楽しくて。
「ふふ、ごめんなさい」
「……ようやく笑ってくださいましたね」
「え?」
「よかった、ずいぶん塞ぎ込んでらっしゃるようでしたから」
……私は、結局破滅エンドになってしまったと思ってここにやってきました。
人生の終わりだと思ってここにやってきました。
それなのに、ここにはなぜか優しい領主さまと、綺麗で肥沃な土地が待っていたのです。
……なにも変えられなかったと、これまで思っていました。
だけどギリアムは――ギリアムさまは変わってらっしゃった。私が知っている限り、唯一良い方向の変化があった存在。
私が、ずっと一人で戦ってきたと思っていたこの世界で、私の言葉が誰かの心に触れていたなんて――。
もしかしたら私もまだ、終わらずに済むのかもしれない。
彼と一緒なら、これから未来を幸せなものに変えていけるのかもしれない。
「な、なにを泣いてらっしゃるのですかミューゼア嬢!?」
「え? ――あ」
気がつけば涙が溢れていました。止まらない。
「どうしよう、お、俺はなにか粗相を申しましたでしょうか!?」
オロオロと、狼狽えながら私に気を遣ってくださるこの方を、私は頼もしく思うと同時にかわいいと思ってしまいました。
「なんでもないのです。なんでも」
ああ、この希望を信じてよいのでしょうか。
私がすがるようにギリアムさまを見つめると、女性が苦手と仰るこの方はぎこちなくも笑い、でも優しい目を向けてくださいます。
「よくわかりませんが」
とギリアムさまは頭を掻いた。
「とりあえず屋敷に急いで飯を食べましょう。満腹になれば、きっと心も落ち着きますよ」
「……はい、ありがとうございます」
嬉しい。私は、まだやれる。
ギリアムさまと一緒なら、私たちの破滅エンドを変えられるに違いない。
「ギリアムさま、私、頑張ります! 中央の陰謀が迫ってますから、一緒に公爵家を叩き潰しましょう!」
「え。なにそれ怖い」
なんかドンびきされてしまいました。