(今夜は、悪夢が来ませんように)
夢の中で何度も繰り返す、真っ赤に染まったあの海。
おばあちゃんが倒れたときの、鈍い銃声と、濡れた床の感触。
本当は、ボイスレコーダーで証拠を残したかった。
でも、ボスに仕掛けられた盗聴器がそれを許さない。
だから、わたしなりのやり方で――もう一台のスマホに、静かにメモを打ち込む。
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・ボスからの命令
・業務委託リストの指示
・持参時刻:17時
そして最後に、一行だけ。
『誰かわたしを助けて』
どうか、誰かに気づいてほしい——そんな気持ちは、甘えなんだろうか。
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暴走なんて、したくなかった。
ただ、生きるために、誰にも見えない場所で叫びたかった。
(誰かが、これに気づいてくれたら……)
小さな希望だったけど、それがなければ、もう立っていられなかった。
わたしは、いつか殺される。
それを、自分でもうすうす分かっている。
死ぬのが怖いというより、もう怖さに慣れてしまった。
そんなとき――
ふと、ある人の顔が浮かんだ。
渡辺さん。
無口で、感情を見せない人。
でも、わたしは知っている。
その目の奥に、誰よりも静かなあたたかさを隠していることを。
(……本当は、恋、してみたかった)
“してみたかった”の主語は、わたし。
でも、そこに重なるように、彼の顔があった。
気づいてほしかった。
誰かじゃなくて――渡辺さんに。
指先がメモ画面の上で止まる。
⸻
「何してるの? 真奈美? 大丈夫?」
優香の声が、ノックと共に聞こえた。
現実に引き戻される。
「……なんでもない」
顔を整えてドアを開けると、
いつもの空気が、そこには戻っていた。
カウンターの奥では、渡辺さんが料理人の
その横顔がちらりとこちらを向く。
でも、すぐに視線は逸らされた。
(……気づいてる? わたしの異変に)
そんなはず、ない。
でも、期待してしまう。
そんな自分を責めたくても、責めきれない。
石川さんがわたしに手を振る。
「まるで犬みたい」と、優香が笑う。
わたしも、笑った。
作られた笑顔。
でも、それしかできなかった。
カバンの中に、スマホを押し込む。
画面のメモごと、見えない奥へしまい込む。
(……ほんの少しだけ。誰かに、気づいてほしかった)
そう思った気持ちは、間違いじゃない。
でも“助けて”って、誰にも言えないまま、生きていくしかない。