無理やり入社させられて、三週間が経っていた。
最初のうちは、スパイ活動は禁止されていた。
『三週間で慣れろ。壊滅はそれからだ』
ボスの冷たい声が、まだ耳に残っている。
『お前は、おばあちゃんのようになりたくはなかろう』
脳裏に浮かぶのは、あの夜。
おばあちゃんが撃たれた光景。
心に焼きついて、今でも離れない。
(どうせ、最後は殺すつもりなんでしょう?)
心の中でそうつぶやいた。
けれど、どこかで、わずかに願っていた。
ーーもし、わたしが犠牲になるとしても。
せめて、証拠を残せれば。
誰かが組織を壊してくれるかもしれない。
『暁の朝』も、『赤と青』も。
人の心を踏みにじるなら、壊れて当然だ。
おばあちゃんも、そう思っている気がした。
それに、今回の任務は『赤と青』の壊滅。
同じ裏社会の組織を潰すなら――
自分の手が汚れても、意味があると思えた。
(……せめて、最後くらい。誰かの役に立ちたい)
震えているのに、心は静かだった。
ささやかな覚悟を胸に、午後の業務へと戻る。
‥‥‥‥
「真奈美? 元気ないけど、どうしたの?」
ふいに覗き込んできたのは、隣の席の優香。
「え……ううん、別に」
首を傾げてにやっと笑う。
「もしかして、渡辺さんのこと考えてた?」
「え?」
顔が熱くなった。
「ふふ。協力するよ!」
「う、うん……ありがとう」
少しだけ笑いながら答えたけれど、胸の奥がざわついた。
(でも、違うの。告白なんて、できない)
だって、わたしは構成員だ。
そんなわたしが、人を好きになるなんて――
その人を巻き込むだけ。
(……それでも、近づきたかった)
‥‥‥‥
午後一番のチャイム。
椅子に座り直して、深呼吸。
社内システムにログインし、USBを手にとる。
(善人を泣かせる組織なんて、この世にいらない)
手が震えた。
でも止まらない。
ここで失敗すれば、命はない。
(もう少し……)
耳に刺さるキーボードの音。
いつもより、大きく感じたのは罪悪感のせいだろう。
(……終わった)
リストを閉じて、少し息を吐く。
‥‥‥‥
「真奈美は今日、早く帰れるんだよねー」
隣から優香の声。
「え? ええ。どうしても……会わなきゃいけなくて」
「ふーん。誰に?」
一瞬、迷ってから言葉を選ぶ。
「……親の知り合い」
「そっか、いいなー。わたしは明日デートだよ、ふふっ」
言いながら、嬉しそうに笑う優香。
わたしは、その笑顔を見ながら、
自分の笑い方を、忘れそうになっていた。
(……渡辺さん)
ちらりと目を向けて、またすぐ目をそらす。
(こんなわたしが、見つめていい人じゃない)
‥‥‥‥
立ち上がって、コーヒーメーカーへ。
「コーヒー淹れるね」
「よろしく〜」
作業するふりをしながら、ポケットのスマホを手にとった。
素早くメールを打つ。
【リスト取得済。異常なし】
すぐに返信が届く。
【今夜の拳銃の受け取り、遅れるな】
(……お礼くらい言ってくれてもいいのに)
誰に届くわけでもない愚痴を心の中でつぶやく。
祖父も父母も、ボスに逆らえなかった。
でも、わたしには、それが正しいとは思えなかった。
だから、できることをする。
できる範囲で、抗う。
人数分のカップを手に、席へ戻ろうとしたとき。
空気が、変わった。
何かが起きる前触れのように、
静かなざわめきが、オフィスを包んでいた。