スマホの入ったカバンを片手に、人数分のコーヒーを運ぶ。
落とさないように。
こぼさないように。
たったそれだけの動作に、全身が張りつめていた。
(普通に。何もなかったように。……普通でいなきゃ)
社内のざわめきが、やけに耳に刺さる。
スパイとして任務を果たした直後の空気は、どこか異質で、
目に入るすべてが、いつもと違って見えた。
でも、顔には出さない。
わたしは、ただの社員。
そう思わせるしかない。
「渡辺さん。コーヒーです」
そっと差し出すと、
渡辺さんはふと顔を上げた。
「……ありがとう」
その短い声が、胸の奥に落ちた。
息を吸うのも忘れそうになる。
(……声、聞いちゃった)
その一言だけで、心臓が跳ねる。
好きになってはいけない人。
それなのに、耳に届いた声の温度が、心の中にじんわりと広がっていく。
渡辺さんが、少しだけ視線をこちらに向けた。
一瞬、鋭く。
「何か?」
「……いえ。失礼します」
見つめすぎていたかもしれない。
それに気づいて、急いで頭を下げる。
――渡辺さんの声も、目も、優しさも。
すべて、心を奪うには十分すぎた。
配り終えたコーヒーのトレーを片手に、自分の席に戻る。
ドクンドクンと跳ねる心臓の音。
冷えた指先を、膝の上でそっと握りしめる。
(落ち着け。普通に……)
だけど、空気は明らかにおかしい。
社内の視線が、なぜかこちらに向いている気がした。
まるで、裏切りがばれているような、圧力。
「真奈美? 手、止まってるけど、どうかした?」
優香の声に、ハッとして顔を上げた。
「ううん。なんでもないわ」
作り笑いを浮かべて、ディスプレイに向き直る。
ーー笑顔を崩しちゃいけない。
ここで気づかれたら、終わりだ。
わたしは『暁の朝』にとって、いつでも処分できる“捨て駒”。
ならば、何かを残すしかない。
(まだ……死ねない)
(まだ、このまま終われない)
⸻
「おい、
鋭い声に、身体が反射的に跳ねた。
「はい!」
社長の息子、
目の奥が笑っていない。
「今夜、残業だ」
「……え?」
背筋を、冷たい汗が伝う。
(今夜は、拳銃の受け渡しが……)
予定が狂う。
けれど、無理に逆らえば、今度はそれで殺されるかもしれない。
「友澤さん。早乙女さん、用事があるみたいですよ」
不意に、優香が割って入った。
(え……?)
わたしをかばうような言葉。
思わず顔を向けると、彼女はごく自然に笑っていた。
「仕事が先だろう?」
「でも、今日中じゃなくても間に合いますよね。明日の朝一で提出すれば充分では?」
一拍の沈黙。
そして、舌打ち。
「……わかった」
安堵で、胸がふっとゆるんだ。
でも。
その直後。
友澤さんの視線が、まっすぐわたしに突き刺さる。
笑っていた。
すべて知っているような顔で。
(……終わってない)
この場はしのげた。
でも、終わってはいない。
わたしは、カバンの中のスマホにそっと指を伸ばした。
(今ここで声を上げるくらいなら、
せめて証拠を残して。誰かに託せるように)
“助けて”と叫ぶのは、今じゃない。
だから今は、ただ息を潜めて。
この役目を最後まで演じきる。
そう信じて、わたしは静かに、前を向いた。