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第4話

 スマホの入ったカバンを片手に、人数分のコーヒーを運ぶ。


 落とさないように。

 こぼさないように。


 たったそれだけの動作に、全身が張りつめていた。


 (普通に。何もなかったように。……普通でいなきゃ)


 社内のざわめきが、やけに耳に刺さる。

 スパイとして任務を果たした直後の空気は、どこか異質で、

 目に入るすべてが、いつもと違って見えた。


 でも、顔には出さない。

 わたしは、ただの社員。

 そう思わせるしかない。


 「渡辺さん。コーヒーです」


 そっと差し出すと、

 渡辺さんはふと顔を上げた。


 「……ありがとう」


 その短い声が、胸の奥に落ちた。

 息を吸うのも忘れそうになる。


 (……声、聞いちゃった)


 その一言だけで、心臓が跳ねる。


 好きになってはいけない人。

 それなのに、耳に届いた声の温度が、心の中にじんわりと広がっていく。


 渡辺さんが、少しだけ視線をこちらに向けた。

 一瞬、鋭く。


 「何か?」


 「……いえ。失礼します」


 見つめすぎていたかもしれない。

 それに気づいて、急いで頭を下げる。


 ――渡辺さんの声も、目も、優しさも。

 すべて、心を奪うには十分すぎた。


 配り終えたコーヒーのトレーを片手に、自分の席に戻る。

 ドクンドクンと跳ねる心臓の音。

 冷えた指先を、膝の上でそっと握りしめる。


 (落ち着け。普通に……)


 だけど、空気は明らかにおかしい。

 社内の視線が、なぜかこちらに向いている気がした。


 まるで、裏切りがばれているような、圧力。


 「真奈美? 手、止まってるけど、どうかした?」


 優香の声に、ハッとして顔を上げた。


 「ううん。なんでもないわ」


 作り笑いを浮かべて、ディスプレイに向き直る。


 ーー笑顔を崩しちゃいけない。

 ここで気づかれたら、終わりだ。


 わたしは『暁の朝』にとって、いつでも処分できる“捨て駒”。

 ならば、何かを残すしかない。


 (まだ……死ねない)


 (まだ、このまま終われない)



 「おい、早乙女さおとめ!」


 鋭い声に、身体が反射的に跳ねた。


 「はい!」


 社長の息子、友澤ともさわさん。

 目の奥が笑っていない。


 「今夜、残業だ」


 「……え?」


 背筋を、冷たい汗が伝う。


 (今夜は、拳銃の受け渡しが……)


 予定が狂う。

 けれど、無理に逆らえば、今度はそれで殺されるかもしれない。


 「友澤さん。早乙女さん、用事があるみたいですよ」


 不意に、優香が割って入った。


 (え……?)


 わたしをかばうような言葉。

 思わず顔を向けると、彼女はごく自然に笑っていた。


 「仕事が先だろう?」


 「でも、今日中じゃなくても間に合いますよね。明日の朝一で提出すれば充分では?」


 一拍の沈黙。

 そして、舌打ち。


 「……わかった」


 安堵で、胸がふっとゆるんだ。

 でも。


 その直後。

 友澤さんの視線が、まっすぐわたしに突き刺さる。


 笑っていた。

 すべて知っているような顔で。


 (……終わってない)


 この場はしのげた。

 でも、終わってはいない。


 わたしは、カバンの中のスマホにそっと指を伸ばした。


 (今ここで声を上げるくらいなら、

 せめて証拠を残して。誰かに託せるように)


 “助けて”と叫ぶのは、今じゃない。


 だから今は、ただ息を潜めて。

 この役目を最後まで演じきる。


 そう信じて、わたしは静かに、前を向いた。

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