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第5話

 友澤さんは、さっきまでの不機嫌さが嘘だったかのように、不気味な笑みを浮かべて近づいてきた。


「ここの取引先リストな。ちょっと整理してくれないか?」


 手渡された紙束は、思っていたよりも厚かった。


(……重い)


 ただの紙なのに、腕と肩にのしかかるような重さだった。

 その中身に、わたしはまだ触れてもいない。


「今日はこれだけだ。小坂は会議に出てくれ」


 優香の返事も待たず、背中を向けて立ち去る。


「良かったね、真奈美。定時で帰れそうで」


 優香が軽く笑った。


 その明るさに、わたしは一瞬だけ、現実に引き戻された。


(……確かに、これくらいなら)


 焦らず、慌てず、与えられた作業に集中すればいい。

 そう自分に言い聞かせて、紙束を机の上に置いた。


 けれどーー。


「早乙女」


「はい!」


 反射的に立ち上がってしまった。


 友澤さんが、リストの中の一行を指差す。


「ここ、もう切ってるから、削除しとけよ」


 指先が示したのは、「オレンジ運輸」だった。


「……はい」


 名前を言われなくても、削除するつもりだった。

 でも、なぜここだけをわざわざ?


(……おかしい)


 どこかに仕掛けられている罠のような違和感。

 わたしは、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、深呼吸をした。


 カップに残ったコーヒーに目をやると、いつの間にか空になっていた。


(飲んだんだ……知らないうちに)


 自分がどれほど張りつめていたかに、ようやく気づく。


 そのとき。


「早乙女さん」


 名前を呼ばれて、背筋が伸びる。


 振り返ると、早川はやかわさんが立っていた。

 相変わらず冷静な目つきで、声を潜めてくる。


「……失敗しないようにね。友澤さん、ああいう頼み方する時は、何かある」


「何か……って?」


 問い返すと、さらに声が低くなる。


「あなた、入社した頃ミスしてたでしょう。あれ、渡辺さんが直してたのよ。黙って、自然に」


「え……」


「言葉にしなくても、守る人っているのよ。友澤さんは、そんなこと絶対しないけどね」


 早川さんは、笑みを残して立ち去った。


 わたしは、しばらくその場に立ち尽くした。


(渡辺さんが……?)


 怒らず、叱らず、何も言わずに、わたしの失敗を直してくれていた。


 気づかれないように。傷つかないように。

 ただ、そっと。


 誰かが仕掛けた“優しさ”が、今のわたしを動かしている。


 あの人の優しさは、見せるものではなく、隠すものだったんだ。


 そのことを思うだけで、手の震えが少しだけ収まった気がした。


 ディスプレイの右上に表示された名前に、ふと目が止まる。


 『オレンジ運輸』


 調べてみると、その会社は2年前に倒産していた。


(どうして今、これを……)


 背中を伝う冷たい感覚。

 これは偶然じゃない。


 わたしにこの情報を触らせることに、何か意味がある。

 きっと、誰かがわたしの動きを見ている。


(……もう、始まってる)


 ここにいる全員が、知らないうちに渦に巻き込まれている。

 この空気。この静けさ。このざわめき。

 すべてが、何かを知らせている。


 そっと、カバンの中のスマホを撫でた。


(助けて……でも、今じゃない)


 押し込めた言葉は、指先まで震えを伝える。

 けれど、今動けばすべてが崩れる。


 だから、まだ耐える。


 誰かを巻き込むくらいなら、証拠を残して、託す。


 そう決めたから。


 だから笑う。

 苦しくても、微笑む。


 その人の声を思い出しながら。


(渡辺さん……)


(あなたの声、忘れない。たった一言でも)


(いつかこの想いが、報われることはなくても)


 胸に湧いた切なさを押し殺しながら、わたしは、また画面へと向き直った。

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