友澤さんは、さっきまでの不機嫌さが嘘だったかのように、不気味な笑みを浮かべて近づいてきた。
「ここの取引先リストな。ちょっと整理してくれないか?」
手渡された紙束は、思っていたよりも厚かった。
(……重い)
ただの紙なのに、腕と肩にのしかかるような重さだった。
その中身に、わたしはまだ触れてもいない。
「今日はこれだけだ。小坂は会議に出てくれ」
優香の返事も待たず、背中を向けて立ち去る。
「良かったね、真奈美。定時で帰れそうで」
優香が軽く笑った。
その明るさに、わたしは一瞬だけ、現実に引き戻された。
(……確かに、これくらいなら)
焦らず、慌てず、与えられた作業に集中すればいい。
そう自分に言い聞かせて、紙束を机の上に置いた。
けれどーー。
「早乙女」
「はい!」
反射的に立ち上がってしまった。
友澤さんが、リストの中の一行を指差す。
「ここ、もう切ってるから、削除しとけよ」
指先が示したのは、「オレンジ運輸」だった。
「……はい」
名前を言われなくても、削除するつもりだった。
でも、なぜここだけをわざわざ?
(……おかしい)
どこかに仕掛けられている罠のような違和感。
わたしは、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、深呼吸をした。
カップに残ったコーヒーに目をやると、いつの間にか空になっていた。
(飲んだんだ……知らないうちに)
自分がどれほど張りつめていたかに、ようやく気づく。
そのとき。
「早乙女さん」
名前を呼ばれて、背筋が伸びる。
振り返ると、
相変わらず冷静な目つきで、声を潜めてくる。
「……失敗しないようにね。友澤さん、ああいう頼み方する時は、何かある」
「何か……って?」
問い返すと、さらに声が低くなる。
「あなた、入社した頃ミスしてたでしょう。あれ、渡辺さんが直してたのよ。黙って、自然に」
「え……」
「言葉にしなくても、守る人っているのよ。友澤さんは、そんなこと絶対しないけどね」
早川さんは、笑みを残して立ち去った。
わたしは、しばらくその場に立ち尽くした。
(渡辺さんが……?)
怒らず、叱らず、何も言わずに、わたしの失敗を直してくれていた。
気づかれないように。傷つかないように。
ただ、そっと。
誰かが仕掛けた“優しさ”が、今のわたしを動かしている。
あの人の優しさは、見せるものではなく、隠すものだったんだ。
そのことを思うだけで、手の震えが少しだけ収まった気がした。
ディスプレイの右上に表示された名前に、ふと目が止まる。
『オレンジ運輸』
調べてみると、その会社は2年前に倒産していた。
(どうして今、これを……)
背中を伝う冷たい感覚。
これは偶然じゃない。
わたしにこの情報を触らせることに、何か意味がある。
きっと、誰かがわたしの動きを見ている。
(……もう、始まってる)
ここにいる全員が、知らないうちに渦に巻き込まれている。
この空気。この静けさ。このざわめき。
すべてが、何かを知らせている。
そっと、カバンの中のスマホを撫でた。
(助けて……でも、今じゃない)
押し込めた言葉は、指先まで震えを伝える。
けれど、今動けばすべてが崩れる。
だから、まだ耐える。
誰かを巻き込むくらいなら、証拠を残して、託す。
そう決めたから。
だから笑う。
苦しくても、微笑む。
その人の声を思い出しながら。
(渡辺さん……)
(あなたの声、忘れない。たった一言でも)
(いつかこの想いが、報われることはなくても)
胸に湧いた切なさを押し殺しながら、わたしは、また画面へと向き直った。