たった一言で、救われることがある。
それだけで、生きていこうと思えることがある。
定時。ボスの指定した時間に間に合うよう、仕事を終える。
エレベーターの前に立つと、背後から足音がして、渡辺さんが現れた。
(まさか、ここで二人きり……)
いつもなら、誰かしらいるのに。
タイミングが悪いのか、それとも。
(……落ち着け。落ち着け)
頭ではそう言い聞かせても、心がざわついて仕方なかった。
今日、早川さんから聞いた話。
あれだけは、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
「あの!」
思わず声を上げた、その瞬間。
エレベーターが開く。
渡辺さんは何も言わず、静かに片手を差し出した。
わたしを、先に中へ促す。
(……中で、少しだけなら話せるかもしれない)
冷房の効いた箱の中。
それなのに、頬はほんのり熱を帯びていた。
「あの、今日……早川さんに聞きました。
わたしが入社したばかりの頃……ミスを直してくださってたって」
緊張で息が浅くなる。
言葉を選びながら、必死に声を整えた。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
静かな間。
そして、「……気にするな」とだけ、短く返された。
それだけの言葉なのに、不思議と胸がすっと軽くなる。
(……どうして)
「どうして、そんなこと……?」
我ながら、不意だった。
でも、どうしても聞きたかった。
渡辺さんは少し間をおいて、わたしを見た。
「……早川が、怒りすぎてたからな。
そろそろ、心が折れそうな顔をしていたから――」
胸が、きゅっと締めつけられた。
(ちゃんと、見てくれていたんだ)
誰かが、気づいてくれていた。
たったそれだけのことなのに、心がふわっとあたたかくなった。
この静けさが、心地いいと思えるなんて。
そのとき。
ポケットのスマホが、ぶるっと震えた。
(……現実に戻れ、ってこと)
冷たいものが背筋を伝う。
「……見ないのか?」
渡辺さんの声。
低く、静かに、でも確かにわたしを現実へ引き戻した。
「……ええ、見ます」
スマホの画面を開く。
【友澤の仕事について、すべて報告しろ】
冷たい命令が並んでいるだけなのに、心が急にざわついた。
ほどなくして、エレベーターが止まった。
扉が開き、渡辺さんがまた手を出してくれた。
それを断る理由なんて、どこにもなかった。
「ありがとうございます」
「お疲れ」
そのやりとりすら、胸の奥に深く染みこんでくる。
(……これが恋なのかどうか、まだわからない)
でも、避けられなかった。
そう思った。
歩き出した彼の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
(ほんとうに、何者なんだろう)
スマホが、再び震えた。
【その男を殺されたくなければ、さっさとしろ】
血の気が引く。
指先がかすかに震える。
(……そんなこと、させない)
これは衝動じゃない。
明確な意志。
あの夜、おばあちゃんを守れなかった自分を、
二度と繰り返さないための選択。
わたしは、必要な情報を打ち込み、ボスに送信した。
───
会社の玄関を出ると、定食屋の石川さんが立っていた。
「やあ、お疲れ」
「お疲れ様です」
いつもの明るい笑顔。
ほんの少しだけ、心がゆるむ。
「ねえ、真奈美ちゃん。明日の休み、どこか行かない?」
「用事があって……」
「そっか。別にいつでもいいんだけど、二人でどこか行かない?」
「えっと……」
一瞬、言葉に詰まった。
(本当は……そんな日が来たらいいのに)
でも、今は無理だ。
冷静に、ちゃんと断らなきゃいけない。
「その話は……受けられません」
「そ、そう……また食べに来てよ」
「うん。また行きます。卵焼き、美味しかったから」
それだけ言って、足早にその場を離れた。
(誤魔化したくない。中途半端に、期待も持たせたくない)
時計を見る。
ギリギリの時間が迫っていた。
(行かなきゃ)
ボス。
あなたは、わたしの時間も、心も、命さえも支配しようとする。
でも――
すべてを、渡すわけにはいかない。