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第6話 命より重いもの

 たった一言で、救われることがある。

 それだけで、生きていこうと思えることがある。


 定時。ボスの指定した時間に間に合うよう、仕事を終える。

 エレベーターの前に立つと、背後から足音がして、渡辺さんが現れた。


(まさか、ここで二人きり……)


 いつもなら、誰かしらいるのに。

 タイミングが悪いのか、それとも。


(……落ち着け。落ち着け)


 頭ではそう言い聞かせても、心がざわついて仕方なかった。

 今日、早川さんから聞いた話。

 あれだけは、ちゃんとお礼を言わなきゃ。


「あの!」


 思わず声を上げた、その瞬間。


 エレベーターが開く。


 渡辺さんは何も言わず、静かに片手を差し出した。

 わたしを、先に中へ促す。


(……中で、少しだけなら話せるかもしれない)


 冷房の効いた箱の中。

 それなのに、頬はほんのり熱を帯びていた。


「あの、今日……早川さんに聞きました。

 わたしが入社したばかりの頃……ミスを直してくださってたって」


 緊張で息が浅くなる。

 言葉を選びながら、必死に声を整えた。


「ありがとうございました」


 深く頭を下げる。


 静かな間。

 そして、「……気にするな」とだけ、短く返された。


 それだけの言葉なのに、不思議と胸がすっと軽くなる。


(……どうして)


「どうして、そんなこと……?」


 我ながら、不意だった。

 でも、どうしても聞きたかった。


 渡辺さんは少し間をおいて、わたしを見た。


「……早川が、怒りすぎてたからな。

 そろそろ、心が折れそうな顔をしていたから――」


 胸が、きゅっと締めつけられた。


(ちゃんと、見てくれていたんだ)


 誰かが、気づいてくれていた。

 たったそれだけのことなのに、心がふわっとあたたかくなった。


 この静けさが、心地いいと思えるなんて。


 そのとき。


 ポケットのスマホが、ぶるっと震えた。


(……現実に戻れ、ってこと)


 冷たいものが背筋を伝う。


「……見ないのか?」


 渡辺さんの声。

 低く、静かに、でも確かにわたしを現実へ引き戻した。


「……ええ、見ます」


 スマホの画面を開く。


【友澤の仕事について、すべて報告しろ】


 冷たい命令が並んでいるだけなのに、心が急にざわついた。


 ほどなくして、エレベーターが止まった。


 扉が開き、渡辺さんがまた手を出してくれた。

 それを断る理由なんて、どこにもなかった。


「ありがとうございます」


「お疲れ」


 そのやりとりすら、胸の奥に深く染みこんでくる。


(……これが恋なのかどうか、まだわからない)


 でも、避けられなかった。

 そう思った。


 歩き出した彼の背中が、少しずつ遠ざかっていく。


(ほんとうに、何者なんだろう)


 スマホが、再び震えた。


【その男を殺されたくなければ、さっさとしろ】


 血の気が引く。

 指先がかすかに震える。


(……そんなこと、させない)


 これは衝動じゃない。

 明確な意志。


 あの夜、おばあちゃんを守れなかった自分を、

 二度と繰り返さないための選択。


 わたしは、必要な情報を打ち込み、ボスに送信した。


───


 会社の玄関を出ると、定食屋の石川さんが立っていた。


「やあ、お疲れ」


「お疲れ様です」


 いつもの明るい笑顔。

 ほんの少しだけ、心がゆるむ。


「ねえ、真奈美ちゃん。明日の休み、どこか行かない?」


「用事があって……」


「そっか。別にいつでもいいんだけど、二人でどこか行かない?」


「えっと……」


 一瞬、言葉に詰まった。


(本当は……そんな日が来たらいいのに)


 でも、今は無理だ。

 冷静に、ちゃんと断らなきゃいけない。


「その話は……受けられません」


「そ、そう……また食べに来てよ」


「うん。また行きます。卵焼き、美味しかったから」


 それだけ言って、足早にその場を離れた。


(誤魔化したくない。中途半端に、期待も持たせたくない)


 時計を見る。

 ギリギリの時間が迫っていた。


(行かなきゃ)


 ボス。

 あなたは、わたしの時間も、心も、命さえも支配しようとする。


 でも――

 すべてを、渡すわけにはいかない。


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