約束の場所。
待っていた男は、無言で茶封筒をわたしに押し付けると、何も言わずに背を向けて走り去った。
中身の扱い方も、注意も、指示すらない。
(つまり……)
何かあったとき、捕まるのは“わたし”だけ。
拳銃を持たされていたスパイが捕まった――ただ、それだけで終わるように。
“銃刀法違反”で逮捕されても、組織は知らぬ顔を通せる。
そうやって切り捨てられる構造を、わたしは最初から知っていた。
でも、実際にそれを突きつけられて、
こんなにも静かに悔しくなるなんて、思っていなかった。
茶封筒をカバンにしまい込み、もう一台のスマホを手に取る。
目の前の出来事を、客観的に、冷静に――。
そう思って打ち込むメモの文字は、かすかに滲んだ。
(悔しい。怖い。でも……崩れたくない)
泣くことはできなかった。
けれど、感情を見ないふりをしたら、わたしはきっと壊れる。
(今、警察に行っても無駄)
証拠は足りない。
通報したところで、逮捕されるのはわたしだけだ。
あの冬の日。
おばあちゃんが殺された翌朝。
警察に行こうとしたわたしの腕を、母が強く引いた。
(どうして……おばあちゃんを殺されたのに、黙って従うの?)
その疑問を声にすることは、ずっと許されなかった。
でも、胸の中ではずっと叫んでいた。
わたしは“捨て駒”。
ずっとそう扱われてきた。
だけど、それでも。
だからこそ、決めていた。
(わたしが、証拠を集めて、終わらせる)
それが、わたしの復讐であり、救いだった。
大学時代の本名で契約した、もう一台のスマホ。
『毛利帆奈』という名前にすがるように。
(資金が尽きる前に……わたしが組織を潰す)
遠くに沈む夜の空。
誰かがわたしを見てくれているとは思えない。
でも、願わずにはいられなかった。
ふと、夕方のメールが頭をよぎる。
【その男を殺されたくなければ】
ボスの脅し。
(……好きだったのに)
思わず、胸の奥で言葉がこぼれた。
口には出せない。
でも確かにあった、渡辺さんへの想い。
無口で、感情を表に出さない人。
でも、わたしの小さな失敗を、黙って直してくれた。
何も言わず、ただそこにいてくれるだけで、心が落ち着いた。
わたしが望んでもいなかった安らぎを、なぜか彼はくれた。
ーーそれなのに、その人すら脅しの対象になる。
あの人は、ただの社員だ。
わたしのような存在と関わるべきではない。
でも、それでも。
たった一言、言ってみたかった。
(……たすけて)
夢の中で、ようやくその言葉を声にできた。
「たすけて」って、言えないまま生きてきた。
それでも、生きようと思える人に、出会ってしまった。
おばあちゃんの卵焼きの匂い。
隣には、静かに食事をしてくれる渡辺さんの姿。
「渡辺さ、ん」
たった一言、名前を呼ぶだけで、幸せな気持ちになるなんてーー。
(こんな普通の時間が、わたしにもあれば……)
朝。
目を開けると、現実がそこにあった。
机の上。
封筒から取り出された拳銃が、そこにある。
(これで、命が奪える)
その重さに、息が浅くなる。
おばあちゃんを奪った銃声。
わたしの中に今も残る、その残響。
(終わらせたい。でも、焦っちゃいけない)
冷たいスマホの画面。
“スパイをやめたい”と打ちかけた言葉に、指が震える。
(今はまだ、言えない)
心のどこかが、そう告げていた。
でも、きっと。
言うことなく終わらせる。
また、あの人に、本当の言葉で伝えたい。
助けて、じゃなくて。
たった2文字の言葉をーー。
(その日まで、わたしは生きたい)