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第7話

 約束の場所。


 待っていた男は、無言で茶封筒をわたしに押し付けると、何も言わずに背を向けて走り去った。


 中身の扱い方も、注意も、指示すらない。


(つまり……)


 何かあったとき、捕まるのは“わたし”だけ。


 拳銃を持たされていたスパイが捕まった――ただ、それだけで終わるように。


 “銃刀法違反”で逮捕されても、組織は知らぬ顔を通せる。

 そうやって切り捨てられる構造を、わたしは最初から知っていた。


 でも、実際にそれを突きつけられて、

 こんなにも静かに悔しくなるなんて、思っていなかった。


 茶封筒をカバンにしまい込み、もう一台のスマホを手に取る。


 目の前の出来事を、客観的に、冷静に――。

 そう思って打ち込むメモの文字は、かすかに滲んだ。


(悔しい。怖い。でも……崩れたくない)


 泣くことはできなかった。

 けれど、感情を見ないふりをしたら、わたしはきっと壊れる。


(今、警察に行っても無駄)


 証拠は足りない。

 通報したところで、逮捕されるのはわたしだけだ。


 あの冬の日。

 おばあちゃんが殺された翌朝。


 警察に行こうとしたわたしの腕を、母が強く引いた。


(どうして……おばあちゃんを殺されたのに、黙って従うの?)


 その疑問を声にすることは、ずっと許されなかった。


 でも、胸の中ではずっと叫んでいた。


 わたしは“捨て駒”。

 ずっとそう扱われてきた。


 だけど、それでも。

 だからこそ、決めていた。


(わたしが、証拠を集めて、終わらせる)


 それが、わたしの復讐であり、救いだった。


 大学時代の本名で契約した、もう一台のスマホ。

 『毛利帆奈』という名前にすがるように。


(資金が尽きる前に……わたしが組織を潰す)


 遠くに沈む夜の空。

 誰かがわたしを見てくれているとは思えない。


 でも、願わずにはいられなかった。


 ふと、夕方のメールが頭をよぎる。


【その男を殺されたくなければ】


 ボスの脅し。


(……好きだったのに)


 思わず、胸の奥で言葉がこぼれた。


 口には出せない。

 でも確かにあった、渡辺さんへの想い。


 無口で、感情を表に出さない人。

 でも、わたしの小さな失敗を、黙って直してくれた。


 何も言わず、ただそこにいてくれるだけで、心が落ち着いた。

 わたしが望んでもいなかった安らぎを、なぜか彼はくれた。


 ーーそれなのに、その人すら脅しの対象になる。


 あの人は、ただの社員だ。

 わたしのような存在と関わるべきではない。


 でも、それでも。

 たった一言、言ってみたかった。


(……たすけて)


 夢の中で、ようやくその言葉を声にできた。


 「たすけて」って、言えないまま生きてきた。

 それでも、生きようと思える人に、出会ってしまった。



 おばあちゃんの卵焼きの匂い。

 隣には、静かに食事をしてくれる渡辺さんの姿。


「渡辺さ、ん」


 たった一言、名前を呼ぶだけで、幸せな気持ちになるなんてーー。


(こんな普通の時間が、わたしにもあれば……)


 朝。

 目を開けると、現実がそこにあった。


 机の上。

 封筒から取り出された拳銃が、そこにある。


(これで、命が奪える)


 その重さに、息が浅くなる。


 おばあちゃんを奪った銃声。

 わたしの中に今も残る、その残響。


(終わらせたい。でも、焦っちゃいけない)


 冷たいスマホの画面。

 “スパイをやめたい”と打ちかけた言葉に、指が震える。


(今はまだ、言えない)


 心のどこかが、そう告げていた。


 でも、きっと。

 言うことなく終わらせる。


 また、あの人に、本当の言葉で伝えたい。

 助けて、じゃなくて。


 たった2文字の言葉をーー。


(その日まで、わたしは生きたい)


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