目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 組織同士のはざまで

 朝起きると、スマホに大量の通知が届いていた。


(……なにこれ)


 画面をスクロールする指先が、かすかに震える。

 命令、催促、圧力。

 どれも、ボスからのものだった。


(今日は祝日なのに……)


 静かなはずの朝は、「作業指示の確認作業」へとすり替えられた。



 通勤電車は、旅行客でごった返していた。

 押し込まれるように会社にたどり着き、ふと目をやると——

 自分のデスクの前に、人影。


 渡辺さんだった。


 静かにパソコンに向かい、キーボードを叩いている。

 その姿は、まるで周囲の喧騒とは無関係のようだった。


「おはようございます。えっと……祝日なのに、どうして……?」


 平静を装って声をかける。


「ああ、君か」


 淡々とした返事。

 なのに、その声にふわりと救われる感覚があった。


「この間のトラブルの件で、上に提出する資料があってな」


(“上”?)


 思わず顔を上げたけれど、彼の視線はディスプレイの先を見たまま。


(やっぱり……この人は仕事に徹してる)


 少しだけ、胸がきゅっと締めつけられる。


(……でも)


(“赤と青”の件、何か掴んでるのかもしれない)


 根拠はない。勘にすぎない。

 けれど、彼の後ろ姿には、ただの社員とは違う重みがあった。


 そのとき、スマホが震える。

 朝から何度目かの通知。


 【さっさと終わらせろ】

 【赤と青が揉めている】


(もう……始まってる)


 胸の奥が冷たくなる。

 それでも、隣の席の彼は変わらず淡々と作業を続けていた。


(でも今は……巻き込めない)


 無意識に、カバンの中のスマホに触れる。

 その背中を見ながら、そっと息を吸い込んだ。


「わ、わたしも……少し作業が残っていて」


 自然を装って、そう言った。


「そうか」


 その一言だけ。

 それ以上、問いかけてくることはなかった。


 わたしは、彼の“それ以上踏み込まない優しさ”に、ほっとする。


(今だけは、何も聞かないでいてください)


 心の中でそうつぶやきながら、自分の席へ向かった。



 ディスプレイの前に座ると、ボスからのメールが脳裏に浮かんでくる。


【“オレンジ運輸”を消せ】

【業務リストを整理しろ】

【友澤の動きを監視しろ】

【赤と青の情報を送れ】

【公安と繋がってる裏切り者を見つけろ】


(……無理だよ)


 思わず、胸の奥で声が漏れる。

 でも、顔には出さない。


 わたしは訓練も受けていない、ただのスパイ。

 たったひとりで放り込まれた、素人。


(それでもやらなきゃ、終わる)


 それは恐怖じゃない。

 使命感に近いものだった。


 でも――


(できれば、誰も巻き込みたくない)


 向こうでキーボードを打つ音。

 渡辺さんの作業音が、妙にリズムよく耳に残った。


 目を向ければ、彼は真剣に資料に目を通していた。

 まっすぐに、揺れずに。

 それが、すごく羨ましく思えた。


(わたしも、あんなふうに……なりたかったな)


 たった一度でも、何の後ろめたさもなく働ける人生を。

 人に頼りたくなるような人生を。


(……本当は)


 誰かに気づいてほしい。

 助けてって、言いたい。

 でも、それを“彼”に向けてはいけない。


(渡辺さんだけは……)


 言葉にしないまま、視線を落とした。

 スマホを、そっとカバンの中へ戻す。



(わたし、ちゃんとやってるよ)


(嫌々だけど……でも、正しいと思ってる)


 誰かに言いたかった言葉。

 それを、今日もひとりで心にしまい込む。


(なのに、どうして……)


(どうして、こんなに怒られて、追い詰められて)


(理由くらい、誰かに教えてほしいよ)


 向こうの席で、静かに光るモニター。

 渡辺さんの顔が、まるで答えを持っているように見えた。


 でも、その背中には、手を伸ばせなかった。


(……それでも、好きになってしまった)


 ただ、それだけだった。

 ただ、それだけなのに。


 視線の先。少し離れた席で、渡辺さんが静かに資料を確認していた。

 黙々と、無駄のない動き。

 その姿は、誰とも話さず、何も漏らさず、ただ“仕事”に向き合っていた。


(やっぱり、強いな、この人は)


 そう思った。

 隣の席ではないのに、なぜかいちばん近くに感じた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?