朝起きると、スマホに大量の通知が届いていた。
(……なにこれ)
画面をスクロールする指先が、かすかに震える。
命令、催促、圧力。
どれも、ボスからのものだった。
(今日は祝日なのに……)
静かなはずの朝は、「作業指示の確認作業」へとすり替えられた。
⸻
通勤電車は、旅行客でごった返していた。
押し込まれるように会社にたどり着き、ふと目をやると——
自分のデスクの前に、人影。
渡辺さんだった。
静かにパソコンに向かい、キーボードを叩いている。
その姿は、まるで周囲の喧騒とは無関係のようだった。
「おはようございます。えっと……祝日なのに、どうして……?」
平静を装って声をかける。
「ああ、君か」
淡々とした返事。
なのに、その声にふわりと救われる感覚があった。
「この間のトラブルの件で、上に提出する資料があってな」
(“上”?)
思わず顔を上げたけれど、彼の視線はディスプレイの先を見たまま。
(やっぱり……この人は仕事に徹してる)
少しだけ、胸がきゅっと締めつけられる。
(……でも)
(“赤と青”の件、何か掴んでるのかもしれない)
根拠はない。勘にすぎない。
けれど、彼の後ろ姿には、ただの社員とは違う重みがあった。
そのとき、スマホが震える。
朝から何度目かの通知。
【さっさと終わらせろ】
【赤と青が揉めている】
(もう……始まってる)
胸の奥が冷たくなる。
それでも、隣の席の彼は変わらず淡々と作業を続けていた。
(でも今は……巻き込めない)
無意識に、カバンの中のスマホに触れる。
その背中を見ながら、そっと息を吸い込んだ。
「わ、わたしも……少し作業が残っていて」
自然を装って、そう言った。
「そうか」
その一言だけ。
それ以上、問いかけてくることはなかった。
わたしは、彼の“それ以上踏み込まない優しさ”に、ほっとする。
(今だけは、何も聞かないでいてください)
心の中でそうつぶやきながら、自分の席へ向かった。
⸻
ディスプレイの前に座ると、ボスからのメールが脳裏に浮かんでくる。
【“オレンジ運輸”を消せ】
【業務リストを整理しろ】
【友澤の動きを監視しろ】
【赤と青の情報を送れ】
【公安と繋がってる裏切り者を見つけろ】
(……無理だよ)
思わず、胸の奥で声が漏れる。
でも、顔には出さない。
わたしは訓練も受けていない、ただのスパイ。
たったひとりで放り込まれた、素人。
(それでもやらなきゃ、終わる)
それは恐怖じゃない。
使命感に近いものだった。
でも――
(できれば、誰も巻き込みたくない)
向こうでキーボードを打つ音。
渡辺さんの作業音が、妙にリズムよく耳に残った。
目を向ければ、彼は真剣に資料に目を通していた。
まっすぐに、揺れずに。
それが、すごく羨ましく思えた。
(わたしも、あんなふうに……なりたかったな)
たった一度でも、何の後ろめたさもなく働ける人生を。
人に頼りたくなるような人生を。
(……本当は)
誰かに気づいてほしい。
助けてって、言いたい。
でも、それを“彼”に向けてはいけない。
(渡辺さんだけは……)
言葉にしないまま、視線を落とした。
スマホを、そっとカバンの中へ戻す。
⸻
(わたし、ちゃんとやってるよ)
(嫌々だけど……でも、正しいと思ってる)
誰かに言いたかった言葉。
それを、今日もひとりで心にしまい込む。
(なのに、どうして……)
(どうして、こんなに怒られて、追い詰められて)
(理由くらい、誰かに教えてほしいよ)
向こうの席で、静かに光るモニター。
渡辺さんの顔が、まるで答えを持っているように見えた。
でも、その背中には、手を伸ばせなかった。
(……それでも、好きになってしまった)
ただ、それだけだった。
ただ、それだけなのに。
視線の先。少し離れた席で、渡辺さんが静かに資料を確認していた。
黙々と、無駄のない動き。
その姿は、誰とも話さず、何も漏らさず、ただ“仕事”に向き合っていた。
(やっぱり、強いな、この人は)
そう思った。
隣の席ではないのに、なぜかいちばん近くに感じた。