パソコンの操作を続けながら、ふと脳裏をよぎる。
(この会社に……公安がいる?)
朝届いたメールには、『赤と青』が崩れ始めていると書かれていた。
(わたしは言われた通りに業務リストを編集しただけ。それだけなのに)
もう何かが、動き出している。
その現実を、指先の感覚が告げていた。
(じゃあ、わたしが無理をして動かなくても……)
ほんのかすかに、希望が差す。
(勝手に、自滅していくのかもしれない)
それは楽観ではなかった。
ただ、少し冷静に見えてきただけだった。
(“業務リストを渡せ”? 何に使うの?)
(“友澤を監視しろ”? わたしが?)
命令の意味と矛盾を、淡々と並べていく。
今まで怖くて見られなかった隙間に、やっと目を向けられるようになってきた。
(もう終わりが近いなら……)
(今ここで焦って足掻くほうが、かえって危ない)
──
スマホがまた震えた。
その振動が、体の芯を冷やしていく。
ふと渡辺さんを見れば、静かにキーボードを叩いていた。
落ち着いた真剣な顔。ブレない姿勢。
ただそこにいるだけで、不思議とこちらの呼吸も整っていく。
わたしはこっそり机の下でスマホを開く。
【作業指示】
・社内メールの送受信記録を確保せよ
・会議資料をコピーして送れ
・会議内容を録音しろ
【注意】
・『赤と青』内部に裏切り者がいる
・証拠を掴め。掴めなければ、死だ
(……雑だな)
(今日が祝日だって、もう忘れてるのか)
人の少ない社内。会議なんて、そもそもない。
それでも命令は届く。
もう、ボスも冷静じゃいられなくなっている。
(こんなの……命令じゃなくて、ただの暴力)
(でも、選べる。わたしは、選べる)
ただ言われるがままではない。
今、わたしは――自分の判断で動ける。
──
カチャッと音がして、ふと顔を上げた。
渡辺さんが立っていた。
片手には、コーヒーカップ。
もう片方でノートパソコンを閉じながら、わたしのデスクに近づいてくる。
「手伝おうか?」
静かな声。
その言葉だけで、視界のにじみが消えていくようだった。
「……いえ。大丈夫です」
ぎこちなく笑うと、渡辺さんは黙ってカップを置いて、席へ戻っていった。
「ありがとうございます」
「昨日の礼だ。砂糖とミルクは勝手に入れた」
その言葉に、ふと息が詰まる。
わたしが好む甘さを、覚えてくれていた。
(……たった一度のコーヒーだったのに)
命令は止まらない。
でも、たった一言で救われることもある。
カップを持ち上げて、口に含む。
あまい。
やさしい。
たったそれだけなのに、胸がいっぱいになった。
(ちゃんと……見てくれてたんだ)
自分でも気づかないような、小さな一面に気づいてくれた。
それだけで、心の奥がふるえる。
「……美味しいです」
自然にこぼれた言葉。
その一言に、渡辺さんがほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。
(忘れたくない)
たった数秒の出来事なのに、こんなにも鮮明に焼きつく。
──
けれど、目の前にあるのは現実だ。
甘さの奥に潜む、現実。
(わたしはまだ……この場所にいる)
(命令は終わらない)
だけど、ほんの少しでも、耐える理由が増えた気がした。
コーヒーの温もりが残る指で、キーボードに触れる。
(立ち止まらない。わたしは、わたしのやり方で進む)
静かに、もう一度深呼吸した。