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第9話

 パソコンの操作を続けながら、ふと脳裏をよぎる。


(この会社に……公安がいる?)


 朝届いたメールには、『赤と青』が崩れ始めていると書かれていた。


(わたしは言われた通りに業務リストを編集しただけ。それだけなのに)


 もう何かが、動き出している。

 その現実を、指先の感覚が告げていた。


(じゃあ、わたしが無理をして動かなくても……)


 ほんのかすかに、希望が差す。


(勝手に、自滅していくのかもしれない)


 それは楽観ではなかった。

 ただ、少し冷静に見えてきただけだった。


(“業務リストを渡せ”? 何に使うの?)

(“友澤を監視しろ”? わたしが?)


 命令の意味と矛盾を、淡々と並べていく。

 今まで怖くて見られなかった隙間に、やっと目を向けられるようになってきた。


(もう終わりが近いなら……)


(今ここで焦って足掻くほうが、かえって危ない)


──


 スマホがまた震えた。

 その振動が、体の芯を冷やしていく。


 ふと渡辺さんを見れば、静かにキーボードを叩いていた。


 落ち着いた真剣な顔。ブレない姿勢。


 ただそこにいるだけで、不思議とこちらの呼吸も整っていく。


 わたしはこっそり机の下でスマホを開く。


【作業指示】

・社内メールの送受信記録を確保せよ

・会議資料をコピーして送れ

・会議内容を録音しろ


【注意】

・『赤と青』内部に裏切り者がいる

・証拠を掴め。掴めなければ、死だ


(……雑だな)


(今日が祝日だって、もう忘れてるのか)


 人の少ない社内。会議なんて、そもそもない。

 それでも命令は届く。

 もう、ボスも冷静じゃいられなくなっている。


(こんなの……命令じゃなくて、ただの暴力)


(でも、選べる。わたしは、選べる)


 ただ言われるがままではない。

 今、わたしは――自分の判断で動ける。


──


 カチャッと音がして、ふと顔を上げた。


 渡辺さんが立っていた。

 片手には、コーヒーカップ。

 もう片方でノートパソコンを閉じながら、わたしのデスクに近づいてくる。


「手伝おうか?」


 静かな声。


 その言葉だけで、視界のにじみが消えていくようだった。


「……いえ。大丈夫です」


 ぎこちなく笑うと、渡辺さんは黙ってカップを置いて、席へ戻っていった。


「ありがとうございます」


「昨日の礼だ。砂糖とミルクは勝手に入れた」


 その言葉に、ふと息が詰まる。


 わたしが好む甘さを、覚えてくれていた。


(……たった一度のコーヒーだったのに)


 命令は止まらない。

 でも、たった一言で救われることもある。


 カップを持ち上げて、口に含む。


 あまい。

 やさしい。

 たったそれだけなのに、胸がいっぱいになった。


(ちゃんと……見てくれてたんだ)


 自分でも気づかないような、小さな一面に気づいてくれた。

 それだけで、心の奥がふるえる。


「……美味しいです」


 自然にこぼれた言葉。

 その一言に、渡辺さんがほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。


(忘れたくない)


 たった数秒の出来事なのに、こんなにも鮮明に焼きつく。


──


 けれど、目の前にあるのは現実だ。

 甘さの奥に潜む、現実。


(わたしはまだ……この場所にいる)


(命令は終わらない)


 だけど、ほんの少しでも、耐える理由が増えた気がした。


 コーヒーの温もりが残る指で、キーボードに触れる。


(立ち止まらない。わたしは、わたしのやり方で進む)


 静かに、もう一度深呼吸した。


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