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第10話 賭け

 パソコンの前に戻ったわたしは、静かに深呼吸をした。

 ボスからの命令を一つずつ整理する。何ができて、何が危険か。どこまでなら、わたしは壊れずに済むか。


(焦ってる……ボスも)


 朝からの雑な指示、やけに多い催促。

 言葉の隙間に、余裕のなさが滲んでいた。


(もう……組織が、崩れてきてる)


 『暁の朝』と『赤と青』。

 内側から疑い合って、音もなく崩壊していく。

 そのなかで、スパイに命令を出すことすら乱れている。


(言われた通りに動いても、もう意味ないのかもしれない)


 ふと、あの一言がよみがえる。


「裏切り者がいる」


 公安がどこかにいるとボスは言った。

 でもそれは、本当に確かな情報なんだろうか。


(もう、わたしの正体……気づかれてる?)


 優香? 早川さん?

 それともーー向こうでキーボードを叩く渡辺さん?


 視線を横に向ける。

 淡々と仕事を続けるその姿は、変わらず静かで落ち着いていた。

 だけど、何かを見抜いているような、そんな瞳。

 入社した頃からずっとそうだった。


(あの時、優香を見た一瞬……やっぱり)


 考えすぎだと思いたい。

 でも、その一瞬の“鋭さ”が今も記憶に残っている。



 スマホが震えた。


 画面には、優香の名前。

 そして、短いメッセージ。


『今日、暇? 一緒に遊ばない?』


(……え?)


 昨日、“彼氏と映画に行く”って言ってたのに。

 予定が変わっただけかもしれない。

 でも、どうしても、違和感が残った。


(信じたいけど……どこまで信じていいのか、もう分からない)


 誰かに裏切られるたびに、心はひとつずつ、信じる力を失っていく。

 だから、疑うことに慣れすぎてしまった。



「どうした?」


 ふとした声に、思考が止まる。


 顔を上げると、渡辺さんがこちらを見ていた。


「いえ……ちょっと、考えごとを」


「無理はするな。祝日くらい、力を抜け」


 その声が、思いのほか優しく響く。

 少しだけ気が緩んだ。


 彼の言葉には、飾りがない。

 余計な慰めも、詮索もない。

 でも、だからこそ信じたくなる。


(この人なら……)


(きっと、大丈夫)


 いつもなら、“巻き込んではいけない”と心にブレーキをかけていた。

 でも今だけは、わたしの中の何かが、静かに動いた。


(託せるかもしれない)


 それは希望じゃなく、判断だった。

 迷いの果てに立ち止まるのではなく、一歩踏み出すための、選択。



「渡辺さん」


 名前を呼んだ声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


 彼は、ゆっくりとこちらを見る。


「あの……この資料、少し見てもらえますか?」


 手渡したのは、ただの“資料”を装った、証拠の一部と、警察に届けて欲しいと書かれたメモ用紙。


 渡辺さんは何も聞かず、黙ってそれを受け取った。


「……分かった」


 短く、それだけ。


 それだけなのに、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。



 コーヒーの甘さを思い出す。

 昨日の“ありがとう”の味。

 あの時も今日も、わたしはこの人に、救われている。


(託してよかった)


 はじめて、誰かを信じて、

 それを“行動”に変えた。


 これが、わたしの、静かな反撃の始まり。

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