パソコンの前に戻ったわたしは、静かに深呼吸をした。
ボスからの命令を一つずつ整理する。何ができて、何が危険か。どこまでなら、わたしは壊れずに済むか。
(焦ってる……ボスも)
朝からの雑な指示、やけに多い催促。
言葉の隙間に、余裕のなさが滲んでいた。
(もう……組織が、崩れてきてる)
『暁の朝』と『赤と青』。
内側から疑い合って、音もなく崩壊していく。
そのなかで、スパイに命令を出すことすら乱れている。
(言われた通りに動いても、もう意味ないのかもしれない)
ふと、あの一言がよみがえる。
「裏切り者がいる」
公安がどこかにいるとボスは言った。
でもそれは、本当に確かな情報なんだろうか。
(もう、わたしの正体……気づかれてる?)
優香? 早川さん?
それともーー向こうでキーボードを叩く渡辺さん?
視線を横に向ける。
淡々と仕事を続けるその姿は、変わらず静かで落ち着いていた。
だけど、何かを見抜いているような、そんな瞳。
入社した頃からずっとそうだった。
(あの時、優香を見た一瞬……やっぱり)
考えすぎだと思いたい。
でも、その一瞬の“鋭さ”が今も記憶に残っている。
⸻
スマホが震えた。
画面には、優香の名前。
そして、短いメッセージ。
『今日、暇? 一緒に遊ばない?』
(……え?)
昨日、“彼氏と映画に行く”って言ってたのに。
予定が変わっただけかもしれない。
でも、どうしても、違和感が残った。
(信じたいけど……どこまで信じていいのか、もう分からない)
誰かに裏切られるたびに、心はひとつずつ、信じる力を失っていく。
だから、疑うことに慣れすぎてしまった。
⸻
「どうした?」
ふとした声に、思考が止まる。
顔を上げると、渡辺さんがこちらを見ていた。
「いえ……ちょっと、考えごとを」
「無理はするな。祝日くらい、力を抜け」
その声が、思いのほか優しく響く。
少しだけ気が緩んだ。
彼の言葉には、飾りがない。
余計な慰めも、詮索もない。
でも、だからこそ信じたくなる。
(この人なら……)
(きっと、大丈夫)
いつもなら、“巻き込んではいけない”と心にブレーキをかけていた。
でも今だけは、わたしの中の何かが、静かに動いた。
(託せるかもしれない)
それは希望じゃなく、判断だった。
迷いの果てに立ち止まるのではなく、一歩踏み出すための、選択。
⸻
「渡辺さん」
名前を呼んだ声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼は、ゆっくりとこちらを見る。
「あの……この資料、少し見てもらえますか?」
手渡したのは、ただの“資料”を装った、証拠の一部と、警察に届けて欲しいと書かれたメモ用紙。
渡辺さんは何も聞かず、黙ってそれを受け取った。
「……分かった」
短く、それだけ。
それだけなのに、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
⸻
コーヒーの甘さを思い出す。
昨日の“ありがとう”の味。
あの時も今日も、わたしはこの人に、救われている。
(託してよかった)
はじめて、誰かを信じて、
それを“行動”に変えた。
これが、わたしの、静かな反撃の始まり。