渡辺さんは、スマホをポケットにしまい、何も言わず席を立った。
渡すつもりなんて、なかった。
だけど、彼のそばにいると、どこか息ができた。
「この人なら、大丈夫だ」と思ったわけじゃない。
ただ、手が、動いた。
渡辺さんは、書類をひとまとめに持ち、資料室へ向かうように自然に歩いて行った。
(……行ってしまった)
ふと、わたしの胸に空白が広がる。
その静けさを割るように、足音が近づいてきた。
重く、床を踏みしめる音。
この会社で、あの歩き方をする人間は一人しかいない。
振り返る前に、名前を呼ばれた。
「やってくれたな、毛利帆奈」
血の気が引いた。
声の主は、社長の息子、友澤さんだった。
(どうして、名前を……)
「驚いたか? こっちは最初から分かってたんだよ」
無表情で笑いながら、まっすぐ近づいてくる。
「お前が“暁の朝”のスパイだってことも、この会社に送り込まれた理由もな」
壁際まで下がったところで、彼はわたしの胸元をぐっと掴んだ。
「泳がせていたのに……全部、台無しだ」
「……なにが、ですか」
「“オレンジ運輸”」
その言葉に、息が止まりかけた。
(……あの時、リスト整理の指示をされて……)
気になって、ほんの少し検索しただけだった。
でも、友澤さんは吐き捨てるように言った。
「あれは、2年前に潰れた会社だがな。組織の資金を隠すための幽霊口座だった。公安に繋がる手がかりなんて、一切残してなかった」
「……そんな……」
「だが、お前がアクセスした。記録が残った。システムに痕跡がついた」
理解が追いつく。
自分の小さな好奇心。それが裏目に出た。
「公安が、そのアクセスログから金融の流れを辿って、隠し資産の一部にたどり着いた」
そんなつもりじゃなかった。
「あの一手で、公安に道を開いたんだよ。……分かるか?」
苦い声が耳元に迫る。
「……全部、お前のせいだ」
そう言うなり、友澤さんはわたしのポケットからスマホを引き抜いた。
その瞬間、黒い金属の光が視界にちらつく。
「っ……!」
銃口が向けられたと思った次の刹那、鋭い破裂音が響いた。
スマホが、弾けるように砕けた。
ディスプレイのガラスが床に散り、粉々になった機体が目の前に転がる。
(あれは……ボスとのやりとりが入った端末……)
(でも……違う)
わたしが託したのは、もう一つのスマホ。
“信じる”と決めて、静かに渡したそれだけが、いま、わたしの希望だった。
(渡辺さん……どうか……)
どうか、あれだけは、守って。