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第12話 信じてたのに

 まるでスマホが地面に砕けたその音が、引き金だったかのように──


「公安だ!」


 鋭い声がフロアに響いた。


 数人の黒服の公安官がすぐさま友澤さんを取り囲み、銃口を突きつける。

 一瞬で空気が変わった。ざわめきも、言葉も、すべてが凍るなか、

 わたしは、誰かの腕の中にいた。


 女性の公安官だった。


「大丈夫、大丈夫。よく耐えたわね」


 背中をさすりながら、彼女はそう優しく言った。

 身体から一気に力が抜け、膝が震え出す。


「ごめんなさい……黙ってて、ごめんなさい……」


 声にならない言葉とともに、涙がこぼれた。

 その涙は、もう止めようとは思わなかった。


「すまない。遅くなった」


 低く、落ち着いた声が耳に届いたとき、顔を上げた。

 そこにいたのは──渡辺さんだった。


 彼の目が、まっすぐにわたしを見ていた。


「このスマホは、彼女から預かったものです」


「ありがとうございます。お預かりします」


 静かなやり取り。

 そのスマホが公安官の手に渡るのを見届けた瞬間、胸の奥の糸が、ふっと緩んだ。


(わたしは、ちゃんと信じた。そして、託せた)


 それだけで、十分だった。

 ほんの少しだけ、渡辺さんの横顔を見ていたかった。


 ーー終わったんだ。


 ボスからの支配も終わった。

 スパイとしての役目も、もう終わった。


 もしこの腕が、この人のものだったら──

 そんなことをふと想像してしまった自分に、少しだけ驚いた。

 現実とは違うと、ちゃんとわかっているのに。


 ふいに、渡辺さんが部屋を出て行こうとした。


「どこに行くんですか?」


「え? ああ、ちょっと、上の階を見に」


「……社長も逮捕されたんですよね?」


 渡辺さんは、わずかに笑った。


「さあな。確認してくるよ」


 わたしは、つい声を上げていた。


「また……また、会えますよね?」


 自分でも驚いた。

 別れの予感のような不安が、喉の奥を締めつけていた。


 立ち止まった彼は、少しだけ振り返って、静かに言った。


「会えるよ」


 その言葉には、迷いがなかった。

 だからわたしは、ただ黙って、その言葉を信じた。



 その後の事情聴取で、わたしはすべてを話した。

 祖母の死。遺体の遺棄場所。ボスの居場所。

 『暁の朝』での任務。そして、自分がスパイとして送られた経緯。


 そして、最後に名乗った。


毛利帆奈もうりはんなです。それが、本名です」



 公安保護施設の夜。

 一人きりの静かな部屋に、ただ時間だけが流れていく。


 慣れているはずなのに、今夜は眠れそうにない。

 処方された眠剤も効いてくれない。


 渡辺さん、今ごろ、どうしてるんだろう。

 ちゃんとお礼、言えなかったな。


 あのスマホが、どれだけ大切だったか。

 託せたことで、どれだけ救われたか。


 早く伝えられる日が来たらいい。

 でも、それもきっと今じゃない。



 優香は、明日からもう来ないだろう。

 石川さんの卵焼きも、もう食べられないかもしれない。

 早川先輩……職を失ったら、大丈夫かな。少し、心配だ。


 そして、ボスは。

 きっと混乱してる。怒ってる。

 でも、どこかで、こうなることも分かっていたんだと思う。


 この日を、わたしはずっと待っていた。

 自分が傷ついてでも、終わらせなければならない日。


(だから、耐えなきゃ)


 『暁の朝』が本当に終わるまで、まだやることがある。

 おばあちゃんの仇を討ち、罪に向き合い、前に進む準備をする。



『会えるよ』


 あの言葉、わたしは信じている。

 信じたいんじゃなくて、信じてる。

 理由はないけど、それで充分だった。


 いつかまた会えたとき、

 あのとき言えなかった「二文字」を伝えられるだろうか。


 「好き」なんて、簡単じゃない。

 でもその日が来たら、ちゃんと、自分の言葉で伝えられるように──。

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