まるでスマホが地面に砕けたその音が、引き金だったかのように──
「公安だ!」
鋭い声がフロアに響いた。
数人の黒服の公安官がすぐさま友澤さんを取り囲み、銃口を突きつける。
一瞬で空気が変わった。ざわめきも、言葉も、すべてが凍るなか、
わたしは、誰かの腕の中にいた。
女性の公安官だった。
「大丈夫、大丈夫。よく耐えたわね」
背中をさすりながら、彼女はそう優しく言った。
身体から一気に力が抜け、膝が震え出す。
「ごめんなさい……黙ってて、ごめんなさい……」
声にならない言葉とともに、涙がこぼれた。
その涙は、もう止めようとは思わなかった。
「すまない。遅くなった」
低く、落ち着いた声が耳に届いたとき、顔を上げた。
そこにいたのは──渡辺さんだった。
彼の目が、まっすぐにわたしを見ていた。
「このスマホは、彼女から預かったものです」
「ありがとうございます。お預かりします」
静かなやり取り。
そのスマホが公安官の手に渡るのを見届けた瞬間、胸の奥の糸が、ふっと緩んだ。
(わたしは、ちゃんと信じた。そして、託せた)
それだけで、十分だった。
ほんの少しだけ、渡辺さんの横顔を見ていたかった。
ーー終わったんだ。
ボスからの支配も終わった。
スパイとしての役目も、もう終わった。
もしこの腕が、この人のものだったら──
そんなことをふと想像してしまった自分に、少しだけ驚いた。
現実とは違うと、ちゃんとわかっているのに。
ふいに、渡辺さんが部屋を出て行こうとした。
「どこに行くんですか?」
「え? ああ、ちょっと、上の階を見に」
「……社長も逮捕されたんですよね?」
渡辺さんは、わずかに笑った。
「さあな。確認してくるよ」
わたしは、つい声を上げていた。
「また……また、会えますよね?」
自分でも驚いた。
別れの予感のような不安が、喉の奥を締めつけていた。
立ち止まった彼は、少しだけ振り返って、静かに言った。
「会えるよ」
その言葉には、迷いがなかった。
だからわたしは、ただ黙って、その言葉を信じた。
⸻
その後の事情聴取で、わたしはすべてを話した。
祖母の死。遺体の遺棄場所。ボスの居場所。
『暁の朝』での任務。そして、自分がスパイとして送られた経緯。
そして、最後に名乗った。
「
⸻
公安保護施設の夜。
一人きりの静かな部屋に、ただ時間だけが流れていく。
慣れているはずなのに、今夜は眠れそうにない。
処方された眠剤も効いてくれない。
渡辺さん、今ごろ、どうしてるんだろう。
ちゃんとお礼、言えなかったな。
あのスマホが、どれだけ大切だったか。
託せたことで、どれだけ救われたか。
早く伝えられる日が来たらいい。
でも、それもきっと今じゃない。
⸻
優香は、明日からもう来ないだろう。
石川さんの卵焼きも、もう食べられないかもしれない。
早川先輩……職を失ったら、大丈夫かな。少し、心配だ。
そして、ボスは。
きっと混乱してる。怒ってる。
でも、どこかで、こうなることも分かっていたんだと思う。
この日を、わたしはずっと待っていた。
自分が傷ついてでも、終わらせなければならない日。
(だから、耐えなきゃ)
『暁の朝』が本当に終わるまで、まだやることがある。
おばあちゃんの仇を討ち、罪に向き合い、前に進む準備をする。
⸻
『会えるよ』
あの言葉、わたしは信じている。
信じたいんじゃなくて、信じてる。
理由はないけど、それで充分だった。
いつかまた会えたとき、
あのとき言えなかった「二文字」を伝えられるだろうか。
「好き」なんて、簡単じゃない。
でもその日が来たら、ちゃんと、自分の言葉で伝えられるように──。