それからの事情聴取では、頭をフル回転させ、唇が震えるのを必死にこらえながら、公安官の質問に集中することだけを心がけた。
優香のこと。ボスのこと。
信じていたものが音を立てて崩れていくのを、冷静に受け止めていく。
もう、同じ過ちは繰り返さない。
そう強く思うことで、自分を支えていた。
ときおり、公安官が「大丈夫?」と声をかけてくれるたびに、ほんの少しだけ心がほぐれる。
自分はまだ、人と関わってもいいのだと思えるその瞬間が、救いだった。
「そろそろなのよ」
公安官が口にした「そろそろ」が何を指すのか、すぐに察した。
「……『暁の朝』の壊滅、ですか?」
「ええ。あなたの協力がなければ、難しかった」
「……いえ。『赤と青』に、公安のスパイがいたんですよね? でなきゃ、あんなに早く……」
声を潜めながら言うと、公安官はふっと穏やかに微笑んだ。
「それは答えられないわ。……わかるでしょう?」
「はい、すみません」
少し照れながら、視線を落とした。
「それと、『暁の朝』には……スパイ、いるんですか?」
「ふふ。さあ、どうかしら。……楽しみにしてて」
肩の力が抜けるようなその返しに、思わず小さく笑ってしまった。
答えを濁すやりとりが、不思議と心地よかった。
「……まだ何か、言いたそうね。遠慮せずに言っていいのよ」
公安官の言葉に、深く呼吸を整えてから告げた。
「……渡辺さんに、会いたいんです」
「え?」
「ちゃんと、お礼が言えてなくて。“信じてよかった”って、それだけでも伝えたいんです」
公安官はしばらく黙ってこちらを見ていたが、やがて静かに頷いた。
「分かった。伝えておくわ」
それだけで、充分だった。
たとえ一瞬でも、また会える気がした。
偽名・早乙女真奈美。
本名・毛利帆奈としての“終わり”と“はじまり”を、あの人にだけ見届けてほしかった。
石川さんの定食屋。
何度も足を運んだその場所は、どこか前よりも静かで、張りつめた空気をまとっていた。
公安の監視が入っているせいだろうか。
それでも、あの扉を開けるだけで、心が少しだけ落ち着いた。
これが最後かもしれない。
でも、もしかしたら――最後じゃないかもしれない。
そう信じて、入った。
カウンターの奥には、変わらぬ様子で石川さんが立っていた。
「こんにちは。……いつも卵焼き、ありがとうございます」
精一杯の笑顔を作って声をかけると、石川さんは少し目をそらして、静かに頷いた。
「すごく、美味しいです」
それは嘘じゃなかった。
味も、込められた想いも、全部沁みていた。
「あの……渡辺さんは?」
尋ねた途端、胸が少しざわつく。
「……さっきまで、いたよ」
その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かがそっとほどけた。
「どこに……?」
「電話があって、裏から出ていった。……急な仕事みたいで」
「……そうですか。仕事、なんですね」
一瞬、胸の奥に奇妙な違和感が走った。
(会社は、もう存在していないのに……何の仕事?)
そう思ったのに、口には出せなかった。
出せなかったのか、出したくなかったのか、自分でもわからない。
うなずきながらも、胸の奥がふわりと浮いていくような感覚。
手のひらがじんわりと冷たくなっていくのがわかった。
「……石川さん。わたし、どうして、こんなにショックを受けてるんでしょうね」
自分でも戸惑う気持ちを、少しだけ笑いに混ぜて言うと、石川さんは黙ってこちらを見つめていた。
「応えてもらえるなんて、思ってなかったのに。会えなくてもいいって、思ってたのに……」
言葉にしてみて、ようやく自分がどれほど小さな希望を持っていたかを知った。
「……バカみたいですよね」
喉の奥がつかえていた。
でも、笑ってみせた。
「そんなこと、ないよ」
石川さんの声は、短くて、でもあたたかかった。
その言葉に背中を押されるように、ぽろりとこぼれた。
「だったら……スパイ、続けてたほうがよかったのかな」
「……え?」
「誰かの指示に従って、全部飲み込んで、最後は自分がいなくなる方が、楽だったのかなって。……ちょっとだけ、思ったんです」
本気ではない。
でも、本音だった。
心のどこかで、ふとよぎってしまった弱さだった。
「……そんなこと、言わないで」
その言葉が、思いのほか強く胸に響いた。
「……でも、言いたかったんです。渡辺さんに」
「ありがとう、って?」
首を横に振る。
「“信じてよかった”って。……それだけです」
それ以上、何かを望んだわけじゃない。
ただ、想いが、あの人の記憶のどこかに残っていてほしかった。
それだけだった。
そしてふと思った。
(でも、“裏切られた”って……どうして、こんなにも思ってしまうんだろう)
これは恋だった。
そう、自分でちゃんと認めている。
応えてほしかったわけじゃない。
それでも、伝えたかった。
あの人の言葉も、笑顔も、気配さえも。
すべてが、心の奥に深く刺さっていた。
(だから、こんなにも苦しいんだ)
それでも、もう隠さない。
これは、恋だった。