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第14話 扉の向こう

 それからの事情聴取では、頭をフル回転させ、唇が震えるのを必死にこらえながら、公安官の質問に集中することだけを心がけた。


 優香のこと。ボスのこと。

 信じていたものが音を立てて崩れていくのを、冷静に受け止めていく。

 もう、同じ過ちは繰り返さない。

 そう強く思うことで、自分を支えていた。


 ときおり、公安官が「大丈夫?」と声をかけてくれるたびに、ほんの少しだけ心がほぐれる。

 自分はまだ、人と関わってもいいのだと思えるその瞬間が、救いだった。


「そろそろなのよ」


 公安官が口にした「そろそろ」が何を指すのか、すぐに察した。


「……『暁の朝』の壊滅、ですか?」


「ええ。あなたの協力がなければ、難しかった」


「……いえ。『赤と青』に、公安のスパイがいたんですよね? でなきゃ、あんなに早く……」


 声を潜めながら言うと、公安官はふっと穏やかに微笑んだ。


「それは答えられないわ。……わかるでしょう?」


「はい、すみません」


 少し照れながら、視線を落とした。


「それと、『暁の朝』には……スパイ、いるんですか?」


「ふふ。さあ、どうかしら。……楽しみにしてて」


 肩の力が抜けるようなその返しに、思わず小さく笑ってしまった。

 答えを濁すやりとりが、不思議と心地よかった。


「……まだ何か、言いたそうね。遠慮せずに言っていいのよ」


 公安官の言葉に、深く呼吸を整えてから告げた。


「……渡辺さんに、会いたいんです」


「え?」


「ちゃんと、お礼が言えてなくて。“信じてよかった”って、それだけでも伝えたいんです」


 公安官はしばらく黙ってこちらを見ていたが、やがて静かに頷いた。


「分かった。伝えておくわ」


 それだけで、充分だった。

 たとえ一瞬でも、また会える気がした。


 偽名・早乙女真奈美。

 本名・毛利帆奈としての“終わり”と“はじまり”を、あの人にだけ見届けてほしかった。




 石川さんの定食屋。

 何度も足を運んだその場所は、どこか前よりも静かで、張りつめた空気をまとっていた。

 公安の監視が入っているせいだろうか。

 それでも、あの扉を開けるだけで、心が少しだけ落ち着いた。


 これが最後かもしれない。

 でも、もしかしたら――最後じゃないかもしれない。


 そう信じて、入った。


 カウンターの奥には、変わらぬ様子で石川さんが立っていた。


「こんにちは。……いつも卵焼き、ありがとうございます」


 精一杯の笑顔を作って声をかけると、石川さんは少し目をそらして、静かに頷いた。


「すごく、美味しいです」


 それは嘘じゃなかった。

 味も、込められた想いも、全部沁みていた。


「あの……渡辺さんは?」


 尋ねた途端、胸が少しざわつく。


「……さっきまで、いたよ」


 その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かがそっとほどけた。


「どこに……?」


「電話があって、裏から出ていった。……急な仕事みたいで」


「……そうですか。仕事、なんですね」


 一瞬、胸の奥に奇妙な違和感が走った。


(会社は、もう存在していないのに……何の仕事?)


 そう思ったのに、口には出せなかった。

 出せなかったのか、出したくなかったのか、自分でもわからない。


 うなずきながらも、胸の奥がふわりと浮いていくような感覚。

 手のひらがじんわりと冷たくなっていくのがわかった。


「……石川さん。わたし、どうして、こんなにショックを受けてるんでしょうね」


 自分でも戸惑う気持ちを、少しだけ笑いに混ぜて言うと、石川さんは黙ってこちらを見つめていた。


「応えてもらえるなんて、思ってなかったのに。会えなくてもいいって、思ってたのに……」


 言葉にしてみて、ようやく自分がどれほど小さな希望を持っていたかを知った。


「……バカみたいですよね」


 喉の奥がつかえていた。

 でも、笑ってみせた。


「そんなこと、ないよ」


 石川さんの声は、短くて、でもあたたかかった。


 その言葉に背中を押されるように、ぽろりとこぼれた。


「だったら……スパイ、続けてたほうがよかったのかな」


「……え?」


「誰かの指示に従って、全部飲み込んで、最後は自分がいなくなる方が、楽だったのかなって。……ちょっとだけ、思ったんです」


 本気ではない。

 でも、本音だった。

 心のどこかで、ふとよぎってしまった弱さだった。


「……そんなこと、言わないで」


 その言葉が、思いのほか強く胸に響いた。


「……でも、言いたかったんです。渡辺さんに」


「ありがとう、って?」


 首を横に振る。


「“信じてよかった”って。……それだけです」


 それ以上、何かを望んだわけじゃない。

 ただ、想いが、あの人の記憶のどこかに残っていてほしかった。


 それだけだった。


 そしてふと思った。


(でも、“裏切られた”って……どうして、こんなにも思ってしまうんだろう)


 これは恋だった。

 そう、自分でちゃんと認めている。


 応えてほしかったわけじゃない。

 それでも、伝えたかった。


 あの人の言葉も、笑顔も、気配さえも。

 すべてが、心の奥に深く刺さっていた。


(だから、こんなにも苦しいんだ)


 それでも、もう隠さない。


 これは、恋だった。


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