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第15話 新しい人生の始まり

 『暁の朝』壊滅のニュースは、朝の番組で大きく報じられていた。

 『赤と青』の時よりも時間をかけ、重たい口調で、被害者の会の設立や遺体遺棄現場の発見、行方不明者との照合作業が進んでいることが伝えられていた。


 テレビに映ったのは、よく知る顔。

 両親、祖父、優香、そしてボス。

 どの顔も、昔のままだった。

 わたしを育てた人たちであり、壊した人たちでもある。


(……これから、裁かれるんだ)


 不思議なことに、怒りや悲しみではなく、先に浮かんだのは「静けさ」だった。

 自分の証言がどこまで役に立ったのかはわからない。

 でも、あの日、わたしは確かに声を出した。

 誰かの涙が繰り返されないようにと願って。


 テレビを消すと、部屋にしんとした静けさが戻ってくる。




 5月が終わる。


 (渡辺さんからの連絡は……今日も、ない)


 分かっていたことだった。

 でも、それでも、どこかで少しだけ――いや、確かに「待って」いた。


(期待してたんだ)


 気づくと、ひとつ息を吐いていた。

 胸の奥に小さな痛み。

 でもそれを押しつけるようなことはしたくなかった。

 信じたことと、求めることは別だと、もう分かっている。



 机の上には、今日も卵焼きが置かれていた。

 石川さんが、毎朝欠かさず届けてくれる。

 いつもメモを添えて。


【ごめん、甘卵焼きは甘すぎたらしくて。

店ではもう出さないことになったんだ。

でも、君には届けるよ。】


 ふっと笑みがこぼれた。


「……美味しいんだけどな」


 小さく呟いて、ひと口。

 りんごの優しい甘みが口いっぱいに広がる。

 懐かしい味。おばあちゃんの卵焼きにも、どこか似ていた。

 涙は出ないけれど、心が少し揺れた。


 その横に、もう一枚、折られたメモがあった。


【言葉足らずって、損だよね。

でも、それが渡辺さんじゃないかな。

伝えたいこと、うまく言えない人なんだと思う。】


 それは、石川さんらしいまっすぐな文字だった。

 そして、その下に、追伸。


【追伸:今度こそ、デートしてください。

——石川 学】


 思わず手が止まる。

 冗談めいてるけど、彼が茶化すような人でないのは知っている。

 だからこそ、どう返せばいいのか分からなかった。


(……ごめんね)


 まだ、誰かと肩を並べて歩くには、自分の足元が不安定すぎる。

 甘えたくないし、笑ってごまかすようなこともしたくなかった。

 だから、返事はもう少し先にしよう。

 嘘じゃない自分で向き合えるようになってから。


 そしてもう一枚の紙。


【悪かった。

助かったよ。

——渡辺】


 たったそれだけ。

 だけど、言葉の裏にあるものを、わたしは感じた気がした。


(……何が「悪かった」の?)

(……何が「助かった」の?)


 答えはない。

 でも、きっと届いていた。わたしの気持ちも。


 スマホを見ても、やっぱりメールは届いていない。

 ――そもそも、アドレスも知らない。


(それでも、もう……それでいい)


 今はまだ、涙も出ない。

 寂しさは確かにある。

 けれど、押し流されることはなかった。


 天井を見上げる。

 ひとつ、深く呼吸をした。


「……そろそろ、行かなくちゃ」


 公安保護施設を出る日が来た。

 就職先は、ずっと夢だった介護の現場。

 お年寄りの隣で、自分の心とも向き合っていく。


 新しい名前も決まっている。

 毛利帆奈ではなく、遠野春音とおのはるねとして。

 名札に書かれたその名前が、少しずつ身体になじんでいくのを感じていた。


(大丈夫。わたしは、ちゃんと前を向いていける)


 たとえ、すれ違っても、会えなくても。

 信じたことは、きっとどこかに残っている。


 だから、いつかまた会えたら。


 「ありがとう」と――そして、あの二文字も、

 ちゃんと笑って伝えられるように。


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