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第16話 泣けない

 やっと紅葉が色づき始めた頃、心理士さんに言われた。


「人間関係の訓練を、そろそろやってみましょうか」


 その言葉で、石川さんと一緒に遊園地に出かけることになった。


(……訓練なら、介護の仕事で毎日やってるんだけど)


 そう思いながらも、人生で初めての遊園地は、想像よりずっと眩しくて、どこか懐かしい匂いがした。


 石川さんは案内マップを手に、嬉しそうにあれこれ言っている。

 その周囲をさりげなく囲む大人たちは、明らかに警察の人間だった。


(……何かあったのかな?)


 でも不思議と、それが嫌じゃなかった。

 守られている、という感覚に近かった。


 わたしは今、「遠野春音」として暮らしている。

 不起訴処分となり、裁判は免れた。

 新しい名前にも仕事にも、ようやく馴染んできた。

 孤独も、昔とは少しだけ違って見えていた。


 石川さんとは「友達」。

 そう言い聞かせながら誘ったこの日も、「訓練だから」と前置きしたのに、彼はそれを真っ直ぐに喜んでくれた。


「絶叫マシンって、慣れないね」


「春音ちゃん、体力ないな〜」


「嘘。介護で鍛えてるつもりだったんだけどな」


 冗談交じりの会話。

 こういうやり取りすら、ずっと避けて生きてきた。

 でも今は、こうして自然に笑えている。


 彼が差し出してくれたレモネードは、手作りらしかった。


「ありがとう」


「すっげー美味いんだよ、それ。自信作」


 手作りなんて、昔は信用できなかった。

 でも今は、素直に口に運べる。


「……うん。美味しい」


 そう伝えると、石川さんはちょっと誇らしげに笑った。


「ねえ、事件とかじゃないよね? 周り、ちょっとピリピリしてる」


「気にしすぎだって。ほら、何乗る?」


「……観覧車」


「……えっ」


 そのとき、彼の顔が真っ赤になる。


「そ、そうだね! ……よし、乗ろう!」


(なんでそんなに焦ってるの)


 わたしは不思議に思いながらも、何も言わずにゴンドラへ乗り込んだ。



 観覧車のてっぺん近く、街が遠くなっていく。


 この景色を見ながら、思い出す人がいた。

 渡辺さん。


 恋をしてはいけないと分かっていたのに、それでも心は動いてしまった。

 あの人に「助けて」と手を伸ばしたことに、後悔はなかった。


「……観覧車のてっぺんでキスすると、結ばれるってジンクス、知ってる?」


 石川さんが小さく言った。


「ジンクスって、信じる?」


「俺は、信じたい方かな」


 わたしは何も言わず、窓の外に目を向けた。

 けれど、彼の言葉はちゃんと胸に届いていた。



「……俺、陰のヒーローには勝てないな」


 ぽつりと呟かれたその言葉は、どこか遠くのもののようだった。


「ごめん、昔のこと思い出してた。なんか言った?」


「ううん、差し入れの話してただけ」


「ありがとう。わたしも何か返さなきゃね」


「気にすんなって。俺、好きでやってるだけだから」


 観覧車がゆっくりと降りていく頃、地上に見慣れた後ろ姿があった。


 黒い服。さらりと流れる髪。

 間違いない。渡辺さんだった。

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