「渡辺さ、」
声にする直前、石川さんに腕を引かれた。
その瞬間、視線の先に見えたのは、渡辺さんの隣にいた女性。
(……分かってたはずなのに)
言葉にしなくても、理解できてしまった。
会えるように頼んだのに。連絡がなくても、信じようとしたのに。
笑って「会えるよ」って言ってくれたのに——。
「行こう。今日は訓練でしょう?」
「……ごめん、チケットもったいないし、まだ時間あるけど、場所、変えていいかな?」
「うん。ついてきて」
⸻
連れていかれた先は、小さなパフェ専門店だった。
ガラスの器に盛られたフルーツが、やけにまぶしかった。
「春音ちゃん、パフェ初めてでしょ?」
「……うん。じゃあ、今日は私が奢る」
「え、いいの?」
「今日一日付き合ってくれたお礼」
そう言って、いつものように笑ったつもりだった。
だけど内側では、ぐらぐらと何かが揺れていた。
石川さんがパフェを差し出してくれたとき、わたしはふと問いかけてしまった。
「……ねえ、なんでフルーツパフェなの?」
「え? 嫌いだった?」
石川さんが驚いたように顔をのぞき込む。
「ううん、ちがうの。ただ……チョコレートパフェの気分だっただけ」
ほんの冗談のつもりだった。
でも、自分でも驚くほど声がかすれていた。
小さく笑ってくれる石川さんに、思わず心が緩んだ。
泣きたいのに、泣かせてくれない優しさに、少しだけ救われる。
⸻
寮の部屋に戻ると、静かに着替えてベッドに横になった。
照明は点けず、スマホも見ない。
無理に泣こうとは思わなかった。
ただ、胸の奥に静かに沈んでいく思いが、確かにひとつあった。
(……好きだったんだ)
そう認めたとき、心のどこかが、ふっとほどけた気がした。
報われなかったとしても、あの人を信じた日々が、わたしの中にはちゃんとある。
それだけで、きっと十分だった。
優香のことが好きなんだと、最初は思ってた。
職場の女性たちも、みんな彼を見てた。
だから、好きになっちゃいけないって、自分に言い聞かせてた。
……でも、抑えきれなかった。
もしあのまま、スパイとして失敗してたら、まだ会えてたのかな。
そんなこと、思ってはいけないのに。
付き合ってたわけでもないのに。
なのに、忘れられなかった。
(執着……してたんだ)
ばかみたいだよね、わたし。
泣けば少しは楽になるのかもしれない。
でも、涙が出ないのはなぜだろう。
本当は、ちゃんと失恋したいのに。
時間薬――そんなものがあるなら、早く効いてほしい。
介護の仕事には就いたけれど、やっぱりまだ、ここから逃げたくなる。
渡辺さんのいるこの街が、息苦しくなるときがある。
でも、逃げたくない。
あの人に救われたからこそ、わたしも、誰かの力になれるようになりたい。