心理相談室の扉を開けた瞬間、視界いっぱいにきらめく装飾が広がった。
紙の雪。銀のモール。ガラス玉のリース。
(……クリスマスか)
わたし、サンタクロースからプレゼント、もらったことないな。
目を伏せたわたしに、心理士が気づく。
「ごめんなさいね。苦手だったら、今すぐ取るけど」
「いえ……嫌いじゃないです。たぶん」
たぶん、と言いかけた自分の声がかすれたのがわかった。
席につくと、恒例の「今日の調子は?」が来るはずだった。でも、その前に言われた。
「……何かあった?」
言葉が出てこなかった。どこかで喉がせき止められているようだった。
代わりに、ぽつりとこぼれた。
「……おばあちゃんに、会いたいな」
その一言に、心理士の表情が一瞬だけ固まる。すぐにやわらかい声に戻る。
「そう。おばあちゃん、どんな方だったの?」
「優しかった。でも……もういないのに、つい甘えたくなるんです」
言葉の間に、深呼吸を挟んでから、続けた。
「ほんとは聞いてほしかったんです。わたし、失恋しました」
ぽろりと涙が頬を伝い落ちた。すぐに、ティッシュがそっと差し出される。
受け取った手がかすかに震えていた。気づかれたくないのに、止められなかった。
「相手……聞いてもいい?」
言葉の重さを測るような声だった。
「……会社の上司だった人です」
口に出した瞬間、胸の奥で何かが音を立ててほどけた気がした。
「あなたが、スマホを託した方ね?」
「……はい」
言葉に詰まる。
笑顔がこわばっているのが、自分でも分かる。
(笑う必要なんて、ないのに)
泣いてるのに、どうして笑ってしまうんだろう。
拭っても拭っても、目元は熱いままだった。
「もしよかったら、少しだけ聞かせて」
その問いかけは、強要でもなく、慰めでもなかった。
ただ、静かな“受け止める姿勢”だった。
甘いコーヒーの匂い。
無言で差し出されたスマホ。
「会えるよ」と言ってくれたこと。
そして、あの観覧車のあとに見た背中――
「何を……期待してたんでしょうね、わたし」
ぽつりとこぼすと、心理士が小さく首を傾けた。
「……あなた、今、どうして笑ってるの?」
自分の唇が引きつっていることに、そこでようやく気づいた。
「……分かりません。……ただ、笑わないと、壊れそうなんです」
その一言が落ちた瞬間、ようやく涙がこぼれた。
静かに、頬を伝う温度。
ずっと張りつめていた心の糸が、ようやく切れた音がした気がした。
「……どんな気持ちか、話せる?」
優しい声が届く。
だけど、言葉にならない。声に出そうとすると、喉の奥が詰まってしまう。
「ゆっくりでいいから」
わたしは、ふっと笑ってしまった。
「ふふ……ここ、公安保護のカウンセリングなのに、こんな話してもいいのかな」
心理士の女性は、穏やかに微笑んだ。
「ええ。そんなこと、関係ないもの」
その言葉に、また涙が溢れた。
止まらなかった。何も言えなかった。
でも、たったひとことだけ。
「応えてもらえないって、分かってたのに……応えてもらえるかもしれないって、思ってたんです」
それが、本当の気持ちだった。
スパイとして、どれだけ人を欺いてきても。
彼の前では、ただの“わたし”でいたかった。
けれど――
隣にいたのは、髪をひとつ結びにした女性だった。
後ろに立っていたわたしには、気づきもしなかった。
それで、すべてが分かった。
「……そんな時間も、そんな相手も、世の中にはあるものよ」
心理士の言葉は、温かく、でも甘すぎなかった。
わたしは、ゆっくりと頷いた。
「……でも、好きだったんです。ちゃんと、恋でした」
報われなかったとしても、あの人を信じた日々は、たしかに、わたしの一部だった。
心理士は、黙ってそばにいてくれた。
涙が止まるまで、何も言わずに。
そして、わたしの中に、静かに芽生えていたものがあった。
――もう、大丈夫。
まだ少し時間はかかるけれど。
わたしは、ちゃんと立ち上がっていける。