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第18話 涙が降りる場所

 心理相談室の扉を開けた瞬間、視界いっぱいにきらめく装飾が広がった。


 紙の雪。銀のモール。ガラス玉のリース。


 (……クリスマスか)


 わたし、サンタクロースからプレゼント、もらったことないな。


 目を伏せたわたしに、心理士が気づく。


 「ごめんなさいね。苦手だったら、今すぐ取るけど」


 「いえ……嫌いじゃないです。たぶん」


 たぶん、と言いかけた自分の声がかすれたのがわかった。


 席につくと、恒例の「今日の調子は?」が来るはずだった。でも、その前に言われた。


 「……何かあった?」


 言葉が出てこなかった。どこかで喉がせき止められているようだった。


 代わりに、ぽつりとこぼれた。


 「……おばあちゃんに、会いたいな」


 その一言に、心理士の表情が一瞬だけ固まる。すぐにやわらかい声に戻る。


 「そう。おばあちゃん、どんな方だったの?」


 「優しかった。でも……もういないのに、つい甘えたくなるんです」


 言葉の間に、深呼吸を挟んでから、続けた。


 「ほんとは聞いてほしかったんです。わたし、失恋しました」


 ぽろりと涙が頬を伝い落ちた。すぐに、ティッシュがそっと差し出される。


 受け取った手がかすかに震えていた。気づかれたくないのに、止められなかった。


「相手……聞いてもいい?」


 言葉の重さを測るような声だった。


「……会社の上司だった人です」


 口に出した瞬間、胸の奥で何かが音を立ててほどけた気がした。


「あなたが、スマホを託した方ね?」


「……はい」


 言葉に詰まる。

 笑顔がこわばっているのが、自分でも分かる。


(笑う必要なんて、ないのに)


 泣いてるのに、どうして笑ってしまうんだろう。

 拭っても拭っても、目元は熱いままだった。


「もしよかったら、少しだけ聞かせて」


 その問いかけは、強要でもなく、慰めでもなかった。

 ただ、静かな“受け止める姿勢”だった。


 甘いコーヒーの匂い。

 無言で差し出されたスマホ。

 「会えるよ」と言ってくれたこと。

 そして、あの観覧車のあとに見た背中――


 「何を……期待してたんでしょうね、わたし」


 ぽつりとこぼすと、心理士が小さく首を傾けた。


「……あなた、今、どうして笑ってるの?」


 自分の唇が引きつっていることに、そこでようやく気づいた。


 「……分かりません。……ただ、笑わないと、壊れそうなんです」


 その一言が落ちた瞬間、ようやく涙がこぼれた。

 静かに、頬を伝う温度。

 ずっと張りつめていた心の糸が、ようやく切れた音がした気がした。


 「……どんな気持ちか、話せる?」


 優しい声が届く。

 だけど、言葉にならない。声に出そうとすると、喉の奥が詰まってしまう。


 「ゆっくりでいいから」


 わたしは、ふっと笑ってしまった。


 「ふふ……ここ、公安保護のカウンセリングなのに、こんな話してもいいのかな」


 心理士の女性は、穏やかに微笑んだ。


 「ええ。そんなこと、関係ないもの」


 その言葉に、また涙が溢れた。

 止まらなかった。何も言えなかった。


 でも、たったひとことだけ。


 「応えてもらえないって、分かってたのに……応えてもらえるかもしれないって、思ってたんです」


 それが、本当の気持ちだった。


 スパイとして、どれだけ人を欺いてきても。

 彼の前では、ただの“わたし”でいたかった。


 けれど――


 隣にいたのは、髪をひとつ結びにした女性だった。

 後ろに立っていたわたしには、気づきもしなかった。

 それで、すべてが分かった。


 「……そんな時間も、そんな相手も、世の中にはあるものよ」


 心理士の言葉は、温かく、でも甘すぎなかった。


 わたしは、ゆっくりと頷いた。


 「……でも、好きだったんです。ちゃんと、恋でした」


 報われなかったとしても、あの人を信じた日々は、たしかに、わたしの一部だった。


 心理士は、黙ってそばにいてくれた。

 涙が止まるまで、何も言わずに。


 そして、わたしの中に、静かに芽生えていたものがあった。


 ――もう、大丈夫。

 まだ少し時間はかかるけれど。

 わたしは、ちゃんと立ち上がっていける。

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