それは、クリスマスイブの夜勤明けのことだった。
寮の前に置かれたスズランの鉢植えに、ピンクのリボンが結ばれていた。
真っ白な小さな花が、まるで小さな鈴のようにうつむいて咲いている。
おそらく、温室で咲かせたのだろう。
けれどそんなことより、この花が“いまここにある”ことが、すべてだった。
誰だろう?
ここを知っている人なんて、限られているのにーー。
メッセージカードを手に取り、そっと開く。
【君の生まれてはじめてのサンタになれたでしょうか?
会えなくて、悪かった】
渡辺さん?
どうして、ここに?
どうして、今ごろ?
会いにきてくれたの? でも、どうして今ごろ?
その筆跡を、私は覚えている。
声も、姿も。
何ひとつ知らなかったのに、ちゃんと覚えている。
一生、色褪せない記憶になっている。
きっと誰かに背中を押されたんだと思う。
それでも、あなたはその言葉に従って、ここまで来てくれた。
たとえ一瞬でも、私のことを思ってくれた。
もう枯れてしまったと思っていた涙が、あふれて止まらなかった。
ーーねえ、渡辺さん。
あなた、やっぱり公安だったんですね。
なんとなく、そうかもと思っていた。
でも、これですべての辻褄が合った。
優香を見ていたあの目。
スマホを持って行った直後に始まった逮捕劇。
その翌日、私は公安の保護対象になった。
「この人に託したい」と思えたあの瞬間も。
あの日、あなたは仕事で会えなかった。
でも、翌日『暁の朝』が壊滅した。
きっと、逮捕に向かっていたんだ。
少しは、役に立てたかな。
スズランの鉢植えを両腕でそっと抱きしめる。
「……好きでした。すごく、好きでした」
誰にも聞こえないように。
でも、もしかしたらどこかで聞かれてるんじゃないか、なんて思いながら。
「ちゃんと失恋させてくれてありがとう。わたし、前を向きますから」
冬の空気は冷たいのに、不思議と胸の中だけが、あたたかかった。
⸻⸻
数年後。
私は、小さな一軒家で暮らしている。
訪問介護の仕事をしている。
大変だけれど、やりがいがある。
今の私には、こうして人と向き合う日々が必要だ。
花壇には、あのときのスズランを植え替えた株が、春の陽射しのなかで今年も静かに咲いていた。
怖かったスパイとしての過去は、いまや初恋の思い出に変わっている。
あの組織の裁判も終わった。
判決は重かったけれど、ようやくすべてが終わったような気がした。
ありがとう、渡辺さん。
あなたがいなければ、私はとっくに命を落としていた。
花言葉で知った、スズランの意味――“再び幸せが訪れる”。
あなたは、それを願ってくれたのですね。
(……聞こえてたらいいな)
そう思うだけで、涙はもう流れなかった。
今日も、あなたの大切な協力者は、幸せそうな顔でケーキを食べに来ています。
「春音ちゃん、ケーキ屋さんになればいいのに」
「ダメ。おばあちゃんと関わりたいの」
「だと思った。まあ、俺だけ食べられればいっか」
「そうよ。たくさん作るの、大変なんだから」
「えぇ……!」
ふふ、ようやく気づいたみたい。
渡辺さん。石川さんのこと可愛いんじゃないですか?
「じゃ、これ。受け取ってください!」
真っ直ぐで、まっすぐで――どこまでも真っ直ぐな人。
「君が誰を思っててもいい。スズランをブーケにしてくれたっていい。それでも、俺なりに君のこと、幸せにするよ」
そう言って渡された指輪は、小さく光っていた。
(この人は、ダイヤモンドより、ずっと温かい光)
どうか、この人のそばで、強く優しく生きていけますように。
わたしの答えは、それを受け取ることだった。
スズランの花言葉通り、わたしは幸せになります。
あなたがーー渡辺さんが望んでくれたように。