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第21話 スズランの涙

 それは、クリスマスイブの夜勤明けのことだった。


 寮の前に置かれたスズランの鉢植えに、ピンクのリボンが結ばれていた。

 真っ白な小さな花が、まるで小さな鈴のようにうつむいて咲いている。

 おそらく、温室で咲かせたのだろう。

 けれどそんなことより、この花が“いまここにある”ことが、すべてだった。


 誰だろう?

 ここを知っている人なんて、限られているのにーー。


 メッセージカードを手に取り、そっと開く。


【君の生まれてはじめてのサンタになれたでしょうか?


  会えなくて、悪かった】


 渡辺さん?


 どうして、ここに?

 どうして、今ごろ?


 会いにきてくれたの? でも、どうして今ごろ?


 その筆跡を、私は覚えている。

 声も、姿も。

 何ひとつ知らなかったのに、ちゃんと覚えている。


 一生、色褪せない記憶になっている。


 きっと誰かに背中を押されたんだと思う。

 それでも、あなたはその言葉に従って、ここまで来てくれた。

 たとえ一瞬でも、私のことを思ってくれた。


 もう枯れてしまったと思っていた涙が、あふれて止まらなかった。


 ーーねえ、渡辺さん。

 あなた、やっぱり公安だったんですね。


 なんとなく、そうかもと思っていた。

 でも、これですべての辻褄が合った。


 優香を見ていたあの目。

 スマホを持って行った直後に始まった逮捕劇。

 その翌日、私は公安の保護対象になった。

 「この人に託したい」と思えたあの瞬間も。


 あの日、あなたは仕事で会えなかった。

 でも、翌日『暁の朝』が壊滅した。

 きっと、逮捕に向かっていたんだ。


 少しは、役に立てたかな。


 スズランの鉢植えを両腕でそっと抱きしめる。


「……好きでした。すごく、好きでした」


 誰にも聞こえないように。

 でも、もしかしたらどこかで聞かれてるんじゃないか、なんて思いながら。


「ちゃんと失恋させてくれてありがとう。わたし、前を向きますから」


 冬の空気は冷たいのに、不思議と胸の中だけが、あたたかかった。


⸻⸻


 数年後。


 私は、小さな一軒家で暮らしている。


 訪問介護の仕事をしている。

 大変だけれど、やりがいがある。

 今の私には、こうして人と向き合う日々が必要だ。


 花壇には、あのときのスズランを植え替えた株が、春の陽射しのなかで今年も静かに咲いていた。


 怖かったスパイとしての過去は、いまや初恋の思い出に変わっている。

 あの組織の裁判も終わった。

 判決は重かったけれど、ようやくすべてが終わったような気がした。


 ありがとう、渡辺さん。

 あなたがいなければ、私はとっくに命を落としていた。


 花言葉で知った、スズランの意味――“再び幸せが訪れる”。

 あなたは、それを願ってくれたのですね。


(……聞こえてたらいいな)


 そう思うだけで、涙はもう流れなかった。


 今日も、あなたの大切な協力者は、幸せそうな顔でケーキを食べに来ています。


「春音ちゃん、ケーキ屋さんになればいいのに」


「ダメ。おばあちゃんと関わりたいの」


「だと思った。まあ、俺だけ食べられればいっか」


「そうよ。たくさん作るの、大変なんだから」


「えぇ……!」


 ふふ、ようやく気づいたみたい。


 渡辺さん。石川さんのこと可愛いんじゃないですか?


「じゃ、これ。受け取ってください!」


 真っ直ぐで、まっすぐで――どこまでも真っ直ぐな人。


「君が誰を思っててもいい。スズランをブーケにしてくれたっていい。それでも、俺なりに君のこと、幸せにするよ」


 そう言って渡された指輪は、小さく光っていた。


(この人は、ダイヤモンドより、ずっと温かい光)


 どうか、この人のそばで、強く優しく生きていけますように。

 わたしの答えは、それを受け取ることだった。


 スズランの花言葉通り、わたしは幸せになります。


 あなたがーー渡辺さんが望んでくれたように。

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