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第4話:初投稿

日が傾きはじめたころ、俺は家に着いた。


ドアを開けて「ただいま」と口にする。もちろん返事はない。でも、この言葉を言うことで、自分の一日がちゃんとここに帰ってきた気がする。少しだけ安心する。


靴を脱ぎ、洗面所で手を洗ってから部屋に戻る。少しの間、ソファに体を預け、バッグからスマートフォンを取り出した。


(やるなら、今だよな)


夏休みの終わりに決めたこと。自分だけの生活をそっと記録していく場所を作るということ。


「ツブヤイター」と検索し、登録画面を開く。メールアドレスを打ち込み、パスワードを設定。ユーザー名には「ラギのごはん」と入力した。


 “柊”からとった「ラギ」。自分らしさがありながらも、距離があってちょうどいい。綾という名前は、こういう場所には少し生々しすぎた。


プロフィール欄には簡潔にこう記した。


「女子高生ひとり暮らしのごはん記録。

      食べるのも、作るのも好きです。」


「登録する」をタップする。アカウントが作成された。俺の料理を載せる場所が、ようやくできた。


立ち上がって、キッチン横のフックにかけていたエプロンを手に取る。洗い立てのそれを首にかけながら、冷蔵庫を開ける。冷凍しておいた鶏むね肉、なす、ピーマン、トマト、冷やごはん。


(なすと鶏の甘酢あん。あとは冷やしトマトと、たまごスープでいこう)


こうやって、冷蔵庫の中のもので構成を考える時間が、俺は昔から好きだった。


思えば、料理をするときだけ、なぜか頭の中が無音になる。余計なことを考えず、包丁の音や、火の加減、素材の香りに意識を向けていられる。そんな“無心”になれる感覚が心地よくて、男だった頃からずっと、唯一の趣味と呼べるものだった。


他に趣味はなかった。ゲームにもハマらず、スポーツもほどほど、誰かと遊ぶよりは一人でキッチンに立つ方が落ち着いた。誰にも言えないことだったけど、本当は、かわいらしいお菓子や華やかな彩りの盛りつけにも興味があった。でも男の自分がそんなことをしていたら、どう見られるか。考えるまでもなく、投稿なんてできなかった。


けれど、今は――。


俺は、少しだけ肩の力を抜いて、コンロに火をつけた。


包丁でなすを切りながら、冷静に調理の手順を組み立てていく。音と湯気、油の匂い。すべてが静かに、俺の中に収まっていく。昔と変わらない、料理をしているときだけの“無”の時間だった。


30分ほどして、テーブルの上に夕食が並ぶ。


なすと鶏の甘酢あん、冷やしトマト、たまごスープ。


俺はスマートフォンを取り出し、カメラを立ちあげて何枚か撮影する。影がかからないように角度を調整し、一番美味しそうに見える一枚を選ぶ。


ツブヤイターを開き、新規投稿をタップ。



今夜のごはん。

なすと鶏の甘酢あん/冷やしトマト/たまごスープ。

すっぱめの味つけで、少しだけ夏を名残惜しく。


#一人暮らしごはん

#夜ごはん記録

#丁寧な暮らし

#台所のある生活

#ラギのごはん



投稿する、を押す。数秒後、自分の投稿が画面に並んだ。


たったこれだけのことなのに、心の奥がじんわりと熱くなった。


(俺は今、ちゃんと自分の生活を自分の言葉で形にしたんだ)


誰かに見られることを期待しているわけじゃない。でも、誰かに知られてもいいと思えるくらいには、この料理に自信がある。これが俺の毎日だと、言える気がした。


明日もまた、何か作ってみよう。

俺のペースで、静かに、日々を整えていこう。


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