「さやか〜、煮物の火、止めといて〜」
「は〜い……いま止める〜」
のそのそと立ち上がって厨房に向かうと、白い湯気がふわりと顔に当たった。
ほっとする匂い。こんぶといりこ、ちょっとだけ鰹。母の定番。
家は昔から定食屋をやっていて、うちは学校が終わるとその手伝いをしている。
ちゃんとやるときもあるし、なんとなく手伝ってるときもある。
今日は……なんとなく、の日。
煮物の火を止めて、菜箸を鍋の中で軽く揺らす。
にんじんと大根が、ぽよんと揺れた。
お店の定食メニューは、どれも特別じゃない。
焼き魚、煮物、からあげ、カレー。
でも、いつもの味をちゃんと出すために、母は細かい手順をきっちり守る。
そんな背中を、うちは昔からずっと見ていた。
(……なんか、あの感じ、いいんだよなあ)
「料理って、気持ちがあると味が変わるからね」
そう言った母の言葉を、うちはけっこう信じている。
配信を始めたのも、そんな“誰かのための料理”を、もう少し外に出してみたかったから。
最初はスマホで動画を撮るだけで手が震えたけど、気づけばもう半年近く続けている。
動画とツブヤイターは両方「なるみんみーる」という名前で投稿している。名前の由来は、うちの名字である
* * *
夜。風呂上がりに髪を乾かしながら、スマホを眺めてたら、
ツブヤイターで流れてきた投稿に目が止まった。
《【告知】今夜21時から、はじめての雑談配信やってみます。いつものレシピとか、料理の話メインになると思います。あたたかい目で見てくれるとうれしいです》
「ラギのキッチン」——あ、知ってる名前だ。
ラギさんがツブヤイターを投稿し始めた頃に見てたなぁ。ごはんが丁寧な感じで、なんか落ち着く人。
声は聴いたことなかったかも。
(雑談かぁ……いいな。お風呂上がりに聴こ)
* * *
イヤホンをつけて、配信画面を開く。
すこし緊張してるような声が耳に届いた。
「こんばんは。ラギのキッチンです……今日は、はじめての雑談配信ということで……」
(……なんか、初々しくていいな)
話すの、あんまり慣れてないって言ってたけど、
その不器用さが、逆にいい。優しい声。ちょっと息継ぎの位置が独特。
でもそれも込みで、耳にすっと入ってくる。
「最近だと、れんこんと鶏肉の甘辛炒めを作ったんですけど……」
(それ、好き……)
しゃべり方とか、声のトーンとか、
なんかこう、バタついてない感じ。
うちと、空気の速さが似てるのかも。
配信が終わったあとも、ちょっとだけ耳がぽかぽかしてた。
なんか……誰かが目の前で、こっそり料理の話をしてくれてた、みたいな。
画面越しだったけど、不思議と距離が近かった。
(……DM、してみよっかなぁ)
でも、急に話しかけるのって、けっこうエネルギーがいる。
でも……でも……えいっ。
⸻
はじめまして。なるみんみーると申します。
昨日の雑談配信、偶然タイミングが合って、リアルタイムで聴いていました。
声のトーンや話し方がとても優しくて、すごく落ち着きました……!
私も料理系の動画を投稿しているんですが、
もしよければ、今度なにかお話してみませんか?
それに、ラギさんは高校生とツブヤイターのプロフィールに書いていたので、もしかして年が近いかなって……
いきなりすみません。でもすごく素敵な配信だったので、つい。
無理にとは言いませんので、気が向いたらお返事いただけたら嬉しいです!
書きながら、何度も読み直して、ちょっとだけ言い回しを直して、そして送った。
(……送っちゃった〜)
ほっぺたがちょっとあったかい。
寒くなってきたから……じゃないと思う。
⸻
しばらくして、通知が鳴った。
画面を見たら、「ラギのキッチン」から返信。
実は、以前から投稿を何度か拝見していました。
その一文で、思わず「ふふ」って笑った。
うれしくて。ちょっと、照れくさくて。
きっと、さっきの煮物と同じくらい、やさしい味がした。
いきなり送ったDMのことを、少しずつ後悔しつつ複雑な気持ちで返信を待っていた。しかし、届いた返信はうちが思っていたよりもずっとやさしかった。
こんばんは。ラギのキッチンです。
メッセージ、ありがとうございます。
実は、以前から投稿を何度か拝見していました。
盛りつけや構成がすごく綺麗で、勉強になるなと思ってました。
雑談配信、聴いてくださってたんですね。驚きました。
こうして声をかけてもらえたの、初めてで……正直うれしいです。
よかったら、またお話してみたいです。
(ふふ……やさしい)
文字なのに、なんでこんなにあたたかく感じるんだろう。
きっとこの人は、配信のときと同じように、ひとつひとつ言葉を選んでるんだろうな。
それが、ちょっとわかる気がした。
* * *
うちも返事を書こうと思ったけど、スマホを持ったまま5分くらいぼーっとしてた。
その間に、麦茶を飲み干したり、湯たんぽを足元にセットしたり。
気づいたら、テキスト入力画面に「うーん……」ってだけ書いてて、自分でも笑っちゃった。
結局、こうなった。
こんばんは。
メッセージ、とっても嬉しかったです……!
私の動画、見たことあるって……わあ……ありがとうございます。
配信、ほんとに好きな空気感で。聴いてる間、ずっとスープ飲んでるみたいな気持ちでした。
あったかくて、ほっとして、やさしい味がする感じ。
これからも、ゆるくお話できたら嬉しいです。
あと、よかったら“ラギ”って呼んでもいいですか?
送ったあと、ちょっと顔が熱くなった。
(スープって……なんだろう……でも、まぁ、いいか)
* * *
その日の夜、ラギからまた返事が来た。
“スープみたい”って言われたの、初めてです(笑)
でも、すごくうれしかった。
“ラギ”って呼び方も、もちろんOKです。
……よかったら、だけど。
動画投稿や配信のこと、たまに相談させてもらってもいいですか?
(わー……なんか、すごいこと聞かれた……)
でも、ラギならそう言ってくれるの、なんとなく想像できる気がした。
やっぱり、この人も“誰かとつながる”のが、まだちょっと不慣れで、でも本当はうれしいんだと思う。
もちろんです! というか、私の方こそいろいろ相談したいくらいです。
編集のこととか、配信のこととか、まだまだ手探りなので……。
あ、あと! もし良ければ、いつか一緒に配信とか、動画とか……
その、コラボ?みたいなことができたらいいなーって思ってます。
と送って、すぐに「ごめんなさい、早かったかな?」って続けて送ろうか迷ったけど、
そのまま画面を閉じた。
(急ぎすぎてないよね……?うーん、たぶん、大丈夫)
* * *
その夜、眠る前。
毛布にくるまりながら、スマホの画面をもう一度だけ見た。
“ラギ”という名前が、通知の上にちょこんと並んでる。
(なんか……あったかいなぁ)
声って、こんなふうに届くんだ。
ゆっくり、静かに、でもまっすぐに。
そして、返したくなる。
返したくなる声には、ちゃんと、気持ちがあるんだと思う。