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第36話:初のコラボ配信(1)

「……ねえ、咲良」


駅へ向かう帰り道、俺は横に並んで歩く咲良に声をかけた。


「はい? なんでしょうか」


咲良は俺の顔をちらりと見上げて、いつも通りの丁寧な笑みを浮かべた。

こうやって“なんでもない会話”から始められるようになったのは、ほんの最近のことだ。


「えっと、明日……ちょっと初めてのことがあって」


「初めてのこと、ですか?」


「うん。……人と、会う。SNSで知り合った人と」


「……!」


咲良は足を止めかけて、すぐに歩調を戻した。


「それって……ツブヤイターで仲良くなった方、ですか?」


「うん。なるみんっていう人。前に雑談配信の話してたとき、少し話題に出したと思うけど……動画も投稿してる人で」


「覚えています。なるみんさんですね」


俺がこくりとうなずくと、咲良の目が少し丸くなった。


「すごいですね……。お会いするのは初めて、なんですか?」


「うん。DMは何度もしてるし、通話もしたんだけど。

やっぱり直接会うってなると、緊張する」


「それは、当然ですよ。

でも、ラギさん……じゃなくて、綾さんの動画や配信を見て、その方が会ってみたいと思ってくださったんですよね?」


「……そう言ってくれてた」


「私、配信や投稿をする綾さんの姿、すごく好きなんです。

普段と少し違っても、それも綾さんらしくて。だから……素直に、応援したくなります」


咲良の声は柔らかいけれど、芯のある響きだった。


「……ありがとう」


胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。

咲良の言葉は、いつも少し照れくさいけれど、ちゃんと届く。


「だから、楽しんできてください。

何かあったら、また聞かせてくださいね」


「……うん。たぶん、また相談するかも」


「はい。そのときは、喜んでお話聞きます」


そう言って咲良は、俺の方を見てにこりと笑った。

その笑顔はまっすぐで、ほんの少しだけ、俺の背中を押してくれる。


「……ありがとう。咲良は、なんだかんだ一番相談しやすい」


「それは光栄です」


笑いながら手を振る咲良を見送り、俺はその日の帰路をほんの少しだけ軽い足取りで歩いた。



* * *



翌朝、土曜日。

目が覚めると、ほんのりと緊張が胸の奥に残っていた。


外出は久しぶりじゃない。でも、“会う”ための外出は、思ったよりも気持ちがそわそわする。


服は昨夜のうちに選んでおいた。

白のブラウスに、ネイビーのフレアスカート。

控えめだけど清潔感があって、今の自分にはちょうどいい。


洗面台の前で、俺は一度深呼吸をした。


この姿勢、この角度、この鏡に映る“俺”の顔——

いや、“綾”の顔も、もうすっかり見慣れた。


(よし、今日も、ちゃんと仕上げよう)


ポーチからファンデーションを取り出す。

肌に合う色を選んだのは、もう一ヶ月前のことだ。

最初はどれを買えばいいのかもわからず、ドラッグストアでひとりスマホ片手に調べていた。


「化粧下地を塗ってから、ファンデーション」

「厚塗りはだめ、薄く均一に」

「目の下のクマはコンシーラーで隠す」


最初はまるで呪文のようだった言葉が、今は日常の一部になっている。


パフを手に取り、頬にそっと滑らせる。

指でトントンと叩くように馴染ませると、肌のトーンがふんわりと整った。


ベースを終えたら、次は眉。

少し丸みのあるアーチを描くようにして、ペンシルで薄く形をなぞる。

少しでも力を入れすぎると濃くなりすぎてしまうから、慎重に。


(昔は、眉なんて剃るかどうかだけで十分だったのにな)


そんなふうに、ふと昔を思い出す。

綾人だった頃の俺は、鏡の前に立つ時間なんて、朝の三分もあればよかった。

それが今は、少しずつメイク道具を増やして、自分の顔を丁寧に整えるようになっている。


(……変わったな、俺)


だけど、不思議とそれが嫌じゃない。

この時間を、どこか“楽しい”と感じている自分がいる。


アイシャドウはベージュ系で統一。

派手すぎず、でも光の加減でほんのりきらめく質感を選んだ。

まぶたに指で乗せて、ほんのり目元に立体感をつける。


マスカラは、長さを出す程度に。

まつ毛の根元にそっとブラシを当てるとき、鏡の奥の視線とふっと目が合った。


「……大丈夫、かな」


思わず小さく呟く。

誰に聞かせるでもないその言葉は、でも、少しだけ背中を押してくれた気がした。


リップは、色づき控えめのピンクベージュ。

血色を与える程度で十分。塗りすぎないように、鏡越しに自分の唇を確かめる。


全体を見て、顔全体のバランスを整える。


(うん……これで、いい)


完璧じゃない。プロでもない。

だけど、“綾”として人と会うには、今の俺にはこれで十分。


髪を整え、バッグを肩にかけて、最後にもう一度鏡の前に立つ。


「——いってきます」


自分に向かって呟いたその一言が、

なんだか、いつもより自然だった。



* * *



電車に揺られ、二十数分。

見慣れない駅に降り立ったとき、俺は自然と背筋を伸ばしていた。




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