「……ねえ、咲良」
駅へ向かう帰り道、俺は横に並んで歩く咲良に声をかけた。
「はい? なんでしょうか」
咲良は俺の顔をちらりと見上げて、いつも通りの丁寧な笑みを浮かべた。
こうやって“なんでもない会話”から始められるようになったのは、ほんの最近のことだ。
「えっと、明日……ちょっと初めてのことがあって」
「初めてのこと、ですか?」
「うん。……人と、会う。SNSで知り合った人と」
「……!」
咲良は足を止めかけて、すぐに歩調を戻した。
「それって……ツブヤイターで仲良くなった方、ですか?」
「うん。なるみんっていう人。前に雑談配信の話してたとき、少し話題に出したと思うけど……動画も投稿してる人で」
「覚えています。なるみんさんですね」
俺がこくりとうなずくと、咲良の目が少し丸くなった。
「すごいですね……。お会いするのは初めて、なんですか?」
「うん。DMは何度もしてるし、通話もしたんだけど。
やっぱり直接会うってなると、緊張する」
「それは、当然ですよ。
でも、ラギさん……じゃなくて、綾さんの動画や配信を見て、その方が会ってみたいと思ってくださったんですよね?」
「……そう言ってくれてた」
「私、配信や投稿をする綾さんの姿、すごく好きなんです。
普段と少し違っても、それも綾さんらしくて。だから……素直に、応援したくなります」
咲良の声は柔らかいけれど、芯のある響きだった。
「……ありがとう」
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
咲良の言葉は、いつも少し照れくさいけれど、ちゃんと届く。
「だから、楽しんできてください。
何かあったら、また聞かせてくださいね」
「……うん。たぶん、また相談するかも」
「はい。そのときは、喜んでお話聞きます」
そう言って咲良は、俺の方を見てにこりと笑った。
その笑顔はまっすぐで、ほんの少しだけ、俺の背中を押してくれる。
「……ありがとう。咲良は、なんだかんだ一番相談しやすい」
「それは光栄です」
笑いながら手を振る咲良を見送り、俺はその日の帰路をほんの少しだけ軽い足取りで歩いた。
* * *
翌朝、土曜日。
目が覚めると、ほんのりと緊張が胸の奥に残っていた。
外出は久しぶりじゃない。でも、“会う”ための外出は、思ったよりも気持ちがそわそわする。
服は昨夜のうちに選んでおいた。
白のブラウスに、ネイビーのフレアスカート。
控えめだけど清潔感があって、今の自分にはちょうどいい。
洗面台の前で、俺は一度深呼吸をした。
この姿勢、この角度、この鏡に映る“俺”の顔——
いや、“綾”の顔も、もうすっかり見慣れた。
(よし、今日も、ちゃんと仕上げよう)
ポーチからファンデーションを取り出す。
肌に合う色を選んだのは、もう一ヶ月前のことだ。
最初はどれを買えばいいのかもわからず、ドラッグストアでひとりスマホ片手に調べていた。
「化粧下地を塗ってから、ファンデーション」
「厚塗りはだめ、薄く均一に」
「目の下のクマはコンシーラーで隠す」
最初はまるで呪文のようだった言葉が、今は日常の一部になっている。
パフを手に取り、頬にそっと滑らせる。
指でトントンと叩くように馴染ませると、肌のトーンがふんわりと整った。
ベースを終えたら、次は眉。
少し丸みのあるアーチを描くようにして、ペンシルで薄く形をなぞる。
少しでも力を入れすぎると濃くなりすぎてしまうから、慎重に。
(昔は、眉なんて剃るかどうかだけで十分だったのにな)
そんなふうに、ふと昔を思い出す。
綾人だった頃の俺は、鏡の前に立つ時間なんて、朝の三分もあればよかった。
それが今は、少しずつメイク道具を増やして、自分の顔を丁寧に整えるようになっている。
(……変わったな、俺)
だけど、不思議とそれが嫌じゃない。
この時間を、どこか“楽しい”と感じている自分がいる。
アイシャドウはベージュ系で統一。
派手すぎず、でも光の加減でほんのりきらめく質感を選んだ。
まぶたに指で乗せて、ほんのり目元に立体感をつける。
マスカラは、長さを出す程度に。
まつ毛の根元にそっとブラシを当てるとき、鏡の奥の視線とふっと目が合った。
「……大丈夫、かな」
思わず小さく呟く。
誰に聞かせるでもないその言葉は、でも、少しだけ背中を押してくれた気がした。
リップは、色づき控えめのピンクベージュ。
血色を与える程度で十分。塗りすぎないように、鏡越しに自分の唇を確かめる。
全体を見て、顔全体のバランスを整える。
(うん……これで、いい)
完璧じゃない。プロでもない。
だけど、“綾”として人と会うには、今の俺にはこれで十分。
髪を整え、バッグを肩にかけて、最後にもう一度鏡の前に立つ。
「——いってきます」
自分に向かって呟いたその一言が、
なんだか、いつもより自然だった。
* * *
電車に揺られ、二十数分。
見慣れない駅に降り立ったとき、俺は自然と背筋を伸ばしていた。