目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

バイトで色づく日々

第40話:バイトへの決意

日曜の朝は、平日よりも静かで、少しだけ肌寒かった。

暖房をつけるほどではないけれど、窓の外の光はどこか柔らかく、冬の匂いを含んでいるように思えた。


ベッドの上で薄い毛布にくるまりながら、俺はスマホを胸の上で握っていた。

もう少しだけ、ぬくもりに浸っていたい。でも、今日はそうもいかない。


昨日の夜から、ずっと考えていた。


琴葉からの電話。バイト先のカフェで厨房が人手不足になり、料理ができる人を探している。

「うち、あやっちに声かけるしかないと思って!」

冗談交じりにそう言っていた琴葉の声が、何度も頭の中をループする。


——バイトか。


今まで意識したことはなかった。

仕送りで暮らせているし、特に不自由もない。

でも最近は、化粧品や服、動画機材に思いのほか出費がかさんでいる。

もちろん、それを両親に言えば必要経費として送ってくれるだろう。

けれど……。


「そろそろ、自分のことくらい、自分でやってみてもいいかもしれない」


俺はそう思っていた。

“女の子として生きる”ことに慣れてきた今だからこそ、

生活を自分の手で支えるという感覚にも、興味が出てきていた。


それに——


少しだけ、外の世界と繋がってみたいという気持ちも、あった。


静かにスマホのロックを外し、琴葉の名前を探す。

昨夜の通話履歴の一番上に、それは残っていた。


一度深呼吸してから、発信ボタンを押す。


コールが数回鳴った後、あの元気な声が飛び込んできた。


「ん? あやっち? おはよ〜!」


「おはよう。……昨日の話なんだけど、やってみようかなって思って」


「マジ!? えっ、マジ!? マジで!?」


「うん。……料理は好きだし、やってみたいって思った」


「うわー! ありがと! ほんまに助かる〜!」


声のテンションが一段階上がったのがわかった。

スマホ越しでも、琴葉の喜びがはっきりと伝わってくる。


「急なんだけどさ、今日の午後からって大丈夫?

店長にも相談してて、できたら今日中に一度顔出してほしいって言われててさ」


「……午後か。うん、大丈夫。行けるよ」


「よっしゃ! じゃあ場所、改めて送るね。駅前の『青葉珈琲』ってお店。わりと有名」


「聞いたことあるかも。チェーン店だよね?」


「そーそー。うちはホール担当だけど、あやっちは厨房。制服も貸してもらえるから、動きやすい服で来てくれたらOK〜!」


「わかった。じゃあ、待ち合わせしようか」


「うん、じゃあ駅前のロータリーで13時に。楽しみにしてる〜!」


通話を切ると、胸の中に、昨日までとは少し違う緊張感が残った。


——初めてのバイト。

でも、やるって決めたからには、しっかりやろう。


そう自分に言い聞かせて、俺はベッドを抜け出した。


洗顔を済ませ、髪を軽く整えながら、鏡の前でふと考える。

こうして出かける前に身支度を整えるのは、もう当たり前のことになっていた。

メイクだって、初めは試行錯誤だったけど、今では“今日の気分に合った顔”をつくるのが少し楽しいと思えている。


「ほんと、変わったよな……俺」


独りごちて笑う。

変わったというより、少しずつ“馴染んで”きたのかもしれない。


服装は、カジュアルなベージュのニットに黒の細身パンツ。動きやすく、でもちゃんと今の自分らしく。

軽くストールを巻いて、エコバッグに財布とスマホ、モバイルバッテリーを放り込む。


時計を見ると、約束の時間の30分前。

ちょうどいいタイミングで家を出た。



* * *



日曜の駅前は人が多く、どこか浮ついた空気が漂っている。

待ち合わせのロータリーに立つと、ほどなくして琴葉の姿が見えた。


「おっ、あやっち発見〜!」


派手めなブルゾンにスキニーデニム、足元はスニーカー。

いつも通り元気で、目立つ格好だ。


「お疲れ。早いね」


「そっちこそ! あー、緊張してる〜?」


「……まあ、少し」


「大丈夫大丈夫! 店長もめっちゃ優しいし、厨房の先輩も一人残っててさ、めっちゃ教えてくれるから!」


そう言いながら、琴葉は自然に俺の隣に並ぶ。

歩き出すテンポも、会話のペースも、妙に安心できるのは彼女の人柄だろう。


「ここが青葉珈琲。知ってると思うけど、一応紹介!」


そこは、ガラス張りの外観が印象的な、こぢんまりしたカフェだった。

チェーン店とはいえ、内装には木目が多く使われていて、落ち着いた雰囲気を醸している。


入り口脇には、手書き風の黒板メニュー。

「本日のおすすめ・季節のスイーツ」「自家焙煎ブレンド珈琲」なんて文字が踊っている。


(けっこう……おしゃれなとこだ)


俺は無意識に深呼吸をひとつしてから、ドアを見つめる。


「じゃ、行こっか。新しい“あやっちライフ”、開幕だね!」


琴葉がニカっと笑って、ドアを押した。


一歩踏み出すと、ふわりと珈琲の香りが鼻をくすぐった。


その香りに包まれながら、

俺の新しい“日常”が、またひとつ始まるのだと実感する。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?