日曜の朝は、平日よりも静かで、少しだけ肌寒かった。
暖房をつけるほどではないけれど、窓の外の光はどこか柔らかく、冬の匂いを含んでいるように思えた。
ベッドの上で薄い毛布にくるまりながら、俺はスマホを胸の上で握っていた。
もう少しだけ、ぬくもりに浸っていたい。でも、今日はそうもいかない。
昨日の夜から、ずっと考えていた。
琴葉からの電話。バイト先のカフェで厨房が人手不足になり、料理ができる人を探している。
「うち、あやっちに声かけるしかないと思って!」
冗談交じりにそう言っていた琴葉の声が、何度も頭の中をループする。
——バイトか。
今まで意識したことはなかった。
仕送りで暮らせているし、特に不自由もない。
でも最近は、化粧品や服、動画機材に思いのほか出費がかさんでいる。
もちろん、それを両親に言えば必要経費として送ってくれるだろう。
けれど……。
「そろそろ、自分のことくらい、自分でやってみてもいいかもしれない」
俺はそう思っていた。
“女の子として生きる”ことに慣れてきた今だからこそ、
生活を自分の手で支えるという感覚にも、興味が出てきていた。
それに——
少しだけ、外の世界と繋がってみたいという気持ちも、あった。
静かにスマホのロックを外し、琴葉の名前を探す。
昨夜の通話履歴の一番上に、それは残っていた。
一度深呼吸してから、発信ボタンを押す。
コールが数回鳴った後、あの元気な声が飛び込んできた。
「ん? あやっち? おはよ〜!」
「おはよう。……昨日の話なんだけど、やってみようかなって思って」
「マジ!? えっ、マジ!? マジで!?」
「うん。……料理は好きだし、やってみたいって思った」
「うわー! ありがと! ほんまに助かる〜!」
声のテンションが一段階上がったのがわかった。
スマホ越しでも、琴葉の喜びがはっきりと伝わってくる。
「急なんだけどさ、今日の午後からって大丈夫?
店長にも相談してて、できたら今日中に一度顔出してほしいって言われててさ」
「……午後か。うん、大丈夫。行けるよ」
「よっしゃ! じゃあ場所、改めて送るね。駅前の『青葉珈琲』ってお店。わりと有名」
「聞いたことあるかも。チェーン店だよね?」
「そーそー。うちはホール担当だけど、あやっちは厨房。制服も貸してもらえるから、動きやすい服で来てくれたらOK〜!」
「わかった。じゃあ、待ち合わせしようか」
「うん、じゃあ駅前のロータリーで13時に。楽しみにしてる〜!」
通話を切ると、胸の中に、昨日までとは少し違う緊張感が残った。
——初めてのバイト。
でも、やるって決めたからには、しっかりやろう。
そう自分に言い聞かせて、俺はベッドを抜け出した。
洗顔を済ませ、髪を軽く整えながら、鏡の前でふと考える。
こうして出かける前に身支度を整えるのは、もう当たり前のことになっていた。
メイクだって、初めは試行錯誤だったけど、今では“今日の気分に合った顔”をつくるのが少し楽しいと思えている。
「ほんと、変わったよな……俺」
独りごちて笑う。
変わったというより、少しずつ“馴染んで”きたのかもしれない。
服装は、カジュアルなベージュのニットに黒の細身パンツ。動きやすく、でもちゃんと今の自分らしく。
軽くストールを巻いて、エコバッグに財布とスマホ、モバイルバッテリーを放り込む。
時計を見ると、約束の時間の30分前。
ちょうどいいタイミングで家を出た。
* * *
日曜の駅前は人が多く、どこか浮ついた空気が漂っている。
待ち合わせのロータリーに立つと、ほどなくして琴葉の姿が見えた。
「おっ、あやっち発見〜!」
派手めなブルゾンにスキニーデニム、足元はスニーカー。
いつも通り元気で、目立つ格好だ。
「お疲れ。早いね」
「そっちこそ! あー、緊張してる〜?」
「……まあ、少し」
「大丈夫大丈夫! 店長もめっちゃ優しいし、厨房の先輩も一人残っててさ、めっちゃ教えてくれるから!」
そう言いながら、琴葉は自然に俺の隣に並ぶ。
歩き出すテンポも、会話のペースも、妙に安心できるのは彼女の人柄だろう。
「ここが青葉珈琲。知ってると思うけど、一応紹介!」
そこは、ガラス張りの外観が印象的な、こぢんまりしたカフェだった。
チェーン店とはいえ、内装には木目が多く使われていて、落ち着いた雰囲気を醸している。
入り口脇には、手書き風の黒板メニュー。
「本日のおすすめ・季節のスイーツ」「自家焙煎ブレンド珈琲」なんて文字が踊っている。
(けっこう……おしゃれなとこだ)
俺は無意識に深呼吸をひとつしてから、ドアを見つめる。
「じゃ、行こっか。新しい“あやっちライフ”、開幕だね!」
琴葉がニカっと笑って、ドアを押した。
一歩踏み出すと、ふわりと珈琲の香りが鼻をくすぐった。
その香りに包まれながら、
俺の新しい“日常”が、またひとつ始まるのだと実感する。