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第41話:青葉珈琲

青葉珈琲あおばこーひー

駅前に数店舗展開する、地元密着型のチェーンカフェだ。


ガラス張りの落ち着いた外観に、木目調のインテリア。

ふわりと香るブレンドコーヒーの匂いに引き寄せられるように、常連客と学生たちがゆるやかに出入りする。


大型チェーンほどの無機質さはなく、かといって個人経営のようなアットホームさに偏るわけでもない。

適度な距離感と清潔感、それでいて気さくな雰囲気。

そんな「居心地のよさ」がこの店の魅力だった。


俺と琴葉はその店舗の一つ、駅前ロータリーからすぐの青葉珈琲に並んで立っていた。

午後の柔らかい日差しがガラスを透かして、店内のあたたかな色合いを照らしている。


「じゃ、入ろっか。店長いると思うし!」


琴葉の声にうなずき、ドアに手をかけた。

金属の取っ手の冷たさに、一瞬だけ緊張が走る。


チリン、とドアベルが鳴った。


中は予想以上に広々としていた。

カウンター席の奥に厨房があり、手前にはテーブル席が並んでいる。

ゆったりとしたBGMが流れ、店内を行き交うスタッフたちが、リズムよく作業していた。


「いらっしゃいませー!」


一人の女性スタッフが笑顔で声をかけてきた。

ホールの制服に身を包んだ、黒髪ポニーテールの真面目そうな人。


「お疲れさまですー! あの、この子、厨房で新しく入る子で〜!」


琴葉が明るく事情を説明すると、すぐに奥から男性が姿を現した。

三十代後半くらい、白シャツに黒エプロンの背の高い男性。無精髭が少し残っているが、どこか親しみやすい雰囲気を持っていた。


「おっ、君が柊さんか。店長の佐伯さえきです。今日は来てくれてありがと」


「……よろしくお願いします」


「ま、堅苦しいことはナシ。うち、思ったより忙しいけど、そのぶんチームワーク重視でやってるからさ」


佐伯店長はやさしく笑いながら、厨房の方をちらと見やった。


「今日はちょうど人が揃ってるから、ひと通り案内と紹介してから、顔合わせがてら一緒に動いてもらおうと思ってる。体験ってことで」


「わかりました。……よろしくお願いします」


「あと、藤本さんからも聞いてると思うけど、希望のシフトはどんな感じ?」


「……学校があるので、基本は平日夕方からと、土日。週4くらいは入れると思います」


「お、週4。助かるな〜。ぶっちゃけ、今キッチン人手足りてなくてな。朝倉あさくらさんって子が今メインなんだけど、昼と夜が分かれてるし、正直戦力ほしいと思ってたとこ」


「あ、今後ね、その朝倉さんの紹介で、もうひとり入る予定あるから」


琴葉がさらっと付け加える。

なるほど、俺の他にも補充予定があるんだな。


「じゃ、まずは朝倉さんに引き合わせるわ。あの子、教え方うまいから安心して」


佐伯店長に案内されて、厨房へと足を踏み入れる。

冷蔵庫やコンロの並ぶ調理場は想像していたよりも整然としていて、壁にかかったホワイトボードには細かい手順や注意書きがきれいに並んでいた。


「朝倉さん、ちょっといい?」


奥のコンロ前で仕込みをしていた女性が顔を上げた。

栗色のやわらかな髪をゆるくひとつに結び、落ち着いたベージュのエプロン姿が似合っている。


「はい、なにか?」


「この子、新しく入る柊さん。今日は体験で来てくれてるから、いろいろ教えてやってくれ」


「わかりました。こんにちは、朝倉真由あさくらまゆです。大学生2年生です、よろしくね」


「……柊綾です。高校生ですが、料理は好きなので、頑張ります」


朝倉さんは穏やかに笑った。

その表情には、必要以上の干渉や先輩風もなく、ただ自然に「仲間として迎える」空気があった。


「まずは道具の場所と、食材の並びから覚えようか。最初は洗い物と盛り付けをお願いするかもしれないけど、慣れたら火も使ってもらうから」


「はい、お願いします」


店長が一度厨房を離れ、俺は朝倉さんのあとをついていく。

この人なら、きっとやっていける。

そう思わせてくれる空気を、彼女は最初から纏っていた。


厨房の奥では、社員らしき男性ふたりが黙々と作業していた。

琴葉が「中島さんと矢野さん」って呼んでたな。無口そうだが、丁寧な仕事をしている。


「いまは落ち着いてるけど、土日はけっこう忙しくなるよ。大丈夫?」


「たぶん……やってみないと分かんないですけど、精一杯やります」


「うん、それで十分。焦らず、ゆっくり慣れていこうね」


そんな朝倉さんのやさしい一言が、今日一番、胸にしみた。


厨房の一角、使い込まれたステンレスの調理台に並べられた道具たち。

鍋、フライパン、ボウル、まな板、そして大小さまざまなトングやスプーン。

朝倉さんは一つひとつを手に取りながら、俺に説明してくれた。


「この店、基本的にランチとディナーのメニューはマニュアルがあるから、順番どおりに作れば大丈夫。火加減とか盛り付けは一緒に見ていこうね」


「はい。思ったより整ってるんですね」


「そうでしょ。うちの厨房、意外と整備されてるの。中島さんと矢野さんがきっちりしてるから。

あ、あのふたりは無口だけど、優しいから安心してね」


ちらりと視線をやると、二人の社員がそれぞれの持ち場で黙々と仕事をしていた。

目が合った瞬間、軽く会釈を返してくれる。


(……大丈夫、やっていけそうだ)


料理という作業があるだけで、俺は不思議と落ち着ける。

そう思えるのは、やっぱり昔からずっとキッチンに立ってきたからだろう。


「ちなみに、綾ちゃんって、どんな料理が得意なの?」


朝倉さんの言葉に、少し考える。


「和食全般です。煮物とか焼き魚とか……でも、最近はお菓子もよく作ってて」


「お菓子! いいなぁ、私もお菓子大好き。でも作るのは苦手なんだよね。

食べる専門で……お酒に合うスイーツとか、あったら最高って思う」


「お酒……ですか?」


「うん、わたし二十歳だから。あ、もちろんバイト中は飲まないよ?」


肩をすくめるように笑う朝倉さんに、俺もつられて笑う。

この人、ただの“落ち着いた先輩”ってだけじゃなくて、なんか……可愛らしいところもある。


「そうそう、私が紹介したい子、今度入ってくる予定なんだけど、ちょっとクセある子で。

でも真面目だから、最初はきつい印象かもだけど、話せば綾ちゃんとも合うと思うよ。再来週あたりから入れるようにするって話してたから」


「そうなんですね。……楽しみです」


まだ見ぬ誰か。

ここでの人間関係が、これからまた少しずつ広がっていく予感がした。



* * *



簡単な業務説明と厨房の動線確認を終えたころ、琴葉がひょこっと顔を出す。


「おっ、あやっちー。大丈夫そ?」


「……うん。ちゃんとやるよ」


「うち、ホールから見守ってるからっ! がんば〜!」


それからしばらく、実際に簡単な盛り付けや、皿洗いなどを体験させてもらった。

朝倉さんはすぐ隣で見守ってくれ、慣れない俺の動きにも一切焦らせるような空気はなかった。


キッチンの奥で黙々と焼かれるパンケーキ、スープの香り。

カフェに響くBGM、ホールを行き交うスタッフの足音。

それらが混ざり合って、俺の「初めての職場」は、思っていたよりもあたたかかった。


そして、すべてを終え、制服を脱ぎ、私服に着替えたとき。

帰り支度をしていた朝倉さんがふと声をかけてきた。


「今日はお疲れさま。最初の印象だけど……綾ちゃん、きっとここでやっていけると思うよ」


「……ありがとうございます」


「じゃあ、また次のシフトでね。あ、次は水曜の夕方だったよね?」


「はい」


「うん、楽しみにしてる」


そう言って手を振った朝倉さんの背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。


(うん……やってみて、よかった)


不安は、まだ残っている。

でも、それ以上に。


——この場所でも、自分の居場所を作っていける気がした。


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