文化祭が終わって数日後から、麻耶からのメッセージがぽつぽつと届くようになっていた。
──「文化祭、楽しかった。ほんとに。あれ、お姉ちゃんが全部仕切ったの?」
──「あのマドレーヌ、動画でまた見返してる」
──「あの動画とか、友だちにも見せた。すごいね、なんか」
返信はすぐに必要なものではなく、綾もまた、空いた時間にぽつりぽつりと返していた。
──「まあ、任されただけ」
──「ありがとう」
──「別に、すごくはないよ」
どちらも必要以上に長くは話さない。でも、そのやり取りが、どこか心地よくなっている自分に気づいていた。
そして週末の昼前、麻耶からメッセージが届いた。
──「今日、ちょっと時間空いたから、行ってもいい?」
ほんのひと言。それだけ。
俺は一拍置いてから、スマホの画面に打ち込んだ。
──「いいよ」
それだけでも麻耶はすぐに「ありがとー!」と返してきた。
* * *
駅で落ち合った麻耶は、以前よりも自然に「お姉ちゃん」と口にした。
「急にごめんね。でもちょっと、あの味がまた恋しくなっちゃったんだよね〜」
「またって、たいしたもんじゃないけど」
俺はそっけなく返しながらも、歩調を自然と麻耶に合わせていた。
家に戻ると、玄関先で麻耶が小さくつぶやく。
「やっぱ、ここ来るのちょっと緊張する……」
「別に、なんも変わってないよ」
「……うん、なんか、いい匂いするし」
キッチンには、すでに焼きあがったばかりのスイーツが並んでいた。
「これ……スイートポテト?」
「そう。試作品なんだ」
「試作?」
「……動画でコラボしようって話になってて。スイーツ系で合わせるなら、スイートポテトを作ってみたいなって。なるみんっていう子と」
「なるみん……あっ、知ってるかも! 同じ料理系の動画投稿してる人だ!」
「そう、その子」
「へぇ……お姉ちゃん、そんな繋がりまでできてるんだ」
「うん、まあ。趣味が合っただけ」
「でも、なんか……いいな。そういうの」
麻耶が、少しほほえむ。
その様子が、前よりも素直に見えた。
「とりあえず、味見して。意見ほしい」
俺が皿を出し、ティーセットまで用意すると、麻耶は目を丸くした。
「わ、ちゃんとしてる……!」
「……別に、いつも通り」
麻耶はおそるおそるフォークを入れ、スイートポテトをひと口。
「……うん、美味しい! しっとりしてるけど、重たすぎなくて、優しい甘さって感じ」
「砂糖控えめにしてる」
「……わかんないけど、すごい美味しいってのは伝わる」
「そりゃ、よかった」
一瞬、静かな時間が流れる。
でもそれは、気まずさではなく、ただ落ち着いた空気だった。
「……でも、ほんとに、こうやって話すの久しぶりだね」
麻耶が、ぽつりと漏らすように言った。
「そうかもね」
「前はさ、私、あんまりお姉ちゃんのことわかってなかったかもって思う」
「……別に、私も同じ」
そう答えながらも、俺の表情がすこしだけ崩れる。
麻耶もそれを見て、小さく笑った。
「お姉ちゃん、前より楽しそうだね」
「……そう見える?」
「うん。今の方が、ちょっと“人っぽい”っていうか」
「どういう意味」
「前はさ、なんか“無敵のお姉ちゃん”って感じだった。勉強も家事もできて、ちょっと冷たくて……だから私、勝てないって思ってた」
「そんなつもりはなかったけど」
「でも、今は……なんか、等身大って感じ。普通の人みたい」
「……喜んでいいの、それ?」
「うん。なんかちょっと、安心する」
俺は、何も言わなかった。
ただ、麻耶の言葉をそのまま、受け止めていた。
(そうか……俺、安心させる側にもなれるんだな)
ほんの少しだけ、自分が“姉”として何かを返せているような気がしていた。
キッチンに立ち、俺はてきぱきと鶏むね肉を切り分けていた。
麻耶が来ると決まったときから、メニューはすでに決めてあった。
(どうせなら、麻耶の好きなやつを……)
衣をまぶして、揚げ油に入れれば、ジュワッと音が弾ける。
その匂いに、リビングでスマホを見ていた麻耶がふらふらと立ち上がる。
「わ、唐揚げ!? 今日のごはん、それ?」
「そう。からあげ定食風」
「やったー、久々すぎてテンション上がる。……あ、私、お茶とか出そうか?」
「座ってて。味噌汁も煮えてきたし、すぐ出す」
「……はいはい、おとなしくしてまーす」
俺は器に料理を盛り付けながら、少しだけ口元がゆるむ。
(……俺、こんなふうに誰かに料理作るの、やっぱり好きだな)
目の前に誰かがいて、その人のために丁寧に作る。
食卓には、揚げたての唐揚げ、ほうれん草のおひたし、卵焼き、味噌汁、そして白ご飯。
定食屋顔負けのバランスに、麻耶は思わず「お店みたい……」とつぶやいた。
「いただきます!」
「どうぞ」
唐揚げをひと口食べた麻耶が、すぐに笑顔になる。
「うわ……外サクッとしてるのに、中しっとり。やばい、これ止まらないやつだ」
「むね肉は火の通し方次第で固くなるから、ギリギリまで下味で寝かせてた」
「マジで、どうしてそんなに知ってるの……?」
「趣味。一人暮らしはじめてから、それだけはずっとやってた」
「ふーん……でも、なんか意外。お姉ちゃんって、あんまりそういうの言わなかったじゃん」
「言ってなかったかもね。別に隠してたわけじゃないけど、誰かに話すことでもなかったし」
「そっか……でも、今はそういうのを発信してるもんね」
「まあね。動画とか、SNSとか。自分のペースでだけど」
「お姉ちゃんがSNSとか……なんか、前だったら絶対考えられなかったかも」
俺は箸を止めて、ふっと笑った。
「私もそう思うよ。……でも、変わるのも悪くないかなって」
麻耶は言葉を飲み込むように黙った。
しばらく、ご飯を食べる音だけが部屋に響いた。
やがて、箸が置かれる音とともに、麻耶がぽつりと口を開く。
「ね、お姉ちゃん」
「ん?」
「前の私さ、お姉ちゃんのこと、なんか……“勝手に壁”作ってた気がする」
「……うん、知ってた」
「っ、やっぱりかぁ……」
「そりゃ、わかるよ。ずっと距離あったし。……でも、それでも連絡してきたのは、ちょっと意外だった」
「うーん、なんでだろ。文化祭で……その、お姉ちゃんが、すっごく頑張ってるの見て……」
「……」
「楽しそうにしてたから、かな。なんか、急に“お姉ちゃんのこともっと知りたい”って思った」
俺はしばらく黙っていたが、すっと息をついた。
「……ありがとう。来てくれて、うれしかったよ」
「!」
「……たまには、言っとく。今後また言うかはわかんないけど」
「ううん、それだけでもじゅーぶん」
麻耶が、少し照れながらうなずいた。
* * *
夜の空気が少し冷たくなってきた頃、麻耶が上着を羽織りながら玄関に立つ。
「ほんと、今日はありがとね」
「うん。また、気が向いたら来ればいい」
「……来てもいい?」
「……別に、好きにしなよ」
その言い方に、麻耶はふっと笑った。
「わかった。また来るね」
「……気をつけて」
小さく手を振って扉を閉める。
その直後、俺は静かなリビングの空気に少し肩を落とした。
(なんだかんだ……少し寂しい、かもな)
でも、それを口にすることはない。
ただ、胸の奥に残った温かさだけを、静かに噛みしめていた。