昼休み。教室の片隅、俺・奈帆・琴葉・咲良のいつもの4人が、机をくっつけて昼食を囲んでいた。
「そういえば綾、この前のバイト、雰囲気どうだった?」
琴葉が弁当箱のふたを開けながら、気軽に話しかけてくる。
その一言に、奈帆と咲良が同時に「バイト?」と首を傾げた。
「……うん。琴葉に紹介してもらった店、面接行って、厨房担当で受かった」
「えっ、綾バイト始めるんだ!? てか、厨房!?」
奈帆が箸を止めて、勢いよく反応する。
「はい、そこ、ツッコミ早い」
琴葉が笑って奈帆の肩を軽く叩いた。
「でも、綾さんがバイトって意外ですね。厨房担当ってどんなお仕事なんですか?」
咲良がおっとりとしながらも、興味ありげに身を乗り出す。
「カフェの厨房。お客さんと直接話すことは少ないと思う。仕込みとか、簡単な調理を手伝う感じになるって」
「青葉珈琲ってとこ。うち、ホールやってるんだけど、最近キッチンの人手がめっちゃ足りてなくてさー。で、“料理できる子いない?”って聞かれて、あやっちしかいない!ってすぐ言った」
琴葉は胸を張りながら言った。
「ほんとに即決だったんだ……」
「いや、だってさ、あやっちの料理、ガチでうまいし。SNSでもスイーツ作ってんの見て、店長とか“マジでプロじゃね?”って言ってたからね」
「そ、そんなことないけど……」
俺は少し視線を逸らしながら、口元を押さえるように笑った。
「でも綾がバイトか〜。なんかちょっと感慨深いかも。生活費とか?」
「……親の仕送りだけでもやってけるけど、自炊とかして浮かせた分を衣類や道具に回してたら、少し足りなくなってきてて」
「そっか……でも綾なら、そういうのキッチリ管理してそう」
奈帆がほほ笑んだ。
「勤務はどのくらいの頻度なんですか?」
「週4くらいって話。人数少ないって言われてるし、今のところはそれで了承してる」
「まあでも、青葉は雰囲気いいし、あやっちならすぐ馴染めると思うわ」
「やっぱ綾って、“仕事してる女の人”って感じ出るよね」
奈帆の冗談に、みんながくすっと笑う。
「……似合ってるといいけどね」
心の中で(俺が“私”としてバイトする日が来るなんて)とふとよぎる。
俺は男だった頃も含めてバイト経験はなかった。
けれど、そんな戸惑いも、今はこの空気にふっと溶けていくようだった。
* * *
放課後、昇降口を出てすぐの道。
周囲のクラスメイトたちは三々五々に別れていくなか、綾と咲良は自然と並んで歩いていた。
この距離感にも、少しずつ慣れてきた。
「明日、初出勤なんですよね」
隣を歩く咲良が、ふとそんなふうに口を開いた。
「うん。午後から……緊張は、してるけど」
「でも、綾さんなら大丈夫です。……たぶん誰よりも丁寧に仕事覚えそうですし」
「……プレッシャーにも聞こえるけど、ありがとう」
「その、私……綾さんが“自分から何かやろう”って一歩踏み出したの、すごく素敵だなって思いました」
「……一歩踏み出したってほど、立派なことじゃないよ。ただ……やってみたいって、思っただけ」
「その気持ち、すごく大事だと思います」
柔らかい空気が流れる。
咲良はほんの少しだけ前を見て、言葉を続けた。
「もしも、何かあって挫けそうになったら、相談してくださいね。綾さん、ちょっと無理してしまいそうなところがあるから……」
「……それもプレッシャー」
くすっと笑った俺に、咲良も小さく笑い返した。
日が落ち始めた道を、2人の影が並んで伸びていく。
「……ありがとう。がんばるよ、明日」
そう静かに告げた俺の言葉に、咲良は「応援してます」と返した。
* * *
夜。部屋の中は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
明日からバイトが始まるという実感は、心のどこかでうっすらと響いている。
でも、それを煩わしく感じることはなかった。
むしろ、そのために、自分はずっと何かを積み重ねてきたような気がしている。
(……準備は整えた。あとは、やるだけ)
ベッドの脇に置いたバッグの中には、明日持っていくポーチと、メモ帳、簡単な常備品。
制服は職場にあるが、私服は地味めで、清潔感を意識して準備した。
けれど、俺が手を伸ばすのは、スマートフォンのカメラアプリだった。
(明日のことを考えすぎても、仕方ない)
冷蔵庫から取り出したのは、下味をつけておいた鶏むね肉。
それに旬の野菜を添えて、さっと蒸し焼きにする。
余分な思考が、静かに薄れていく。
料理は、いつも“無心”になれる変わらない時間。
焼きあがった料理を皿に盛りつけ、構図を整え、照明を調整し、写真を撮る。
この一連の作業も、すでに日常の一部になっていた。
写真の確認を終えた俺は、ツブヤイターのアプリを立ち上げる。
ユーザー名「ラギのごはん」として、静かに今日の一皿を投稿する。
今夜は鶏むね肉の香草ソテー。
あっさりだけど、しっかり美味しい一皿に。
#鶏むね肉レシピ #ラギのごはん #夜ごはん記録
投稿ボタンを押して、俺はスマホを伏せた。
(明日からは、新しい日常の始まりだ)
でも、どんな日でも変わらず作れる料理がある限り、自分は大丈夫だ。
そう思えたのは、この“日常”をひとつずつ手に入れてきたからこそ。
静かな夜の中で、俺はひとつ、深く息を吐いた。
そして明日を見据え、ゆっくりと電気を消すのだった。