目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第44話:バイト初日

「あやっち、今日バイト初日だね! 一緒に行こ」


放課後の昇降口で、スニーカーに履き替えながら琴葉が気軽に声をかけてきた。

制服のリボンを軽く整えながら、俺は短く頷いた。


「……うん。助かる」


「うちも今日シフト入ってるし、ちょうどよかったわ〜。新しい制服、ちょっと楽しみじゃない?」


「ん……まあ、少しは」


「ちょっとはって……あやっちってほんとブレないよね〜。うちらのお店、最初ちょっと緊張するかもだけど、スタッフみんないい人だからさ。肩の力抜いてこ!」


言いながら、琴葉は綾の背中をポンと軽く叩く。

その軽さに少しだけ緊張が和らいだ。


駅前の商業ビルを抜けて、青葉珈琲に到着するまでの間。

琴葉は仕事中の面白い話や、厨房の先輩の話などを少しだけしてくれた。


「うちが紹介したって言ったら、店長も朝倉さんも『お、マジ?』って感じで。期待値高いっぽいんだけど、あやっちもプレッシャー感じすぎないでね。たぶん、すぐ馴染むし」


「……ありがとう。でも、あんまりハードル上げないでほしいかも」


「でもマジで、うちよりできちゃったらちょっと嫉妬するかも」


そんな軽口を交わしているうちに、店に着いた。

ガラス張りのドアを開けると、コーヒーの香ばしい匂いがふんわりと迎えてくれる。


ホールの制服姿で働くスタッフたちが視界に入り、その中に見知った顔がいた。


「おっ、綾ちゃん。おつかれー」


奥から顔を出したのは、すでに制服姿の朝倉さんだった。

以前、面接の日に話をした落ち着いた雰囲気の女性。

彼女は厨房のメインを任されている大学生バイトだ。


「こんにちは。今日から、よろしくお願いします」


「うんうん、こっちこそ。面接のときから、いい子だなーって思ってたよ。制服、サイズ大丈夫だった?」


「はい、大丈夫そう……でした」


「よかった。じゃあ、まずはロッカー案内するね。着替えたら厨房の流れ説明するから」


琴葉が「うち、ロッカー案内したげる〜」と手を挙げ、私を連れてバックヤードへと進む。



* * *



制服は落ち着いたブラウンのエプロンと黒のパンツ。

鏡に映る自分の姿を見ながら、私は帽子を手に取り、髪をまとめる。


(こういうのも……だいぶ慣れてきたな)


夏に女として生き始めたころは、こうして服に袖を通すだけでも妙な意識があった。

でも今はただの“新しいバイト初日”として受け入れられている自分がいた。


着替えを済ませて厨房に戻ると、朝倉さんが手袋をはめながら待っていた。


「じゃあ、ざっと流れを説明するね。今日のところは洗い場と盛り付け補助をメインで。最初は無理しないで、わからないことあったら遠慮なく聞いてね」


「はい、わかりました」


厨房の中には、ほかにも社員スタッフが二人いた。

一人は中島さんという寡黙な男性。もう一人は矢野さんで、どちらかというと気さくなタイプらしい。


彼らの間で作業を始める俺。

まだ流れは覚束ないが、指示を聞いて動くぶんには大きな問題もなく、少しずつ身体がリズムを掴んでいく。


(知らない場所で、知らない人たちと働くのって……緊張するけど、嫌じゃない)


そう思いながら、俺はシンクに向かい、次の洗い物へと手を伸ばした。



* * *



18時を回る頃、厨房の空気が少しずつ慌ただしくなっていく。


「Aセット、テーブル5お願いしまーす!」


「Cセット、ホットでね!」


ホールから飛び交う声に、厨房の中も自然と動きが速まる。

朝倉さんは手際よく具材を調理し、盛り付けを進めていく。

矢野さんは次の仕込みに集中していて、中島さんは黙々と焼き作業を進めていた。


その中で、俺は盛り付けた皿を受け取り、サイドメニューやスープを添えてトレイへと整えていく。

まだ会話をしながら動く余裕はないけれど、流れに身を任せることで少しずつ“この場所”の空気を理解していく。


(バタバタしてても、不思議と焦りはないな……)


洗い物が溜まり始めても、朝倉さんが「後でまとめてやるから今はいいよ」と小声で言ってくれる。

その気配りが、俺の中の緊張をさらにほどいていく。


──19時半頃。


ピークを越えた店内で、少し落ち着いた空気が戻り始める。


「綾ちゃん、盛り付けもけっこう慣れてきたね。手際いいし、気がつくとこ多い」


ふいに朝倉さんがそんなことを言ってきた。


「……ありがとうございます。でも、まだ頭で考えてる感じで」


「それでそこまでできてるなら十分。あとは数こなすだけだから、大丈夫だよ」


軽いトーンで言われたその言葉が、妙に嬉しかった。

自分の“動き”が認められた感覚。

男だった頃も、料理が好きで作ってはいたけれど──誰かに「仕事」として評価されるのは、なんだかちょっと違う感覚だった。


(そういえば……初めて、厨房で“働いてる”んだな、俺)


この場所で動くことに、少しずつ心が馴染んできているのを、俺はぼんやりと感じていた。



* * *



21時。


「おつかれさまでしたー!」


ホール側の琴葉が、軽やかに声を張って厨房に顔をのぞかせた。


「おつかれー。綾ちゃんも、初日どうだった?」


朝倉さんに聞かれて、俺はタオルで手を拭きながら言った。


「……思ってたより、大丈夫でした。ありがとうございました」


「また明日も入ってるよね? ゆっくりお風呂入って休んでね。疲れが出るの、明日だからね〜」


「うちも帰り一緒だからさ、また感想でも聞かせて〜」と琴葉が言う。


制服をロッカーに戻しながら、俺はほんの少しだけ口角を上げた。


(……悪くない一日だった)



* * *



外に出ると、夜の空気は冷たくて気持ちよかった。

琴葉と並んで歩きながら、今日の勤務のことをひとつひとつ思い返していく。


「あやっち、なんか初日っぽくなかったよね。普通に溶け込んでたし」


「……そう見えたなら、たぶんうまくいってるってことかな」


「マジでそう。うち、ちょっと感動したもん」


「それは……買いかぶりすぎ」


ふふっと、琴葉が笑う。

駅の改札前で別れ際に「明日もがんばろーね」と手を振られ、俺も静かに片手を上げて応えた。



* * *



帰宅して玄関の鍵を開けると、室内はひんやりしていた。

二LDKのこの部屋に、一人で帰ってくる夜は、もうすっかり日常になっていた。


制服をハンガーにかけて、キッチンの電気をつける。

冷蔵庫の中の食材を眺めながら、俺は自然と手を動かし始めた。


(疲れてるはずなのに……料理してると、落ち着く)


まな板にネギを並べて包丁を入れ、音が一定のリズムを刻むたびに、頭の中のノイズが消えていくようだった。


日常に新しい“色”が加わる瞬間。

それは思っていたよりも、静かで、心地よいものだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?