夕方、制服のまま青葉珈琲へと向かう道を歩く。琴葉は今日はシフトに入っていない。一人でバイト先に向かう道に、少し緊張していた。
店の前まで来ると、ドアの向こうからコーヒーの香りがふわりと流れてきた。息を一つ整えて、ドアをくぐる。
「いらっしゃいませ」
ホールにいた女性スタッフが、穏やかな声で挨拶をくれた。俺はすぐに制服のネームプレートを見て気づく。
——
「……昨日から入った、厨房の柊です」
「あ、新人さんですね、砂原です。よろしくお願いしますね」
落ち着いた物腰に、柔らかな雰囲気。だが、あくまで礼儀正しい距離感を保つような空気が少しだけ漂っている。きっと真面目なタイプなんだろうと思う。
厨房の引き戸を開けると、朝倉さんが仕込みの手を止めてこちらを見た。
「おー、綾ちゃん。お疲れー」
「こんにちは。今日は、よろしくお願いします」
「今日は中島さんも一緒だから安心して。ね、中島さん」
奥で材料の整理をしていた男性社員が軽く手を挙げた。短めの髪と整った白衣姿。俺と目が合うと、少し照れくさそうに口を開く。
「柊さんか。……よろしく」
「あ、はい。今日もよろしくお願いします」
簡単なやりとりのあと、ロッカーに荷物を入れて、着替えてエプロンを装着する。厨房の空気はいつも通り、温度と湿度が独特で、少し汗ばむくらいだった。
「じゃ、今日はデザートの盛り付けと仕込み、半分ずつやってもらおうかな」
朝倉さんが手元のレシピボードを俺に渡しながら、にこりと笑った。中島さんは黙々と材料を切り揃えていて、厨房には淡々とした空気が流れていた。
この日から、俺は仕込み作業の中でも少し複雑な手順を任されるようになっていた。慣れた動きで食材をさばきながら、周囲との呼吸を合わせていく。最初のころはぎこちなかった厨房の空気も、いまはどこか心地よく感じられる。
* * *
閉店後、厨房の片付けがひと段落ついた頃、朝倉さんがぽつりと声をかけてきた。
「綾ちゃん、ちょっと手空いてる?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、こっち来て」
小さなテーブルに、コーヒーと軽いデザートが置かれていた。いつもの“締めの一杯”らしい。そこに、砂原さんもホールから戻ってきた。
「お疲れさまでした」
「お疲れ、未来もありがとう」
俺は椅子に座りながら、静かに二人の様子をうかがった。砂原さんとはこれが実質、初めてのちゃんとした会話になる。
「柊さん……厨房の手際、すごく丁寧ですね。初日とは思えなかったです」
「ありがとうございます。でも……まだまだ緊張してます」
「ふふ、そんなふうに見えませんでしたよ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……実は、家でも料理をよくしてて。それで、最近はSNSに投稿したりもしてて」
「そうでしたね、ちらっとお伺いしました」
「うん、綾ちゃんの料理のこと琴葉ちゃんからも聞いてたよ」
「はい。最初はただの趣味だったんですけど、ちょっとずつ見てもらえるようになって……それが、なんか嬉しくて」
言いながら、自然と微笑んでいる自分に気づく。
「私、見てみたいです。……よかったら、アカウントとか、教えてもらえますか?」
「えっと……その、恥ずかしいので……今度、タイミングがあったら」
「あっ、すみません。無理にとは……」
「いえ、大丈夫です。ちょっと照れるだけで」
そう言うと、砂原さんが少しだけ微笑んだ。
「なんだか、柊さんって……話してみると、想像と少し違いますね」
「え?」
「もっとクールで近寄りがたいのかと思ってたんです。でも、言葉の選び方とか、すごく丁寧で」
「……それは、その、ありがとう……ございます」
たしかに、そう思われていたのかもしれない。自分でも、昔から無意識に人と壁を作ってきたところはある。けれど今の自分は、こうして他人との会話を自然に楽しめている。それが不思議で、同時にどこかくすぐったい。
「もしまた何か作ったら、今度持ってきてよ」
「それは……前向きに考えます」
「うん、それでいいよ。ゆっくりバイトにも慣れていこうね」
静かな閉店後の時間。俺はカップを口元に運びながら、胸の中に少しあたたかいものを感じていた。
この場所で、自分がちゃんと“仲間”として見られている。そのことが、何より嬉しかった。