配信を切ったあとのキッチンには、心地よい静けさがあった。
余熱の残るオーブン、使い終わった器具の並ぶ作業台。
部屋にはまだ、さつまいもの甘い香りが残っている。
「……終わったね」
「うん、楽しかった」
なるみんは軽く伸びをして、ソファに腰を下ろす。
俺もその隣に座り、スマホを確認しながら小さく息を吐いた。
「コメント、めっちゃ来てたね。見ててニヤニヤした」
「……私も、ちょっと嬉しかった」
「“またやってほしい”っていっぱいあったよ。
でも、今日は特に、なんか……うちも見てて幸せだった」
「そう?」
「うん。なんかね、ラギが“戻ってきた”感じがした」
そう言って、なるみんは横目で俺を見る。
その目が優しくて、まっすぐで――
俺は、どこか照れくさくて言葉に詰まった。
「……ありがと」
「うん」
ふたりの間に、自然と静かな余韻が流れる。
窓から差し込む午後の光が少し傾いて、部屋の影をゆっくり伸ばしていた。
* * *
その後、後片付けを手分けして終わらせてから、家を出る。
帰り道。
駅までの道を並んで歩きながら、なるみんがふと口を開いた。
「ねえ、ラギ」
「ん?」
「今日、すっごく楽しかったけどさ……」
「うん」
「次はさ、配信とかじゃなくて……普通に遊びたいな、って思った」
「……遊ぶ?」
「うん。カフェとか雑貨屋とか……ふつうに、“友だち”として遊びたい。ダメ?」
その言い方があまりにも自然で、真っ直ぐで。
俺は少しだけ立ち止まりそうになった。
「ダメなわけ、ないよ」
「よかった〜。……じゃあまた連絡するね、今度」
「うん。……私からも、連絡する」
「約束〜!」
なるみんはいつもの調子で笑った。
でもその目は、ちゃんとこちらを見ていた。
駅の改札口。
軽く手を振って、なるみんがホームへと消える。
俺はしばらくその場に立ち尽くして、それから、ゆっくりと帰路に着いた。
* * *
夜。
片付いた部屋にひとり。
キッチンの電気だけが、静かに灯っている。
俺は、冷蔵庫の扉に貼ったレシピメモを見つめながら、深く息を吐いた。
(“見せる”ための料理じゃない)
今日、配信中も、なるみんと並んで笑いながら作っていたときも――
俺はどこかで、それを実感していた。
誰かに認めてもらうためじゃなく、
誰かに「届く」ように、作ること。
味とか、見た目とか、もちろん大事だけど。
一番大事なのは、「どう届けたいか」だった。
(俺の料理は、俺の言葉だ)
そしてそれを、まっすぐに受け取ってくれる人たちがいる。
咲良、琴葉、奈帆、麻耶、なるみん……名前を思い出すたび、胸が少しずつ温かくなる。
もう迷わない。
誰かの声に揺れることはあっても、俺の軸は、ちゃんとここにある。
「また、作ろう」
静かにそう呟いた声は、部屋の中でふっと溶けていった。
* * *
金曜のバイト終わり。
青葉珈琲のキッチンに流れる音は、もうすっかり馴染んだ“日常”のものだった。
湯気の立つスープ鍋。
包丁の小気味いい音。
そして、厨房スタッフたちの、短くて静かなやり取り。
「ポタージュ、今朝倉さんが仕込んでくれてた分、火入れだけでいいって」
「了解です」
俺はうなずいて、鍋の火加減を調整した。
指先に迷いはない。
感覚はちゃんと、戻ってきていた。
その様子を横目で見ていたのは、柚木さん。
黙って、でも確かにこちらを一瞥してから、調理台に目を戻す。
以前なら、その視線にどこか構えていたけれど――今は違う。
“見られること”が、怖くなくなった。
「……前より、手際よくなったね」
「……え?」
柚木さんが、不意にぽつりと言った。
それは“評価”というより、“観察した結果を述べた”というような口調で、
でもそこには、かすかな認めるニュアンスがあった。
「前より……って、前は下手でした?」
「そんなこと言ってないよ。ただ、今の方が“迷ってない”。無駄が少ないって感じ」
「……そうですか」
俺は、少しだけ息を吐いた。
たぶん、柚木さんにとっての“誉め言葉”は、こういう淡々とした指摘の中にしかない。
だけど、それで充分だった。
「……ありがとうございます」
言葉を返すと、柚木さんは何も言わず、包丁の柄を握り直す。
でもその手の力加減が、少しだけ和らいだように思えたのは――気のせいじゃない、はずだ。
* * *
閉店後、軽く後片付けを終えてから、俺はひとり帰宅した。
コートを脱ぎ、鞄を置いて、ふとキッチンに立つ。
キッチンに灯る小さな明かりの下。
手に馴染んだまな板と、包丁の重み。
これまで何度も立ってきた場所なのに――
今は、少しだけ景色が違って見えた。
(俺は……やっぱり、料理が好きだ)
それは誰に言うでもない、ただの独り言だったけど。
でも今の俺には、それが一番大切な“確信”だった。
SNSで見せることも、誰かに褒められることも、悪いことじゃない。
でも、俺の料理は――
誰かに、
たった一人でもいい、
ちゃんと届けば、それでいい。
「……もう迷わない」
静かに呟いたその言葉は、部屋の空気に溶けて、音もなく消えていく。
でも胸の奥には、熱を残していた。