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第3話 ティアマト



フレイヤとフェンリルは、山を抜けると目の前に広がる広大な大海を見渡した。青い空と海が地平線で交わる光景は美しく、フレイヤは少しの間その景色を楽しんでいた。


「さて、海岸沿いを歩いて国境を抜けるとするか」と、彼女は呑気に言いながら、肩にかけた小さな荷物を持ち直した。


「主よ、本当に海岸沿いを進むのか?」フェンリルは少し心配そうに彼女を見上げた。


「ええ、他に選択肢はないわ。それに、次に行くスイーツ店はこっちのルート沿いよ」とフレイヤは笑顔で答えた。


フェンリルは少し疑念を抱いたが、フレイヤの自信に満ちた態度を見て、それ以上は何も言わなかった。


彼らは旅を続け、道中にある海沿いの小さな村に立ち寄った。村は静かで、漁をして生計を立てているようだった。フレイヤは少し休憩することを提案し、村の広場に向かうと、村人たちが彼女たちに目を向けた。


「こんにちは!」フレイヤは明るく挨拶をした。


村人たちは最初、温かく彼女たちを迎え、フレイヤとフェンリルに飲み物を勧めてくれた。フレイヤは村の雰囲気を楽しみながら、村人たちと軽く世間話を交わしていた。


「次は、海岸沿いを通って国境を越えようと思っているんです」と、フレイヤは何気なく言った。


その瞬間、村人たちの表情が一変した。和やかだった空気が急に重苦しくなり、村人たちは顔を見合わせて言葉を失った。


「どうかしましたか?」フレイヤは首をかしげながら尋ねた。


すると、一人の年老いた村長が前に出てきて、静かに口を開いた。


「その道を行くのは、控えた方が良いでしょう。特にこのあたりの海は、危険なのです。」


「危険?」フレイヤは興味を引かれたように村長を見た。「何が危険なの?」


村長は一瞬躊躇したが、周囲の村人たちも彼を見守る中、彼は意を決したように話を続けた。


「この海には、『ティアマト』という存在が時折現れるのです。彼女はただの怪物ではありません。神話にも登場するような、神々に近い存在だと言われています。私たちはその名を口にすることさえ恐れます。」


「ティアマト…」フェンリルは低くつぶやいた。その名を聞いた瞬間、彼の体が少し緊張したのをフレイヤは感じ取った。


「でも、それってただの伝説か何かでしょ?」フレイヤはあまり気にせずに言った。「実際にそのティアマトっていう存在を見た人はいるの?」


村長は深く息を吐き、頷いた。「はい、何人かは目撃しています。海が突然荒れ狂い、巨大な影が海中から現れると言います。その姿を見た者は、恐怖で言葉を失い、しばらく船に乗ることさえ恐れるほどです。」


村人たちも口々にティアマトの恐ろしさを語り始めた。


「ティアマトは嵐を呼び起こし、海そのものを支配していると言われています。彼女が現れたときは、すべてが飲み込まれるかのように海が荒れ狂うのです。」


「しかし、彼女は人間を狙って襲うわけではありません。ただ、その場に存在するだけで、自然が乱れるのです。」


フレイヤはその話を聞きながらも、どこか他人事のように微笑みを浮かべていた。


「そういうことね。でも、まあ、神々に近い存在なら、私たち人間のことなんて気にも留めないでしょう。まるで、道に落ちている石ころみたいにね。」


フェンリルは、フレイヤの言葉に不安そうな表情を浮かべた。「主よ、神々の力を軽んじるべきではないかと…」


フレイヤは笑って答えた。「まあ、そうね。でも、私たちが道を歩いていて、石ころをわざわざ蹴り飛ばしたりしないでしょ?もし神が私たちを石ころだと思っても、わざわざ干渉してくることはないわよ。」


村長はその楽観的な態度に不安を感じながらも、「どうかご無事で」とだけ言い、フレイヤたちを見送った。



---


村を後にしたフレイヤとフェンリルは、再び海岸沿いの道を進み始めた。フェンリルはまだ心配そうにフレイヤを見つめていたが、彼女は気にせずに先を急いでいた。


「本当に大丈夫なのですか?」フェンリルが重ねて尋ねた。


「大丈夫よ」と、フレイヤは笑顔で答えた。「そんなに簡単に神の類に遭遇しないって。それに、たとえ遭遇したとしても、向こうが私たちを気にかけることなんてないわよ。」


フェンリルは少し考え込み、「…そうであれば良いのですが」とつぶやいた。


しかし、彼らがこの先で直面する運命は、村人の伝承以上に壮大で畏怖すべきものであることを、二人はまだ知らなかった。



フレイヤとフェンリルは、村を後にして海岸沿いの道を進んでいた。陽が傾き、風が少しずつ強まる中、波の音が静かに耳に届く。空がオレンジ色に染まり始め、フレイヤはその光景を楽しむように足を進めていた。


「本当にティアマトなんて出るのかしら?」フレイヤは呟いた。「村人たちの話は少し大げさだったんじゃない?」


「主よ、油断しないでください。あの気配、普通のものではない…」フェンリルは周囲を警戒しながら、静かに答えた。


その瞬間、空が一変し、急に曇り始めた。風が強くなり、波が荒れ狂い出す。辺りは不気味な静寂に包まれ、海の水面が不自然に揺れ始めた。冷たい風が吹き荒れ、フレイヤの髪を乱す。


「これは…ただの嵐じゃないわね…」フレイヤが眉をひそめ、周囲を見渡す。


突然、海の向こうから巨大な影が浮かび上がり、波間に現れた。それは蛇のように長い体を持つ存在で、まるで海そのものがその体を形成しているかのようだった。鱗は黒く、青い光沢を放ち、見る者に不気味な印象を与える。


その姿は、まさにティアマトのものだった。彼女の巨大な体は海の中でうねり、波の一部として動いていた。体は蛇のように長く、黒と深い青の鱗に覆われており、その光はまるで夜空の星々を反射するかのように輝いていた。


「…本当に出ちゃったみたいね」フレイヤは苦笑し、目の前の光景を見つめた。


ティアマトの顔は龍に似ているが、通常のドラゴンとは異なり、その顔には無数の目が並んでいた。それぞれの目は暗い深淵を覗いているような冷たさを放っており、見る者に強烈な威圧感を与えた。


「厄介だな…」フェンリルは低く呟き、その巨大な姿に対して身構える。


ティアマトの背からは、波のようにうねる無数の触手が伸びていた。それらの触手は、まるで海そのものが具現化したかのように動き、触手の先端が水滴のように分かれ、再び一つに戻るという不気味な動きをしていた。


「神話の中の存在が現実に現れるなんてね…」フレイヤは興味深そうにティアマトを見つめた。


ティアマトの動きはゆっくりでありながらも、圧倒的な存在感を放っていた。波と一体化しているその姿は、見る者に神々しさと恐怖を同時に感じさせるものだった。やがて、彼女の巨大な体が徐々に変化し始め、次第に人間の姿へと縮小していく。


フレイヤとフェンリルの前に立ったティアマトは、長く黒い髪を揺らし、静かに佇んでいた。その姿は、深い海を思わせるほどに冷たく、神秘的な美しさを放っていた。




ティアマトがその巨大な姿を人間のものへと変え始めた瞬間、海の荒れ狂う波は静かに鎮まっていった。彼女の巨大な体は徐々に縮小し、波と共に流れるように形を変えていく。最終的に、フレイヤとフェンリルの目の前に現れたのは、黒い髪を揺らす人間の女性だった。


ティアマトの姿はまるで海の化身そのものであった。彼女の髪は深海の闇を思わせる濃い黒と、光を反射する青みがかった光沢を放っている。それはまるで海の底で揺れる海藻のように柔らかく、風に流れるたびに冷たく湿った空気が周囲に広がっていく。ティアマトの髪は、ただの髪ではなく、その一房一房が海の波そのもののように動き、彼女の存在感を一層際立たせていた。


彼女の肌は透き通るように白く、まるで水の中に漂っているかのような光沢があった。薄い青い光を放ちながら、彼女の体全体が静かに輝いていた。ティアマトが立っているだけで、空気は冷たく湿り、まるで海辺にいるかのような感覚が広がっていた。


「人間の姿に…?」フェンリルは少し驚いた様子でティアマトを見つめた。


ティアマトの目は、深い青と緑が混ざり合い、まるで海そのものを映し出しているかのような色彩を持っていた。瞳の奥には暗い深淵が潜んでおり、見つめる者に畏怖と威厳を感じさせる。冷たく鋭い視線ではあったが、その中にはどこか神秘的な知恵が宿っていた。


「すごいわね…まるで本物の海の女神って感じ」フレイヤはティアマトを眺めながら感心したように言った。


ティアマトの体は細身でありながらも引き締まった筋肉が見え隠れし、自然の力と古代の神秘を体現しているかのようだった。彼女が纏っている濃紺の長いローブは、海そのものを思わせるような深い色合いをしており、裾には白い波のような模様が広がっていた。ローブは軽やかに風に揺れ、その動きはまるで水面の波紋のように柔らかで静かだった。


ティアマトの背中には、かつて翼があったかのような痕跡が残っており、それが彼女の神聖さを一層強調していた。人間の姿でありながら、彼女がただの人間ではないことは明らかだった。


ティアマトはゆっくりとフレイヤに近づき、その目をじっと見つめながら静かに膝をついた。彼女の動きは一つ一つが優雅でありながらも、どこか冷ややかで神聖さが漂っていた。


「我が主よ、どうかお仕えさせてください」と、ティアマトは低い声で言った。その声はまるで遠くの海から聞こえてくる波音のようで、静かでありながらも圧倒的な存在感を放っていた。


フレイヤはティアマトの申し出に少し驚きながらも、彼女の真摯な姿勢に対して少し考え込むような表情を浮かべた。


「お仕えしたい、ですって?」フレイヤは首をかしげながらティアマトの言葉を繰り返した。「でも、あなたみたいな神に近い存在が、どうして私に仕えたいの?」


ティアマトは冷静な表情を保ちながら答えた。「貴方の力を感じました。神々に通ずる力をお持ちの貴方に、私は忠誠を誓いたいのです。」


フェンリルはそのやり取りを黙って聞きながら、少し不満げな顔をしていた。「そこの畜生よりもお役に立てる、とでも言いたいのか?」彼は低い声でティアマトに問いかけた。


ティアマトはちらりとフェンリルに視線を向け、「もちろん、貴方よりも優れた存在としてお仕えできると確信しています」と静かに言った。


「誰が畜生だ!」フェンリルは怒りをあらわにして吠えた。


フレイヤはその場の緊張感を少し緩めるように軽く笑い、「まあまあ、フェンリル。彼女だって私に仕えたいって言ってるんだから、いいじゃない。それに…」フレイヤはティアマトを見つめ、「その神々しいオーラ、もう少し控えめにしてくれない?目立ちすぎて困るのよ」


ティアマトはフレイヤの言葉に頷き、瞬時にその神々しいオーラを抑えた。周囲の空気が静まり、彼女の存在感は普通の人間のように見えるまでに弱められた。しかし、その背後には依然として強大な力が隠されていることを感じ取ることができた。


「これでよろしいでしょうか?」ティアマトは穏やかに尋ねた。


フレイヤは満足そうに微笑んだ。「うん、これならいいわ。じゃあ、一緒に旅を続けましょう。」


ティアマトは静かに立ち上がり、フレイヤのそばに立った。彼女の足元には微かに水が滴り落ち、まるで彼女が海と完全に切り離されていないかのような印象を与えた。どこにいても、彼女の周囲には涼しい潮風が漂い、遠い海の気配を感じさせる。


こうして、フレイヤ、フェンリル、そして新たに加わったティアマトの三人(一匹)は、再び旅を続けることになった。ティアマトという圧倒的な存在を得たことで、フレイヤの旅はさらに不思議で賑やかなものとなる予感が漂っていた。




海岸地帯を抜けたフレイヤ一行は、再び山々が連なる険しい峠道に足を踏み入れていた。空気は少しひんやりとし、道の両側にそびえる木々が、深い森の静寂を漂わせている。


「主様、これからしばらく険しい山道が続きます。お疲れではありませんか?」ティアマトはフレイヤに向かって優しく声をかけた。「もしお疲れでしたら、わたくしがおんぶして差し上げます。それとも、抱っこがよろしいでしょうか?」


フレイヤは苦笑しながら答えた。「平気よ、ティアちゃん。」


そう、フレイヤはティアマトを「ティアちゃん」と呼ぶようになっていた。最初は少し距離があったが、ティアマトの献身的な態度に次第に親しみを感じ、今では彼女を友達のように扱っている。だが、さすがにティアマトにおんぶされるのは恥ずかしい。素直に疲れたとは言えない状況だ。


「蛇女!主に気安く触れるな。我が主がお疲れの時は、私が背に乗っていただくのだ!」フェンリルが鋭い口調でティアマトをけん制した。


「犬は、犬らしく番犬でもしてればいいのよ!」ティアマトも負けじと応酬する。


こんな調子で二人(と一匹)のやりとりは常に賑やかだった。フレイヤは微笑ましくそのやりとりを聞きながら、少しずつ疲労を感じていたが、決して弱音を吐かず、ただ前を向いて歩き続けていた。



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峠道を進む彼らの前に、不幸な事件が待ち受けていた。


「貴様ら!金目のものを置いていけ!」


突然、何者かの声が響いた。現れたのは、一群の山賊だった。彼らは、フレイヤたちを目当てに武器を振りかざし、道を塞いでいた。


「これは…山賊ね。」フレイヤはため息をつくように言った。


山賊のリーダーらしき男がフレイヤを見て不敵な笑みを浮かべた。「女か…売り飛ばしてやる!」


その瞬間、空気が一変した。突如として恐ろしいまでのオーラが辺り一面に巻き上がる。ティアマトとフェンリルが、神の力をフルに解放したのだ。彼らの背後には、まるで嵐が巻き起こったかのように圧倒的な威圧感が広がり、山賊たちの顔色が一気に青ざめた。


「我が主に不貞な感情を抱いた愚か者め、生きて帰れると思うな!」ティアマトは冷たく言い放ち、周囲の空気がさらに重くなった。


「我が主を汚す者は、一片の細胞も残らん!」フェンリルもまた、鋭い眼光で山賊たちを睨みつけた。


その威圧感はまるで、目の前に立つだけで命が削られるかのような恐怖を与える。山賊たちは一瞬でその恐怖に飲み込まれ、一人残らずその場で失神してしまった。彼らは二度と動くことができず、ただ倒れ伏したままだった。


フレイヤはその光景を呆れながら見ていたが、特に何も言わずにその場を離れようとした。「ま、山賊なんてこんなもんよね。ティアちゃん、わんわん、行きましょうか。」


二人(と一匹)は、失神している山賊たちを一瞥しただけでその場を立ち去った。


その後、山賊たちは目覚めたが、彼らは二度と山賊行為に手を染めることはなかった。あの時の恐怖が彼らの心に深く刻み込まれたため、全員が山賊を引退し、真っ当な生活に戻ったという。



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峠道を越えたフレイヤたちは、再び次なる目的地へと向かい、旅を続けることになる。









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