本編より少し先の話、
記録閣は
「ふぅ…やっと終わった」
勇姫は筆を置き、首を回しながら伸びをした。深夜を回り、宮殿はすっかり静まり返っている。窓から差し込む月明かりだけが、彼女の仕事机を優しく照らしていた。
「さて、帰ろうかな」
彼女が立ち上がろうとした瞬間、扉が静かに開く音がした。
「誰…?」
驚いて振り返った勇姫の目に飛び込んできたのは、思いがけない人物だった。栗色の髪と墨茶色の瞳を持つ若い男性——
「殿下!?」
勇姫は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「こんな時間に何を…」
「君も同じだね」
瑞珂はほんの少し笑みを浮かべた。
「眠れなくて、散歩をしていたら光が見えたんだ。まさか君が残っているとは思わなかったよ」
「急ぎの報告書がありまして…今終わったところです」
瑞珂は室内を見回した。
「君のおかげで、ずいぶん整理されたね。前はこの部屋に入るのも一苦労だったよ」
「ありがとうございます」
勇姫は少し照れながら答えた。瑞珂は窓に近づき、外の月を見上げた。
「きれいな月だね」
「はい、今夜は満月です」
勇姫も窓際に立ち、月を見上げた。二人の間に、ほんの少しの距離。
「前世…というと変かもしれませんが、私の世界でも、同じ月が見えていました」
勇姫は思わず呟いた。瑞珂は興味深そうに彼女を見た。
「君の世界の話を聞かせてくれないか?」
「え?」
「あぁ、無理にとは言わないよ。ただ、興味があるんだ」
瑞珂の目は真摯で、勇姫は断れなかった。
「では…少しだけ」
二人は向かい合って座り、勇姫は前世での生活について語り始めた。オフィスでの残業、煩雑な書類処理、理不尽な上司…。
「大変だったんだね」
瑞珂が言うと、勇姫は少し笑った。
「そうですね。でも不思議なことに、ここでの生活の方が、ずっと充実しています」
「それは、どうして?」
「ここでは…私の仕事が、誰かの役に立っているのを実感できるからです」
勇姫の言葉に、瑞珂はじっと彼女を見つめた。
「君は特別だね。自分のことより、他人のことを考える」
「そんなことは…」
「いや、本当に特別だよ」
瑞珂は窓から差し込む月明かりに照らされた勇姫の横顔を見つめながら続けた。
「僕は生まれた時から皇太子として育てられた。周りは僕を『立場』としてしか見ていない。でも君は違う。僕の言うことに『それは違います』と言ってくれる」
勇姫は驚いて瑞珂を見た。
「失礼なことを言ってしまったなら…」
「いや、そうじゃない」
瑞珂は首を振った。
「それが嬉しいんだ。誰も本当の僕を見てくれない中で、君だけが僕自身を見てくれている」
勇姫は言葉に詰まった。瑞珂の目に映る孤独を、彼女は感じ取っていた。
「殿下…」
「この部屋にいる時だけでいいから、僕のことを『瑞珂』と呼んでくれないか?」
勇姫は驚いて目を見開いた。
「そ、それは…」
「無理かな?」
瑞珂の目には、少年のような期待が浮かんでいた。勇姫は小さく息を吸い込み、勇気を出して言った。
「瑞珂…さん」
瑞珂の顔が明るくなった。
「ありがとう、勇姫」
二人の間に静かな親密さが流れた。月明かりが二人を優しく包み込む。
「勇姫、君はここに来て後悔していない?」
「いいえ、全く」
勇姫はためらうことなく答えた。
「ここには、前世では得られなかったものがあります。自分の価値を感じられる場所、信頼してくれる仲間、そして…」
彼女は言葉を切った。
「そして?」
瑞珂が尋ねると、勇姫は頬を少し赤らめた。
「何でもありません」
「教えてよ」
瑞珂が身を乗り出すと、勇姫は思わず後ずさりした。背中が窓枠に当たり、逃げ場がなくなる。
「そして…殿下、いえ、瑞珂さんのような方と出会えたことです」
勇姫は思い切って言った。瑞珂の目が大きく開いた。
「僕のような?」
「はい。理想を持ち、国のことを本気で考え、人々のために何ができるかを常に模索している人。私も、そんな方のお役に立ちたいと思うようになりました」
瑞珂はゆっくりと手を伸ばし、勇姫の頬に触れた。勇姫はびくりとしたが、逃げなかった。
「勇姫…僕は君に出会って、初めて『共に歩みたい』と思ったんだ」
瑞珂の言葉に、勇姫の心臓が早鐘を打った。
「そ、それは…どういう…」
「分からない?」
瑞珂は少し笑みを浮かべた。
「君は仕事は完璧なのに、こういうことには鈍感なんだね」
彼は勇姫の手を取った。暖かい感触に、勇姫は言葉を失った。
「僕は君を…」
瑞珂が言いかけたその時、外から足音が聞こえてきた。二人は慌てて離れた。
「巡回の宦官ね」
勇姫は小声で言った。瑞珂は少し残念そうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「また続きを話そう。今度は僕の
足音が近づく中、瑞珂は勇姫の額に軽くキスをした。
「おやすみ、勇姫」
そう言うと、彼は別の扉から姿を消した。勇姫は頬を赤らめたまま、その場に立ち尽くしていた。
「ぐぬぬ……」
彼女は自分の額に手を当て、先ほどの感触を思い出した。窓から差し込む月明かりが、彼女の赤らんだ頬を照らしている。
やがて巡回の宦官が記録閣に入ってきた。銀白の髪を持つ
「遅くまでお疲れ様です。もうお帰りになられては?」
「は、はい!今片付けます」
勇姫は慌てて書類をまとめ始めた。白凌は窓の外を見て、静かに言った。
「今宵の月は美しいですね。思い出に残る夜になったのではないでしょうか」
勇姫は驚いて白凌を見たが、彼の表情は穏やかだった。
「何もお見えになりませんでしたよ。私は記録するだけの者ですから」
そう言って、白凌は静かに去っていった。勇姫はほっと安堵のため息をついた。
帰り道、勇姫は月を見上げながら考えていた。この感情は何なのだろう?前世では経験したことのない、胸の高鳴り。
「効率化できない唯一のものかもしれないわね」
彼女はくすりと笑った。月明かりに照らされた