農地改革会議での勝利から二週間が過ぎ、私──
「ふぅ…」
深夜の執務室で、大きなため息をついた。瑞珂の案件が一段落し、やっと自分の計画に取り組める時間ができた。それは、宮中全体の業務の流れを可視化する「業務フロー図」の作成だ。
「よし、集中しよう」
私は目を閉じ、脳内スプシを開いた。宮中の様々な部署や人々の間を行き交う情報や物資の流れを、矢印や図形で表現していく。誰が何をいつどのように処理しているのか、一目でわかるようにするのだ。
「ここが問題ね…」
脳内で完成したフロー図を眺めると、無駄や重複、矛盾が明確に見えてくる。例えば、一つの承認に三人の役人が関わり、書類が何度も行ったり来たりしている部分。あるいは、同じ情報を複数の人が別々に記録している箇所。
「これを改善すれば、宮中の業務効率は倍増するわ」
さて、問題は、この複雑な頭の中のフロー図をどうやって紙に再現するかだ。単なる表ではなく、様々な要素が絡み合う立体的な構造を、平面に表現しなければならない。
「色分けと線の種類で区別しよう」
最高級の大きな
朝日が射し始める頃、私はようやく筆を置いた。机の上には、色とりどりの線と図形で埋め尽くされた巨大な業務フロー図が完成していた。
「これで…」
疲れた目をこすりながらも、満足感に浸る。現状の業務の流れを完全に可視化することで、次の改革の布石が打てるはずだ。
「勇姫?こんな早くから…」
振り返ると、霜蘭が驚いた表情で立っていた。彼女はいつもより早く出勤してきたようだ。
「おはようございます、霜蘭さん」私は小さく微笑んだ。「少し仕事をしていました」
「少しどころか…」霜蘭の目が大きく開かれる。「一晩中だったのではないか?」
「まあ…」言い訳のしようもない。
霜蘭はため息をつき、私の隣に来て、机の上のフロー図を覗き込んだ。
「これは…」
彼女の表情が変わる。驚きから、興味深さ、そして何か別の感情へ。じっと図を見つめる霜蘭の目が、少しずつ輝きを増していく。
「美しい…」
彼女のつぶやきは、ほとんど聞こえないほど小さかった。だが、確かにそう言ったのだ。
「え?」思わず聞き返してしまう。
霜蘭は少し慌てたように姿勢を正した。
「いや、その…とても整然としている、という意味だ」彼女は平静を装おうとした。「これは宮中の業務フローか?」
「はい」私は頷いた。「現状の業務の流れを可視化してみたんです」
「驚くべき詳細さだ」霜蘭は感心したように言った。「これだけの情報をどうやって集めた?」
「日々の観察と、各部署の方々への質問、それから書簡の内容も参考にしました」
実際には、脳内スプシに蓄積した情報の分析が大きいのだが、それは言わなかった。
霜蘭は黙って図を眺め続けた。そして、突然気づいたように私を見た。
「この赤い線は何を示している?」
「情報の滞留ポイントです」私は説明した。「書類や指示が滞りやすい場所ですね」
「そして、この青い線は?」
「スムーズに流れている業務です」
「この黄色の点線は?」
「二度手間が発生している部分です」
質問が次々と続き、私はすべて答えていく。霜蘭の目には、次第に理解の光が灯っていった。
「これは…驚くべきものだ」彼女はようやく言った。「この図一枚で、宮中の業務の無駄がはっきりと見える」
「ありがとうございます」私は嬉しくなった。「実は改善案も考えていて…」
私は別の紙を取り出した。そこには現状と同じ構造だが、無駄を省いた理想的なフローが描かれている。
「こうすれば、三割ほど効率が上がると思うんです」
霜蘭はその図も熱心に見つめた。そして、思いがけない言葉を口にした。
「勇姫、この図を皇太子殿下だけでなく、女官長にも見せるべきだ」
「女官長に?」
「うむ」霜蘭は真剣な顔で頷いた。「彼女は保守的だが、目の前に明確な改善策が示されれば、理解する人だ」
「でも、前回の改革の時も反発が…」
「今回は違う」霜蘭の声には確信があった。「これは否定しようのない事実の提示だ。芸術的ですらある」
彼女が最後に付け加えた言葉に、思わず驚いた。霜蘭のような厳格な人物から「芸術的」という評価を得るとは。
「芸術…ですか?」
「ああ」霜蘭は少し照れたように視線をそらした。「私は…秩序と構造の美しさを愛でる性分でね。この図は、混沌から秩序を生み出した見事な例だ」
「ありがとうございます」心からの感謝を込めて言った。「霜蘭さんにそう言っていただけると、とても嬉しいです」
「まあ…」彼女は少し恥ずかしそうに手を振った。「ところで、この図を作るのに何日かかった?」
「えっと…」正直に答えるべきか迷う。「昨夜から…」
「昨夜から!?」霜蘭の声が上ずった。「一晩でこれを?」
「脳内である程度整理してから描き始めたので…」
「驚くべきことだ」霜蘭は首を振った。「しかし、無理は禁物だぞ。そなたの才能は宮中の宝だ。倒れられては困る」
彼女の心配そうな表情に、胸が暖かくなった。
「ありがとうございます。気をつけます」
「今日はゆっくり休むように」霜蘭は命令するように言った。「この図は私が預かり、女官長に見せよう」
「でも、説明が…」
「私が説明する」霜蘭はきっぱりと言った。「心配するな、この図の価値は十分に伝えられる」
彼女の自信に満ちた様子に、任せることにした。
「ではお願いします」
霜蘭は丁寧に図を巻き、持ち出す準備をした。去り際に、彼女は振り返って言った。
「勇姫、そなたの才能は…特別だ。私もかつては改革を夢見た身。そなたの成功を心から願っている」
その言葉は、意外な打ち明け話のようにも聞こえた。霜蘭にも、自分と似た思いがあったのだろうか。
「霜蘭さん…」
彼女は小さく手を振り、部屋を出ていった。
◆◆◆
その日の午後、私は言われた通り部屋で休んでいた。心配した小桃が何度も様子を見に来る。
「勇姫さま、お熱は?」
「大丈夫よ、ただの疲れだから」
「無理しちゃだめですよ!」小桃は真剣な顔で言った。「神算術の才女でも、体は普通の人間なんですから!」
彼女の純粋な心配に、思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう、小桃。あなたがいると安心するわ」
夕方近く、意外な訪問者があった。
「失礼します」
静かな声とともに、白凌が部屋に入ってきた。彼の表情はいつもより柔らかい。
「白凌さん、どうしたんですか?」私は驚いて起き上がった。
「霜蘭から報告を受けた」彼は穏やかに言った。「そなたの業務フロー図のことだ」
「あ…」
「殿下も聞いて、大変興味を持たれている」白凌の口元に微かな笑みが浮かんだ。「明日、復帰したら見せてほしいとのことだ」
「はい、喜んで」
「それと…」白凌は少し言いにくそうに続けた。「女官長も図を見たそうだ」
「え?」緊張が走る。「どうでしたか?」
「最初は『何だこの派手な絵は』と言っていたらしいが…」白凌は面白そうに言った。「詳しく説明を聞くうちに、次第に表情が変わっていったとか」
「そうですか…」
「霜蘭の言葉を借りれば、『最後には黙って何度も頷いていた』そうだ」
それは良い兆候だろうか。女官長の沈黙は、考えている証かもしれない。
「さらに興味深いことに」白凌は続けた。「女官長はその図を宰相に見せたらしい」
「宰相に!?」思わず声が大きくなる。
「うむ」白凌は頷いた。「宰相も感心したという。『こんな才能が宮中にいたとは』と」
これは予想外の展開だった。私の図が、想像以上に高官たちの目に触れているようだ。
「それで…どうなりますか?」
「明日、緊急の会議が開かれる」白凌の声が少し厳かになった。「宮中業務改革会議だ。そなたも出席するように」
「私も?」
「当然だ」白凌はきっぱりと言った。「その図を描いたのはそなただ。説明も、そなたでなければ」
緊張と期待が入り混じる。一枚の図が、こんなに大きな波紋を広げるとは。
「わかりました。準備します」
「十分な休息も必要だ」白凌は少し心配そうに言った。「明日は重要な日になる」
彼が去った後、私は天井を見つめながら考え込んだ。
「フロー図一枚で、ここまで動くとは…」
前世では、どれだけ素晴らしい業務改善案を出しても、上司の机で止まることが多かった。この世界では、才能がちゃんと評価される。それも瞬く間に。
次の日、私は緊張しながら会議室に向かった。そこには皇帝陛下をはじめ、瑞珂、宰相、女官長、霜蘭など、宮中の重要人物が勢揃いしていた。そして、中央の壁には、私の業務フロー図が大きく掲示されていた。
「勇姫、来たか」皇帝が声をかけた。「そなたの図について、説明してほしい」
深呼吸して、前に進み出る。
「はい、陛下。これは宮中の現在の業務の流れを可視化したものです」
私は落ち着いた声で説明を始めた。色や線の意味、問題点、改善案…。話しているうちに、最初の緊張は薄れていった。むしろ、この複雑な図を理解してもらうことに集中する。
説明が終わると、宰相が口を開いた。
「勇姫殿、素晴らしい分析だ」彼は感心したように言った。「特に、文書の流れの冗長性を指摘した点は重要だな」
「そうだな」女官長も珍しく同意した。「特に、内務部と庶務部の間の重複業務は、長年の課題だった」
議論が活発になる中、瑞珂が静かに私に近づいてきた。
「勇姫、素晴らしい」彼は小声で言った。「そなたの図が、宮中を動かし始めている」
「殿下のおかげです」私も小声で返した。
「いや、これはそなたの功績だ」瑞珂の目は真摯だった。「私は…誇りに思う」
その言葉に、胸が熱くなった。
会議は三時間に及び、私の改善案のほとんどが採用されることになった。宮中の業務フローを効率化し、重複を排除し、情報の流れをスムーズにする。大きな改革が、一枚の図から始まろうとしていた。
◆◆◆
会議が終わり、疲れ切った私は清風院の自室に戻った。思いがけない来訪者が待っていた。
「お疲れ様、勇姫」
霜蘭だった。彼女は珍しく柔らかな表情をしていた。
「霜蘭さん、ありがとうございました」私は心から言った。「あなたが女官長に説明してくれたから、今日の会議があったんです」
「いや、すべては勇姫の図があってこそだ」霜蘭は静かに言った。「あんな…美しい業務図を見たのは初めてだった」
またその言葉だ。彼女の口から「美しい」という言葉が聞かれるのは、本当に珍しい。
「霜蘭さんは、以前も改革を試みたことがあるとおっしゃいましたね」私は勇気を出して聞いた。
「ああ」彼女は少し遠い目をした。「五年前、私が初めて尚書房に来た頃だ」
「どんな改革を?」
「文書の分類方法と、報告ラインの簡素化だ」霜蘭は静かに言った。「だが、当時の女官長に一蹴された」
「それは…辛かったでしょうね」
「諦めかけていた」霜蘭は正直に言った。「改革など無理なのだと」
「でも、私の取り組みは支援してくださいましたね」
「うむ」霜蘭は微笑んだ。「そなたの才能を見て、もう一度信じてみようと思ったのだ。改革は可能だと」
二人は静かな理解を交わした。霜蘭も私と同じように、より良い宮中を作りたいと思っていたのだ。
「霜蘭さん」私は真剣に言った。「これからも一緒に改革を進めましょう」
「ああ」彼女はうなずいた。「そなたの『美しい』図に導かれて」
彼女が去った後、小桃がお茶を持って入ってきた。
「勇姫さま、大成功だったそうですね!」小桃は嬉しそうに言った。「宮中中が勇姫さまの図の話題でもちきりですよ!」
「本当?」
「はい!みんな『カラフルな図が宮中を変える』って言ってます!」小桃は目を輝かせた。「霜蘭様が『美しい』って言ったのも有名になってますよ」
「え!?」思わず赤面する。「そんなことまで噂に?」
「霜蘭様があんな風に褒めるの、初めて見たって皆さん驚いてるんです!」
恥ずかしさと嬉しさが入り混じる。ただの業務フロー図が、こんなに大きな反響を呼ぶとは。
「それに…」小桃がにやりと笑った。「皇太子様も『勇姫の図は芸術だ』って言ってたそうですよ〜」
「もう!からかわないで!」顔が熱くなる。
「からかってませんよ〜」小桃はくすくす笑った。「本当のことですって!」
その夜、窓から月を眺めながら、私は思った。
「業務フロー図を紙に再現しただけなのに…」
前世では当たり前だったスプシやPowerPointのスキルが、この世界では「芸術」と呼ばれるほど珍しい。だがそれこそが、私のチートなのかもしれない。当たり前を可視化する力。それが混沌とした世界には、新鮮な風をもたらすのだ。
「明日からは本格的な改革だな…」