目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第22話

宮中の改革が順調に進んでいた春のある日、私──勇姫ゆうきは瑞珂殿下の書記官として、連日の仕事に忙殺されていた。「神算術の才女」という評判も手伝い、改革の輪は次々と広がり、業務フロー図や小桃の活躍もあって、宮中は少しずつ変わり始めていた。


「勇姫、この報告書を見てみろ」


瑞珂が執務室で一枚の文書を私に手渡した。それは宮中改革の効果を示す統計だった。


「これは…」私は驚いて目を見開いた。「素晴らしい結果です」


報告書によれば、各部署の残業時間が平均で25%減少し、文書の紛失も62%減った。さらに、物資の無駄遣いも30%削減されていた。


「そうだろう」瑞珂は満足げな表情で頷いた。「そなたの図と改革案のおかげだ」


「殿下のお力添えがあったからこそです」私は丁寧に返した。


「謙遜する必要はない」瑞珂は微笑んだ。「これは明確な成果だ。父上も大変喜んでおられる」


その言葉に胸が温かくなる。前世では、どれだけ効率化を提案しても評価されなかったのに、ここでは…


「まだまだやるべきことはたくさんありますが、着実に進んでいますね」私は笑顔で言った。


「そうだな」瑞珂の表情が少し引き締まった。「だが、気をつけるべきことがある」


「何でしょう?」


「改革が進むということは、既得権益が失われるということだ」瑞珂の声は静かだがひりつくような緊張感を帯びていた。「抵抗も強くなるだろう」


「特に玄碧様から、ですか?」


「うむ」瑞珂は小さくため息をついた。「彼女からの報告によれば、紫煙閣では我々の改革案は採用されていないという」


「でも、それは陛下のご命令では…」


「表向きは『検討中』とのことだ」瑞珂の目に冷たい光が宿る。「実質的な抵抗だな」


玄碧の抵抗は予想していたことだが、陛下の命令にさえ逆らうとは。彼女の影響力はそれほど大きいのか。


「どうすれば…」


「今日、彼女が我々に会いに来る」瑞珂はきっぱりと言った。「直接対峙する機会だ」


「今日ですか?」思わず声が上ずる。


「うむ。午後に」瑞珂は私の肩に軽く手を置いた。「心配するな。私がついている」


その言葉に勇気づけられはしたものの、不安は拭えない。玄碧は宮中きっての美女であり、高位の妃候補。その上、保守派の実質的リーダーとして多くの支持者を持つ。どんな攻撃をしてくるか予想がつかない。


「準備をしておきます」私は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。


◆◆◆


午後、予定通り玄碧が瑞珂の執務室を訪れた。彼女は豪華な緑の衣装をまとい、優雅な立ち振る舞いで入室してきた。その美しさは圧倒的で、部屋の空気さえ変わったように感じられた。


「久しぶりですね、殿下」玄碧は優雅に一礼した。「お忙しそうで」


「玄碧」瑞珂は丁寧だが冷静に挨拶を返した。「珍しいな、そなたが直接訪ねてくるとは」


「いえ」玄碧は柔らかな微笑みを浮かべた。「最近の宮中の変化について、直接お話ししたいと思いまして」


私は少し後ろに控えていたが、玄碧の視線が一瞬だけ私に向けられるのを感じた。その目には明らかな敵意が込められていた。


「そうか」瑞珂は落ち着いた態度を崩さない。「何について話したい?」


「改革についてです」玄碧の声は穏やかだが、どこか鋭さを含んでいた。「あまりに急進的ではないかと心配しております」


「急進的?」瑞珂の眉が少し上がる。「具体的に何が?」


「例えば」玄碧は優雅に手を動かした。「文書管理システムの変更。数百年続いた伝統を、一朝一夕に変えるのは危険です」


「数百年の伝統も、最初は誰かの改革だったはずだ」瑞珂は冷静に返した。「時代に合わせて変化するのは自然なことだろう」


玄碧の表情が微妙に引き締まる。


「しかし、伝統には意味があります」彼女の声に力が込められた。「先人の知恵がそこにあるのです」


「先人の知恵を尊重しつつも、改善できる部分は改善する」瑞珂は穏やかに言った。「それも先人への敬意ではないだろうか」


玄碧はしばらく黙っていたが、やがて私の方を向いた。


「勇姫」突然名前を呼ばれ、私は少し緊張する。「そなたの改革案が宮中を揺るがしているようだな」


「微力ながら、効率化のお手伝いをしております」私は丁寧に答えた。


「そう…」玄碧の声が冷たくなる。「ながれを変えた女、とでも言うべきか」


その言葉に、部屋の空気が凍りついたように感じた。


「玄碧」瑞珂が厳しい声で言った。「勇姫は私の書記官だ。彼女への失礼は、私への失礼でもある」


「失礼などしておりませんよ」玄碧は微笑んだ。「事実を述べただけです。彼女が来てから、宮中の流れが変わった。それは紛れもない事実」


「その通りだ」瑞珂はきっぱりと言った。「変化は時に必要なものだ」


「でも…」玄碧が再び私に向き直った。「流れを変えることは、時に危険でもあります。水の流れを変えれば、濁りが生じることもある」


その言葉には明らかな警告が含まれていた。


「私は陛下と殿下のご命令に従い、最善を尽くしているだけです」私は動揺を隠して答えた。


「そう…」玄碧の目が冷たく光った。「でも、そなたはこの宮中のおきてを本当に理解しているのかしら?」


「掟、ですか?」


「そう」玄碧はゆっくりと私に近づいてきた。「宮中には目に見えない掟がある。長い歴史の中で培われた秩序だ。それを無視する者には…制裁が下る」


その言葉は間違いなく脅しだった。瑞珂が立ち上がった。


「玄碧」彼の声には怒りが含まれていた。「そのような言葉は控えるように」


「申し訳ありません、殿下」玄碧は再び丁寧な態度に戻った。「心配のあまり、言葉が過ぎました」


しかし、彼女の目に謝意は見えない。むしろ、計算された演技のようだった。


「それでは、本題に入りましょう」玄碧は話題を変えた。「紫煙閣の改革案についてです」


「先日送った案を、なぜ採用しないのだ?」瑞珂が直接的に尋ねた。


「いいえ、採用しないわけではありません」玄碧は巧みに言い逃れた。「ただ、我々独自の方法で段階的に導入しているだけです」


「独自の方法?」


「ええ」玄碧は自信満々に続けた。「紫煙閣には紫煙閣の事情がありますから。勇姫様の…素晴らしい案を、我々なりにアレンジしているのです」


それは明らかな嘘だった。私が調査した限り、紫煙閣では何の変化も起きていない。むしろ、改革を妨害する動きさえあった。


「陛下は全宮中での統一的な改革を望んでおられる」瑞珂は厳しく言った。「独自のアレンジは混乱を招くだけだ」


「殿下」玄碧の表情が硬くなった。「紫煙閣は後宮の中心です。そこでの混乱は、宮中全体に影響します。慎重にならざるを得ないのです」


「その慎重さが、改革の妨げになっている」


「改革のためなら混乱も仕方ないとでも?」玄碧の声が上ずった。「それは無責任というものです」


瑞珂と玄碧の間で緊張が高まる。私はどうすべきか迷ったが、ここで発言せずにはいられなかった。


「失礼ですが」私は慎重に口を開いた。「紫煙閣での改革による混乱を示すデータはあるのでしょうか?」


玄碧の目が鋭く私を捉えた。


「データ?」


「はい」私は脳内スプシを開きながら続けた。「他の部署では改革後、業務効率が平均25%向上し、混乱はほとんど報告されていません。むしろ、女官たちからは肯定的な声が多く…」


「黙りなさい」玄碧が突然低い声で言った。「そなたのような新参者が、紫煙閣のことを語るな」


「玄碧!」瑞珂の声が厳しく響いた。


「申し訳ありません、殿下」玄碧は再び丁寧な態度に戻ったが、その目には怒りが残っていた。「ただ、勇姫様は紫煙閣の内情をご存じないのに、簡単に意見されるのは…」


「勇姫は事実に基づいて発言している」瑞珂は落ち着いた声で言った。「感情ではなく、データだ」


「データ…」玄碧はその言葉を噛みしめるように言った。「数字だけでは測れないものもあります。伝統の価値、秩序の重要性は…」


「それも理解している」瑞珂は言った。「だが、『伝統』という言葉で改革を拒むのは、もはや通用しない。陛下もそう考えておられる」


玄碧の表情が凍りついた。皇帝の名前が出されては、彼女も強く出られない。


「わかりました」彼女はようやく折れた。「紫煙閣でも、改革案を試してみましょう」


「良い判断だ」瑞珂は満足げに頷いた。


「ただし」玄碧は鋭い視線を私に向けた。「紫煙閣の改革は、私たちの手で行います。外部からの介入は不要です」


これは明らかに私を排除する宣言だった。


「それでは問題が起きるかもしれません」私は静かに言った。「統一的な視点で…」


「不要です」玄碧はきっぱりと遮った。「我々には優秀な女官がいます」


瑞珂が考え込んでいたが、やがて決断を下した。


「勇姫がアドバイザーとして加わるべきだ」


「それは…」玄碧が抵抗しようとしたが、瑞珂の厳しい目に遮られた。


「陛下の命令だ」彼は威厳を持って言った。「全宮中の改革は統一的に進めるべき。勇姫なしでは難しいだろう」


「…わかりました」玄碧は不満そうに答えた。「ただし、最終決定権は私にあります」


「もちろんだ」瑞珂は同意した。「紫煙閣の主は玄碧だ。勇姫はあくまでアドバイザーとして」


この妥協案に、玄碧も渋々同意せざるを得なかった。しかし、彼女が去り際に私に向けた視線は、まるで氷のように冷たかった。


「勇姫」彼女は静かだが威圧的な声で言った。「紫煙閣は尚書房や内務部とは違う。そこを忘れないでください」


「はい」私は丁寧に答えた。「紫煙閣の特性を尊重します」


「良い心がけね」玄碧は薄く笑った。「では明日から、よろしくお願いします…流れを変えた女ながれをかえたおんな


その呼び名には明らかな皮肉と敵意が込められていた。彼女は優雅に一礼し、部屋を後にした。


彼女が去った後、緊張が解けたように、私はふらりと椅子に座り込んだ。


「大丈夫か、勇姫?」瑞珂が心配そうに尋ねた。


「はい…なんとか」私は深く息を吐いた。「あの方の敵意は、想像以上でした」


「玄碧は宮中きっての高位妃候補だ」瑞珂は静かに言った。「多くの支持者を持ち、保守派の中心的存在。そなたの改革が彼女の既得権益を脅かしているのだろう」


「紫煙閣でのアドバイザーという役割…危険ではないですか?」


「危険だ」瑞珂は正直に答えた。「だが、避けることはできない。紫煙閣は後宮の中心。そこを改革せずには、宮中全体の変革は完成しない」


「わかりました」私は覚悟を決めた。「準備します」


「気をつけるように」瑞珂の目に心配の色が浮かんだ。「玄碧は表向き協力するふりをしても、裏では妨害を試みるだろう」


「はい…」


「それと、食べ物や飲み物には特に注意せよ」


「え?」


「毒までは使わないだろうが…」瑞珂の声は真剣だった。「体調を崩すような薬を混ぜることはあり得る」


その警告に、背筋が凍りついた。宮中政治は、想像以上に危険なのだ。


「白凌を通じて、護衛を付けよう」瑞珂は続けた。「そして、毎日報告に来るように」


「はい、殿下」


瑞珂は珍しく私の肩に手を置いた。その温もりが心強かった。


「恐れる必要はない」彼の声は優しかった。「そなたは一人ではない。私がついている」


「ありがとうございます」胸が熱くなる。「殿下のご期待に応えます」


◆◆◆


その夜、清風院に戻ると、小桃が心配そうな顔で待っていた。


「勇姫さま!大丈夫ですか?」


「え?何が?」


「玄碧様との対決の噂を聞きました!」小桃の目は真剣だった。「宮中中が騒然としているんですよ!」


あの会話が既に噂になっているとは。宮中の情報網の速さには、いつも驚かされる。


「大げさよ、小桃」私は苦笑した。「対決というほどではなかったわ」


「でも、玄碧様があなたのことを『流れを変えた女』と呼んだって!」


「その話まで伝わってるの?」思わず声が上ずる。


「はい!」小桃は興奮気味に言った。「玄碧様の侍女が言ってたそうです。『主が初めて平民女官に歯向かわれた』って」


「歯向かった…」


「これは大変なことです!」小桃の顔は真剣だった。「玄碧様は恐ろしい方だって皆が言ってます。復讐の鬼とまで…」


「小桃」私は彼女の肩に手を置いた。「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。殿下が守ってくださるし、私だって簡単にはやられないわ」


「でも…」


「それより」私は話題を変えた。「明日から私は紫煙閣でアドバイザーをすることになったの。しばらく会えなくなるかもしれないわ」


「紫煙閣に!?」小桃の顔が青ざめた。「それは敵地に乗り込むようなものです!」


「そんな…」笑おうとしたが、実際のところ彼女の言葉は間違っていない。


「勇姫さま」小桃は突然真剣な顔になった。「あたしも一緒に行きます!」


「え?」


「あたし、内務女官だから紫煙閣の清掃も担当できます!」小桃は熱心に言った。「勇姫さまのお側にいて、守ります!」


その健気な申し出に、胸が熱くなった。


「ありがとう、小桃」私は心から言った。「でも、あなたには内務部での大事な役割があるでしょう?」


「でも…」


「大丈夫」私はきっぱりと言った。「白凌さんが護衛を付けてくださるし、毎日殿下に報告することになってるの」


小桃はしばらく考え込んでいたが、ようやく折れたようだった。


「わかりました…でも、何かあったらすぐに知らせてくださいね!あたし、内務女官の友達を総動員して助けに行きますから!」


「ありがとう」思わず笑みがこぼれる。「あなたがいると心強いわ」


その夜、私は紫煙閣での戦いに備えて、脳内スプシで準備を進めた。玄碧の支配する領域での改革。これは今までで最も困難な挑戦になるだろう。


「流れを変えた女…」


その呼び名を反芻しながら、私は決意を固めた。そう、私は流れを変える。停滞した宮中の流れを、より良い方向へと。たとえ玄碧のような強大な敵がいようとも。


◆◆◆


翌朝、私は瑞珂の執務室で最後の打ち合わせをしていた。


「紫煙閣で気をつけるべきことは?」私は緊張した面持ちで尋ねた。


「まず、玄碧の侍女たちを警戒せよ」瑞珂は静かに言った。「彼女たちは主のために何でもする」


「はい」


「そして、常に表をとるように」瑞珂は続けた。「脳内ではなく、紙に記録せよ。証拠が必要になる」


「わかりました」


「最後に」瑞珂の目が真剣になった。「毎日、必ず報告に来ること。一日でも来なければ、白凌を派遣する」


「はい、殿下」


瑞珂はしばらく私を見つめ、やがて小さなお守りのようなものを取り出した。


「これを持っていくがいい」


「これは?」


「私の家紋入りのお守りだ」瑞珂は静かに言った。「これを見せれば、宮中の誰もがそなたに敬意を示すだろう。玄碧でさえ…」


「殿下…」胸が熱くなる。「ありがとうございます」


お守りを大切に懐に収めた。この小さな品が、私の命を守るかもしれない。


「行ってくるよ」私は決意を込めて言った。


「うむ」瑞珂は頷いた。「流れを変えた女よ、その流れを止めるな」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?