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side talk:勇姫の独白~前世の記憶と今を繋ぐもの

 紫霞宮しかきゅう勇姫ゆうきが転生して三ヶ月目の深夜のことだった。文政局分室ぶんせいきょくぶんしつでの仕事が一段落し、彼女は清風院せいふういんにある自室へと戻る途中だった。月明かりだけが照らす月見の庭つきみのにわを通り抜けながら、勇姫は立ち止まった。漆黒に近い深い藍色の髪が夜風に揺れ、青と銀を基調とした書記女官の制服も月の光を受けて幻想的に輝いている。彼女の灰紫色の瞳は月を見上げ、前世の記憶と今の生活を重ね合わせていた。


「どこまでが夢で、どこからが現実なんだろう…」


 勇姫は石のベンチに腰を下ろした。周囲には白い花が静かに咲き、かすかな香りが漂っている。誰もいない庭園で、彼女は珍しく独り言を口にした。


「成海ゆきとして生きていた日々も、勇姫ゆうきとして生きている今も、どちらも確かに"私"なのに…」


 彼女は小さなため息をついた。前世では28歳、都内メーカーの総務部で働き詰めだった日々。深夜残業の末に会議室で力尽きたことが、今となっては遠い記憶のようだ。


「あの時の資料整理、今思えば紫霞宮しかきゅうの文書よりも複雑だったかもね」


 勇姫は少し皮肉めいた笑みを浮かべた。前世で培った「スプシ脳」は、この中華風異世界の後宮でも十分に役立っている。


「でも不思議…私が前世で一番欲しかったのは、"誰かの生活を変える実感"だった」


 勇姫は両手を見つめた。細く白い指が月明かりに照らされている。前世では社内改革案が次々と上司に却下され、誰も彼女の提案に耳を傾けてくれなかった。それなのに、この世界では…


小桃しゃおたおちゃんは『勇さんのおかげで早く寝られるようになりました!』って笑うし…」


 彼女は小柄で桃色の髪をした元気な女官の笑顔を思い浮かべた。薄桃色の制服に袖を通した小桃は、勇姫の改革で残業が減り、毎日笑顔で過ごしている。


霜蘭そうらんさんも、『貴女の方法は美しい』と言ってくれた…」


 銀白の髪と琥珀色の瞳を持つ冷静な上級妃も、勇姫のスプシ方式を評価してくれるようになった。青地に黒の刺繍が入った霜蘭の礼服が、勇姫の記憶の中で優雅に揺れる。


「そして瑞珂ずいか殿下は…」


 勇姫の頬がかすかに赤く染まった。栗色の髪と墨茶色の瞳を持つ皇太子の顔が浮かび、胸がきゅっと締め付けられる感覚がした。淡い金と白の衣装に身を包んだ彼の姿は、勇姫の心に少しずつ深く刻まれていた。


「『君のおかげで見えるようになった』って…」


 前世では誰にも伝わらなかった彼女の能力が、この世界では理解され、必要とされている。それは何よりも大きな変化だった。


「私が死んで転生したのは、偶然じゃなかったのかもしれない」


 勇姫は立ち上がり、月に向かって深く息を吸い込んだ。


「前世で学んだことは無駄じゃなかった。あの苦しい日々が、今の私を作ってくれた」


 彼女はふと、自分の中にある変化に気づいた。前世では冷静・合理主義だった自分が、この世界では少しずつ感情を表に出すようになっている。瑞珂ずいかとの会話では、時折心臓が早鐘を打つことすらある。


「恋愛に疎い私が、こんな風に…まさか」


 勇姫は自分の感情を"スプシ"で分析しようとして、思わず苦笑した。


「これは表にまとめられるものじゃないわね」


 彼女は庭を横切る小道を見つめた。その先には文政局ぶんせいきょくがあり、さらにその先には瑞珂ずいか御書房ぎょしょぼうがある。二人がよく深夜に書類と格闘する場所だ。


「前世の私は、ただ生きることに必死だった。でも今の私は…」


 勇姫は自分の心の内を整理するように、静かに言葉を紡いだ。


「誰かのために生きることを、少しずつ学んでいる」


 小桃しゃおたおのような無邪気な笑顔を守りたい。霜蘭そうらんのような複雑な心を持つ女性が安心できる場所を作りたい。そして、瑞珂ずいかが目指す理想の国を、影から支えたい。


「前世の私は、効率って冷たさじゃなく優しさだと思っていた。無駄に潰れる人を減らすためのもの、って…」


 勇姫は月に微笑みかけた。


「その考えは間違ってなかった。でも、足りなかったんだ。効率の先にある"誰かの笑顔"を、この目で見ることが」


 風が吹き、庭の花々が静かに揺れた。勇姫は深呼吸をして、清風院への道を歩き始めた。


「明日も早いし、寝なきゃ」


 自室に入る前、彼女は最後にもう一度月を見上げた。


「成海ゆき、見ていますか?あなたの夢はここで叶いつつあります。だから私は…」


 勇姫は小さく、しかし強い決意を込めて言葉を続けた。


「あなたの想いを無駄にしないよう、この世界で精一杯生きていきます」


 そして彼女は静かに扉を開け、自室へと入っていった。


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