勇姫は青と銀を基調とした書記女官の制服を丁寧に整え、漆黒に近い深い藍色の髪を簡素に結い上げた。灰紫色の瞳に浮かぶ不安を隠しながら、彼女は白い壁と青い屋根を持つ塔の入り口に立っていた。
「どうぞ、お入りください」
塔の中から聞こえてきた声は、普段の霜蘭より少し柔らかかった。勇姫は静かに扉を開けて中に入った。
内部は想像以上に明るく開放的だった。円形の部屋の窓からは陽光が差し込み、白と青を基調とした調度品が配置されている。壁際には書物が整然と並び、中央には低い卓が置かれ、その周りに座布団が敷かれていた。部屋の片隅では、小さな炉から湯気が立ち上っていた。
そこにいたのは、いつもと少し違う霜蘭だった。彼女は青地に黒の刺繍入りの礼服ではなく、墨染めのシンプルな私服に身を包んでいる。170センチの長身から醸し出される威厳は変わらないが、その琥珀色の瞳には普段見せない穏やかさがあった。
「よく来てくれました、勇姫」
霜蘭は卓を示して座るよう勧めた。勇姫が腰を下ろすと、彼女は丁寧にお茶を淹れ始めた。その所作には無駄がなく、美しさすら感じられる。
「招いていただき、光栄です」
勇姫が言うと、霜蘭はかすかに微笑んだ。
「あなたのスプシ改革が半年を迎えたので、少しお話がしたいと思いまして」
彼女は勇姫に茶碗を差し出した。中に注がれた茶は深い緑色で、爽やかな香りが漂っていた。
「これは...」
「
勇姫は興味深そうに茶を一口啜った。優雅な香りと程よい渋みが広がる。
「美味しいです。霜蘭さんのご出身は...」
「
霜蘭の声には珍しく懐かしさが混じっていた。
「私も13歳で後宮に入りました。あなたのように突然来たわけではありませんが、戸惑いはあったでしょうね」
彼女は窓の外を見つめながら続けた。
「知っていましたか?私が後宮に入った理由は、家の借金返済のためでした」
勇姫は少し驚いて目を見開いた。
「そんな...」
「驚かないでください。よくある話です。美貌を理由に選ばれ、政争の道具にされる...」
霜蘭は静かに茶碗を回す。
「でも私は決めたのです。道具ではなく、自分という人格で生きようと」
彼女は勇姫をじっと見つめた。
「あなたを観察していました。最初は警戒していたのですよ。異世界からの転生者だと知って、何かたくらんでいるのではと」
霜蘭は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、あなたは違った。単に物事を良くしたいだけ。自己の利益より、全体の効率を考える。それが私には...信じがたいほど新鮮だったのです」
勇姫は言葉に詰まった。これほど率直に思いを語る霜蘭を見るのは初めてだった。
「正直に言いますと、私もあなたを警戒していました。上級妃は近寄りがたくて...」
「当然でしょう。私はそういう
霜蘭は立ち上がり、小さな
「これは...」
「あなたに影響されて、私も書き始めたのです。各妃の勢力図と政治的影響力を視覚化してみました」
勇姫は感心して表を見つめた。丁寧な文字と正確な線、色分けされた関係性。これはまさに"スプシ思考"そのものだ。
「素晴らしい出来です!霜蘭さん、センスがありますね」
霜蘭は少し照れたように視線を逸らした。
「褒めないでください。ただ、あなたの方法が論理的で美しいと感じただけです」
彼女は再び座り、茶を注ぎ足した。
「実は、あなたに話したいことがあって呼んだのです」
霜蘭の表情が真剣になった。
「私は、この後宮を変えたいのです。女性が単なる飾りや政争の道具ではなく、一人の人間として尊重される場所に」
勇姫の目が大きく開いた。
「それは...」
「あなたのスプシ改革は、その第一歩になると思っています。効率化は単なる時間短縮ではなく、人間の価値を高めるものだと」
霜蘭の琥珀色の瞳には強い決意が宿っていた。
「でもなぜ私に?」
「あなたは信頼できる...と思ったからです」
霜蘭の言葉に、勇姫は胸が熱くなるのを感じた。この孤高の妃が、彼女を信頼してくれているのだ。
「私の父は学者でした」
突然、霜蘭は自分の過去を語り始めた。
「貧しかったけれど、知識だけは豊かでした。いつも『霜蘭、女性も学ぶべきだ』と教えてくれて...」
彼女の表情が柔らかくなった。
「父の書庫で読書するのが、幼い頃の私の幸せでした。でも、家が没落して後宮に入ってからは...」
霜蘭は少し黙り、それから続けた。
「知性を隠さなければならなかった。美しいだけの人形を演じなければ、生き残れないと思っていたのです」
勇姫は思わず霜蘭の手に触れようとした。しかし、途中で止まってしまう。霜蘭はそれに気づき、意外にも自分から手を伸ばして勇姫の手を軽く握った。
「大丈夫です。もう隠す必要はないと思うようになりました。あなたが来てくれたおかげで」
勇姫の目に涙が浮かんだ。
「霜蘭さん...」
「あなたが瑞珂殿下と共に進める改革。それを私は影から支えたいのです。表には出ませんが...」
「そんな...」
勇姫は驚きを隠せなかった。霜蘭が彼女と瑞珂の関係を知っている事実に。
「驚かないでください。この宮殿では壁に耳があります。でも安心してください、私はあなたの味方です」
霜蘭は静かに立ち上がり、棚から一冊の古い本を取り出した。
「これを差し上げます。『
勇姫は恐る恐る本を受け取った。
「こんな大切なものを...」
「女性同士、助け合うべきです。特に、同じ志を持つ者同士は」
霜蘭の顔に、勇姫が今まで見たことのない優しい微笑みが浮かんだ。
「あなたは私が信じられなかったものを見せてくれました。"並び立つ関係"という可能性を」
二人は再び向かい合って座り、静かにお茶を飲みながら語り合った。霜蘭は少しずつ自分の過去を、そして夢を勇姫に打ち明けていった。午後の光が傾き始める頃、勇姫は新たな同志を得たことを実感していた。
表向きは孤高の上級妃でも、その素顔は知性と優しさに満ちた女性だったのだ。勇姫はこの茶会を、生涯忘れることはないだろう。そしてこの雲燈台の静かな茶室は、これからも二人の秘密の会談場所として使われることになるのだった。