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【陰謀】の章

第29話

紫煙閣での改革アドバイザーとしての日々が始まってから一週間、私──勇姫ゆうきは毎日が緊張の連続だった。


「今日もよろしくお願いします、玄碧げんぺき様」


深々と頭を下げる私に、玄碧は薄い笑みを浮かべた。その美しい顔には、表面上の礼儀正しさの下に凍てつくような冷たさが潜んでいる。


「ええ、勇姫。今日も実りある一日になりますように」


彼女の言葉は蜜のように甘いが、その声音は氷のように冷たい。紫煙閣での日々は、まるで薄氷を踏むような毎日だった。表向きは私の改革案を検討しているが、実際には何一つ進んでいない。


部屋の隅で、侍女の青楓せいふうが私を睨みつけている。彼女は物資横流しの件で処罰された侍女の一人で、私に対する恨みはむき出しだ。


「青楓、お茶を持ってきなさい」玄碧が命じた。


「はい、お姉様」


青楓が退出すると、玄碧は優雅に扇子を開いた。


「さて、勇姫。今日は何を提案してくれるのかしら?」


「書類の流れを整理する新しいシステムについてです」私は淡々と説明を始めた。「現在の紫煙閣では、同じ情報が五か所以上に記録されています。これを統一すれば…」


説明の途中、青楓が茶器を持って戻ってきた。何故だか、彼女の目には得意げな色が浮かんでいる。


「お茶をどうぞ」


青楓は私にお茶を差し出した。香りがいい。高級な茶葉だ。


「ありがとう」


私はお茶に手を伸ばしかけて、ふと瑞珂の警告を思い出した。


「何か?飲まないの?」玄碧が眉を寄せる。


「いえ、今はちょうど喉が渇いていないので…」


「まあ、失礼ね」玄碧は少し不機嫌そうに言った。「青楓が丹精込めて入れたお茶を拒むなんて」


場の空気が一気に冷え込む。私がお茶を飲まないことで、明らかに気分を害された様子だ。


「いえ、そういうわけでは…」


「次のお茶の時間まで説明を続けましょう」玄碧は話題を戻した。


私は気まずい雰囲気の中、説明を続けた。だが、心の中では警戒心が高まっていた。何かがおかしい。


◆◆◆


「勇姫さまー!」


清風院に戻ると、小桃が元気よく飛びついてきた。毎日紫煙閣から帰ると、彼女の明るさが心の救いになる。


「お帰りなさい!今日はどうでしたか?」


「相変わらず進展なしよ」私は溜息をついた。「表向きは協力的なフリをしているだけ」


「むむむ…」小桃は顔を膨らませた。「ひどいですね!」


「それより、小桃」私は話題を変えた。「最近、紫煙閣の侍女たちが何か変わったことをしてない?何か聞いてない?」


小桃は内務女官として宮中を歩き回り、様々な噂を耳にする立場にあった。


「うーん…」小桃が考え込む。「あ!最近、紫煙閣の侍女たちが薬草園やくそうえんに出入りしているって話は聞きました」


「薬草園?」


「はい。普段はあまり行かない場所なのに、この一週間で三回も行ってるって」


これは気になる情報だ。薬草園といえば、薬用の植物だけでなく、毒草も栽培されている場所だ。


「それから…」小桃は声を潜めた。「青楓さんが、『あの勇姫にはいずれ痛い目を見せてやる』って言っていたそうです」


やはり何かを企んでいるのか。私は眉をひそめた。


「気をつけないと」


「勇姫さま、心配です…」小桃が不安そうな顔をした。「あたし、明日から勇姫さまのお茶を全部先に飲んでみます!」


「そんなことしなくていいわよ!」思わず声が上ずる。「それに、明日は私が瑞珂殿下に報告する日だから、紫煙閣には行かないの」


「あ、そうでしたね」小桃はほっとした様子で笑った。「でも、何かあったらすぐに言ってくださいね!」


「ありがとう、小桃」


その夜、私は紫煙閣での出来事を細かく記録してみた。青楓の態度、玄碧の反応、そして薬草園の情報…。それらを脳内スプシで整理していくと、何かの陰謀が見え隠れしているような気がする。


◆◆◆


翌日、私は瑞珂の執務室で報告を終え、清風院に戻る途中だった。


「あれ?小桃?」


廊下の向こうに小桃の姿が見える。彼女はどこかそわそわしていた。


「小桃!」


彼女は私に気づくと、明るい笑顔を見せた。


「勇姫さま!報告はうまくいきましたか?」


「ええ、まあね」私は少し首を傾げた。「でも小桃、あなたこんなところで何をしているの?」


「え、えっと…」小桃はなぜか言葉を濁した。「ちょっと用事があって…」


彼女の態度がどこかおかしい。いつもより落ち着きがなく、視線も定まらない。


「小桃?何かあったの?」


「な、なんでもないです!」彼女は慌てて否定した。「あ、そうだ!勇姫さま、お腹すいてませんか?私がお茶と点心てんしんを用意しましたよ!」


「点心?」


「はい!」小桃は嬉しそうに言った。「勇姫さまが紫煙閣で大変そうだったから、元気になってほしくて…」


その優しさに胸が熱くなる。


「ありがとう、小桃」


清風院に着くと、部屋の中央に小さなテーブルが用意されていた。そこには茶器と可愛らしい点心が並んでいる。


「わあ、素敵ね」


「えへへ」小桃は照れくさそうに頭をかいた。「特別なお茶も用意したんです!」


私たちはテーブルを囲んだ。小桃がお茶を淹れる姿は、いつもより少し緊張しているように見える。


「どうぞ!」彼女はお茶を差し出した。


「ありがとう」


お茶を口に運ぼうとしたその時、私は違和感を覚えた。これはどこかで…


「あれ?このお茶…」


小桃の表情が一瞬こわばった。


「ど、どうかしましたか?」


「この香り…紫煙閣のお茶と同じね」


小桃の顔から血の気が引いた。


「え?そ、そんなはずは…」


不審に思った私は、お茶をじっと見つめた。色も香りも確かに昨日玄碧が勧めてきたものと似ている。


「小桃、このお茶はどこで…」


言い終わる前に、小桃が突然お茶碗を私の手から取り上げ、自分の口に運んだ。


「小桃!?」


「だ、大丈夫です!このお茶は美味しいですよ!ほら、見てください!」


彼女は一気に飲み干した。その瞬間、私の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。


「小桃、まさか…」


「え、へへ…」小桃は弱々しく笑った。「あたし、ちょっと紫煙閣に行って…」


その言葉の途中、彼女の顔色が急に変わった。


「あ、れ…」


次の瞬間、小桃はその場に崩れ落ちた。


「小桃!」


私は慌てて彼女を抱き起こした。小桃の顔は蒼白で、冷や汗が額を伝っている。


「小桃!しっかりして!」


「ご、ごめんなさい…勇姫さま…」小桃は震える声で言った。「あたし…勇姫さまに代わって…お茶を…」


「バカ!なんてことを!」


どうやら小桃は私を心配して、紫煙閣から出された茶葉を調べようとしたらしい。そして、それが本当に毒入りだと確かめるために、自ら飲んだのだ。


「小桃、しっかりして!医者を呼んでくる!」


「だ、大丈夫…です…」小桃は弱々しく微笑んだ。「きっと…ただの…眠り薬…」


小桃の意識が遠のいていく。私は必死で彼女を揺すった。


「小桃!目を開けて!」


だが、彼女はすでに意識を失っていた。瞳孔は開いているが、呼吸は浅い。


「助けて!誰か!」


私の叫び声を聞いて、廊下から足音が響いた。翡翠が駆け込んでくる。


「勇姫様!どうしたんですか!?」


「小桃が毒を飲んだの!早く医者を!そして白凌さんも!」


翡翠は驚いた顔で頷くと、すぐに走り去った。


私は小桃を抱きかかえ、ベッドに寝かせた。その細い身体が、まるで折れそうな花のように震えている。


「小桃…どうしてこんなことを…」


涙が頬を伝う。この子が私のために命を危険にさらすなんて。


「勇姫!」白凌が部屋に駆け込んできた。彼の冷静な目が一瞬で状況を把握する。


「小桃が…私の代わりに毒入りのお茶を…」


白凌は素早く小桃を診察した。


「瞳孔散大、呼吸は浅いが規則的…」彼は小声でつぶやいた。「恐らく睡眠薬すいみんやく鈍痛剤どんつうざいの混合物だろう」


「命に関わる?」恐る恐る尋ねる。


「このままでは…」白凌は真剣な眼差しで言った。「量次第だ。茶葉はどこにある?」


私は茶器を指さした。白凌はそれを手に取り、中身を調べた。


「…これは大量摂取すれば危険だ」彼は静かに言った。「早急に解毒剤が必要だ」


「どんな解毒剤?」


百合根ゆりね朱砂しゅしゃの混合物だ。だが、調合には時間がかかる」


時間…


「白凌さん」私は思いついて言った。「この毒の出所がわかれば、解毒剤も見つかるかもしれない」


「どういうことだ?」


「小桃は紫煙閣から茶葉を持ってきたはず。毒を仕込んだのは青楓という侍女だと思う」私は説明した。「彼女たちが最近、薬草園に出入りしていたという情報もある」


白凌の目が光った。


「なるほど。彼らが毒を調合したなら、解毒剤も持っている可能性が高い」


「私が調べてくる」私はきっぱりと言った。


「危険だ」白凌が遮った。「毒を仕込んだのが本当に青楓なら、そなたを狙っている証拠だ」


「でも、小桃を救うには…」


白凌はしばらく考え、やがて決断を下した。


「行くなら私も同行する」


私は感謝の意を示して頷いた。


「白凌殿!」医官が部屋に入ってきた。「患者の状態は?」


睡眠薬すいみんやく鈍痛剤どんつうざいの混合物と思われる」白凌は説明した。「応急処置を頼む。私たちは解毒剤を探してくる」


医官は急いで小桃の治療を始めた。私と白凌は部屋を出た。


「まず何をする?」白凌が尋ねた。


「これは追跡調査ね」私は目を閉じ、脳内スプシを開いた。「毒茶の流れを辿りましょう」


白凌は私が頭の中で表を組み立てる様子を、静かに見守っていた。


「推測と情報を整理すると…」私は思考を言葉にしていく。「小桃は紫煙閣に行った…おそらく昨日の午後、私が瑞珂殿下の元にいる間に…」


「そこで茶葉を…」


「青楓から受け取ったか、どこかから持ち出したかのどちらかね」私は続けた。「青楓が薬草園に行っていた証言があるなら、毒の調合場所も特定できるかも」


「薬草園には監視人がいる」白凌が情報を提供した。「何かあれば記録されているはずだ」


「よし、まず薬草園へ向かいましょう」


◆◆◆


薬草園は宮中の北西にある静かな場所だった。様々な薬草が整然と植えられ、几帳面に管理されている。その入り口で、年配の男性が私たちを出迎えた。


呂朗ろろうです」彼は白凌に一礼した。「何のご用でしょうか」


「公務だ」白凌は厳かに言った。「最近、紫煙閣の侍女たちがここに来ていると聞いたが?」


呂朗はしばらく黙っていたが、白凌の鋭い視線に負けたようだった。


「はい…確かに来ていました」彼は渋々と言った。「青楓という女官が、五日前から三回ほど」


「何の目的で?」


「薬草の勉強だと…」呂朗は言いよどんだ。


「どの薬草に興味を示していた?」私が尋ねた。


「それは…」呂朗は明らかに言いにくそうにしていた。


「人命に関わる問題だ」白凌が厳しく言った。「協力してほしい」


呂朗はため息をついた。


夜叉花やしゃか金縷草きんるそうです」


「夜叉花?」私は聞いたことのない名前だった。


「睡眠作用のある花だ」白凌が説明した。「金縷草は…」


「痛みを鈍らせる効果があります」呂朗が補足した。「どちらも医療用ですが、大量に摂取すると危険です」


これは間違いない。


「彼女は採取したの?」


「はい…」呂朗は申し訳なさそうに頭を下げた。「玄碧様の侍女だったので、特別に許可しました」


「最後に来たのはいつ?」


「昨日の午前中です」


「そして解毒剤は?」白凌が尋ねた。


「百合根と朱砂ですが…」呂朗は怪訝な顔をした。「彼女はそれには興味を示していませんでした」


「ここで調剤はできるのか?」


「ええ、あちらの小屋で…」


私たちは示された小屋へ向かった。中には様々な薬草や調合道具が整然と並んでいる。


「彼女はここで何かを作っていた?」


「はい」呂朗は頷いた。「何かの粉末を…」


私は小屋の中を調べ始めた。そこには調合記録が残されていた。


「見て、白凌さん」私は発見した記録を指さした。「三日前、青楓の名前で夜叉花と金縷草の調合記録が」


「そして解毒剤の記録はない…」白凌の表情が暗くなる。「つまり、彼女たちは被害者を救う気がなかったということだ」


恐ろしい考えだ。小桃が飲まなければ、私がその毒を飲んでいただろう。そして、誰も解毒剤を持っていない…


「解毒剤は自分たちで作るしかない」白凌が判断した。「準備を」


「私が作ります」呂朗が前に出た。「責任の一端は私にもあります」


「ありがとう」私は心から言った。


呂朗は素早く材料を集め始めた。「調合には少し時間がかかります」


「小桃を救うため、急いでください」


白凌が私の肩に手を置いた。


「勇姫、それだけではない」彼の声は低く、危険な響きを含んでいた。「この証拠を集めなければならない」


「証拠?」


「そう」彼はきっぱりと言った。「青楓の部屋を調べる必要がある」


「紫煙閣に?」私の背筋に冷たいものが走った。


「危険だが、必要だ」白凌の目は鋭く光っていた。「陰謀の全貌を暴かねば、次は何が起こるかわからない」


私は覚悟を決めた。


「解毒剤ができたら、すぐに小桃のもとへ送ってください」私は呂朗に言った。「私たちは証拠を探しに行きます」


呂朗は真剣に頷いた。


私と白凌は薬草園を後にした。向かうは紫煙閣──敵の巣窟だ。


「スプシで追跡…」私は小声でつぶやいた。「小桃を救うためには、隠された真実を明らかにしないと」


脳内スプシには、すでに青楓の動き、毒の調合、そして小桃の事件の全てが整理されていた。あとは決定的な証拠を見つけるだけ。


「行きましょう、白凌さん」


「あとでかならず、この茶に仕組まれた毒の真相を暴いてみせる」


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