紫煙閣での改革アドバイザーとしての日々が始まってから一週間、私──
「今日もよろしくお願いします、
深々と頭を下げる私に、玄碧は薄い笑みを浮かべた。その美しい顔には、表面上の礼儀正しさの下に凍てつくような冷たさが潜んでいる。
「ええ、勇姫。今日も実りある一日になりますように」
彼女の言葉は蜜のように甘いが、その声音は氷のように冷たい。紫煙閣での日々は、まるで薄氷を踏むような毎日だった。表向きは私の改革案を検討しているが、実際には何一つ進んでいない。
部屋の隅で、侍女の
「青楓、お茶を持ってきなさい」玄碧が命じた。
「はい、お姉様」
青楓が退出すると、玄碧は優雅に扇子を開いた。
「さて、勇姫。今日は何を提案してくれるのかしら?」
「書類の流れを整理する新しいシステムについてです」私は淡々と説明を始めた。「現在の紫煙閣では、同じ情報が五か所以上に記録されています。これを統一すれば…」
説明の途中、青楓が茶器を持って戻ってきた。何故だか、彼女の目には得意げな色が浮かんでいる。
「お茶をどうぞ」
青楓は私にお茶を差し出した。香りがいい。高級な茶葉だ。
「ありがとう」
私はお茶に手を伸ばしかけて、ふと瑞珂の警告を思い出した。
「何か?飲まないの?」玄碧が眉を寄せる。
「いえ、今はちょうど喉が渇いていないので…」
「まあ、失礼ね」玄碧は少し不機嫌そうに言った。「青楓が丹精込めて入れたお茶を拒むなんて」
場の空気が一気に冷え込む。私がお茶を飲まないことで、明らかに気分を害された様子だ。
「いえ、そういうわけでは…」
「次のお茶の時間まで説明を続けましょう」玄碧は話題を戻した。
私は気まずい雰囲気の中、説明を続けた。だが、心の中では警戒心が高まっていた。何かがおかしい。
◆◆◆
「勇姫さまー!」
清風院に戻ると、小桃が元気よく飛びついてきた。毎日紫煙閣から帰ると、彼女の明るさが心の救いになる。
「お帰りなさい!今日はどうでしたか?」
「相変わらず進展なしよ」私は溜息をついた。「表向きは協力的なフリをしているだけ」
「むむむ…」小桃は顔を膨らませた。「ひどいですね!」
「それより、小桃」私は話題を変えた。「最近、紫煙閣の侍女たちが何か変わったことをしてない?何か聞いてない?」
小桃は内務女官として宮中を歩き回り、様々な噂を耳にする立場にあった。
「うーん…」小桃が考え込む。「あ!最近、紫煙閣の侍女たちが
「薬草園?」
「はい。普段はあまり行かない場所なのに、この一週間で三回も行ってるって」
これは気になる情報だ。薬草園といえば、薬用の植物だけでなく、毒草も栽培されている場所だ。
「それから…」小桃は声を潜めた。「青楓さんが、『あの勇姫にはいずれ痛い目を見せてやる』って言っていたそうです」
やはり何かを企んでいるのか。私は眉をひそめた。
「気をつけないと」
「勇姫さま、心配です…」小桃が不安そうな顔をした。「あたし、明日から勇姫さまのお茶を全部先に飲んでみます!」
「そんなことしなくていいわよ!」思わず声が上ずる。「それに、明日は私が瑞珂殿下に報告する日だから、紫煙閣には行かないの」
「あ、そうでしたね」小桃はほっとした様子で笑った。「でも、何かあったらすぐに言ってくださいね!」
「ありがとう、小桃」
その夜、私は紫煙閣での出来事を細かく記録してみた。青楓の態度、玄碧の反応、そして薬草園の情報…。それらを脳内スプシで整理していくと、何かの陰謀が見え隠れしているような気がする。
◆◆◆
翌日、私は瑞珂の執務室で報告を終え、清風院に戻る途中だった。
「あれ?小桃?」
廊下の向こうに小桃の姿が見える。彼女はどこかそわそわしていた。
「小桃!」
彼女は私に気づくと、明るい笑顔を見せた。
「勇姫さま!報告はうまくいきましたか?」
「ええ、まあね」私は少し首を傾げた。「でも小桃、あなたこんなところで何をしているの?」
「え、えっと…」小桃はなぜか言葉を濁した。「ちょっと用事があって…」
彼女の態度がどこかおかしい。いつもより落ち着きがなく、視線も定まらない。
「小桃?何かあったの?」
「な、なんでもないです!」彼女は慌てて否定した。「あ、そうだ!勇姫さま、お腹すいてませんか?私がお茶と
「点心?」
「はい!」小桃は嬉しそうに言った。「勇姫さまが紫煙閣で大変そうだったから、元気になってほしくて…」
その優しさに胸が熱くなる。
「ありがとう、小桃」
清風院に着くと、部屋の中央に小さなテーブルが用意されていた。そこには茶器と可愛らしい点心が並んでいる。
「わあ、素敵ね」
「えへへ」小桃は照れくさそうに頭をかいた。「特別なお茶も用意したんです!」
私たちはテーブルを囲んだ。小桃がお茶を淹れる姿は、いつもより少し緊張しているように見える。
「どうぞ!」彼女はお茶を差し出した。
「ありがとう」
お茶を口に運ぼうとしたその時、私は違和感を覚えた。これはどこかで…
「あれ?このお茶…」
小桃の表情が一瞬こわばった。
「ど、どうかしましたか?」
「この香り…紫煙閣のお茶と同じね」
小桃の顔から血の気が引いた。
「え?そ、そんなはずは…」
不審に思った私は、お茶をじっと見つめた。色も香りも確かに昨日玄碧が勧めてきたものと似ている。
「小桃、このお茶はどこで…」
言い終わる前に、小桃が突然お茶碗を私の手から取り上げ、自分の口に運んだ。
「小桃!?」
「だ、大丈夫です!このお茶は美味しいですよ!ほら、見てください!」
彼女は一気に飲み干した。その瞬間、私の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。
「小桃、まさか…」
「え、へへ…」小桃は弱々しく笑った。「あたし、ちょっと紫煙閣に行って…」
その言葉の途中、彼女の顔色が急に変わった。
「あ、れ…」
次の瞬間、小桃はその場に崩れ落ちた。
「小桃!」
私は慌てて彼女を抱き起こした。小桃の顔は蒼白で、冷や汗が額を伝っている。
「小桃!しっかりして!」
「ご、ごめんなさい…勇姫さま…」小桃は震える声で言った。「あたし…勇姫さまに代わって…お茶を…」
「バカ!なんてことを!」
どうやら小桃は私を心配して、紫煙閣から出された茶葉を調べようとしたらしい。そして、それが本当に毒入りだと確かめるために、自ら飲んだのだ。
「小桃、しっかりして!医者を呼んでくる!」
「だ、大丈夫…です…」小桃は弱々しく微笑んだ。「きっと…ただの…眠り薬…」
小桃の意識が遠のいていく。私は必死で彼女を揺すった。
「小桃!目を開けて!」
だが、彼女はすでに意識を失っていた。瞳孔は開いているが、呼吸は浅い。
「助けて!誰か!」
私の叫び声を聞いて、廊下から足音が響いた。翡翠が駆け込んでくる。
「勇姫様!どうしたんですか!?」
「小桃が毒を飲んだの!早く医者を!そして白凌さんも!」
翡翠は驚いた顔で頷くと、すぐに走り去った。
私は小桃を抱きかかえ、ベッドに寝かせた。その細い身体が、まるで折れそうな花のように震えている。
「小桃…どうしてこんなことを…」
涙が頬を伝う。この子が私のために命を危険にさらすなんて。
「勇姫!」白凌が部屋に駆け込んできた。彼の冷静な目が一瞬で状況を把握する。
「小桃が…私の代わりに毒入りのお茶を…」
白凌は素早く小桃を診察した。
「瞳孔散大、呼吸は浅いが規則的…」彼は小声でつぶやいた。「恐らく
「命に関わる?」恐る恐る尋ねる。
「このままでは…」白凌は真剣な眼差しで言った。「量次第だ。茶葉はどこにある?」
私は茶器を指さした。白凌はそれを手に取り、中身を調べた。
「…これは大量摂取すれば危険だ」彼は静かに言った。「早急に解毒剤が必要だ」
「どんな解毒剤?」
「
時間…
「白凌さん」私は思いついて言った。「この毒の出所がわかれば、解毒剤も見つかるかもしれない」
「どういうことだ?」
「小桃は紫煙閣から茶葉を持ってきたはず。毒を仕込んだのは青楓という侍女だと思う」私は説明した。「彼女たちが最近、薬草園に出入りしていたという情報もある」
白凌の目が光った。
「なるほど。彼らが毒を調合したなら、解毒剤も持っている可能性が高い」
「私が調べてくる」私はきっぱりと言った。
「危険だ」白凌が遮った。「毒を仕込んだのが本当に青楓なら、そなたを狙っている証拠だ」
「でも、小桃を救うには…」
白凌はしばらく考え、やがて決断を下した。
「行くなら私も同行する」
私は感謝の意を示して頷いた。
「白凌殿!」医官が部屋に入ってきた。「患者の状態は?」
「
医官は急いで小桃の治療を始めた。私と白凌は部屋を出た。
「まず何をする?」白凌が尋ねた。
「これは追跡調査ね」私は目を閉じ、脳内スプシを開いた。「毒茶の流れを辿りましょう」
白凌は私が頭の中で表を組み立てる様子を、静かに見守っていた。
「推測と情報を整理すると…」私は思考を言葉にしていく。「小桃は紫煙閣に行った…おそらく昨日の午後、私が瑞珂殿下の元にいる間に…」
「そこで茶葉を…」
「青楓から受け取ったか、どこかから持ち出したかのどちらかね」私は続けた。「青楓が薬草園に行っていた証言があるなら、毒の調合場所も特定できるかも」
「薬草園には監視人がいる」白凌が情報を提供した。「何かあれば記録されているはずだ」
「よし、まず薬草園へ向かいましょう」
◆◆◆
薬草園は宮中の北西にある静かな場所だった。様々な薬草が整然と植えられ、几帳面に管理されている。その入り口で、年配の男性が私たちを出迎えた。
「
「公務だ」白凌は厳かに言った。「最近、紫煙閣の侍女たちがここに来ていると聞いたが?」
呂朗はしばらく黙っていたが、白凌の鋭い視線に負けたようだった。
「はい…確かに来ていました」彼は渋々と言った。「青楓という女官が、五日前から三回ほど」
「何の目的で?」
「薬草の勉強だと…」呂朗は言いよどんだ。
「どの薬草に興味を示していた?」私が尋ねた。
「それは…」呂朗は明らかに言いにくそうにしていた。
「人命に関わる問題だ」白凌が厳しく言った。「協力してほしい」
呂朗はため息をついた。
「
「夜叉花?」私は聞いたことのない名前だった。
「睡眠作用のある花だ」白凌が説明した。「金縷草は…」
「痛みを鈍らせる効果があります」呂朗が補足した。「どちらも医療用ですが、大量に摂取すると危険です」
これは間違いない。
「彼女は採取したの?」
「はい…」呂朗は申し訳なさそうに頭を下げた。「玄碧様の侍女だったので、特別に許可しました」
「最後に来たのはいつ?」
「昨日の午前中です」
「そして解毒剤は?」白凌が尋ねた。
「百合根と朱砂ですが…」呂朗は怪訝な顔をした。「彼女はそれには興味を示していませんでした」
「ここで調剤はできるのか?」
「ええ、あちらの小屋で…」
私たちは示された小屋へ向かった。中には様々な薬草や調合道具が整然と並んでいる。
「彼女はここで何かを作っていた?」
「はい」呂朗は頷いた。「何かの粉末を…」
私は小屋の中を調べ始めた。そこには調合記録が残されていた。
「見て、白凌さん」私は発見した記録を指さした。「三日前、青楓の名前で夜叉花と金縷草の調合記録が」
「そして解毒剤の記録はない…」白凌の表情が暗くなる。「つまり、彼女たちは被害者を救う気がなかったということだ」
恐ろしい考えだ。小桃が飲まなければ、私がその毒を飲んでいただろう。そして、誰も解毒剤を持っていない…
「解毒剤は自分たちで作るしかない」白凌が判断した。「準備を」
「私が作ります」呂朗が前に出た。「責任の一端は私にもあります」
「ありがとう」私は心から言った。
呂朗は素早く材料を集め始めた。「調合には少し時間がかかります」
「小桃を救うため、急いでください」
白凌が私の肩に手を置いた。
「勇姫、それだけではない」彼の声は低く、危険な響きを含んでいた。「この証拠を集めなければならない」
「証拠?」
「そう」彼はきっぱりと言った。「青楓の部屋を調べる必要がある」
「紫煙閣に?」私の背筋に冷たいものが走った。
「危険だが、必要だ」白凌の目は鋭く光っていた。「陰謀の全貌を暴かねば、次は何が起こるかわからない」
私は覚悟を決めた。
「解毒剤ができたら、すぐに小桃のもとへ送ってください」私は呂朗に言った。「私たちは証拠を探しに行きます」
呂朗は真剣に頷いた。
私と白凌は薬草園を後にした。向かうは紫煙閣──敵の巣窟だ。
「スプシで追跡…」私は小声でつぶやいた。「小桃を救うためには、隠された真実を明らかにしないと」
脳内スプシには、すでに青楓の動き、毒の調合、そして小桃の事件の全てが整理されていた。あとは決定的な証拠を見つけるだけ。
「行きましょう、白凌さん」
「あとでかならず、この茶に仕組まれた毒の真相を暴いてみせる」