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第30話

紫煙閣しえんかくへの道のりは、静かすぎるほどだった。夕暮れが近づき、宮中の廊下には赤い陽光が差し込んでいる。私──勇姫ゆうきは白凌の後を追いながら、小桃のことを考えていた。


「どうやって青楓の部屋に入るつもりなの?」小声で尋ねる。


白凌は足を止めずに答えた。「心配するな。紫煙閣の見取り図は把握している」


「でも、この時間帯は侍女たちが部屋にいるはずでは?」


「今は夕食の準備で忙しい時間だ」白凌の口元に小さな笑みが浮かんだ。「食堂と台所に大半が集まっている」


さすが宦官長、宮中の動きを完璧に把握している。


「それに」白凌が続けた。「玄碧は今、陛下との茶会に出席しているはずだ」


「茶会…」


思わず苦笑してしまう。茶が原因で小桃が倒れたというのに、宮中ではまた別の茶会が開かれているのだ。


紫煙閣の裏門から忍び込むと、白凌は迷うことなく私を案内していく。廊下の曲がり角では必ず先に様子を伺い、人の気配がしないことを確認してから進む。その動きは優雅でありながら、獣のように機敏だった。


「到着だ」


立ち止まったのは、質素な造りの部屋の前だった。侍女たちの居住区画だ。


「これが青楓の部屋か?」


白凌はうなずいた。「鍵はかかっているだろう」


そう言うと、彼は袖から細い金属を取り出した。鍵開かぎあけの道具だ。


「まさか宦官長が泥棒の技を…」思わず言ってしまう。


「これも仕事のうちだ」白凌は平然と言った。「宮中の秘密は、正面からは見えないものだ」


数秒もしないうちに、鍵の音がして、扉が開いた。


「入るぞ」


青楓の部屋は、予想よりもずっと広かった。側近そっきん侍女の特権なのだろう。


「手分けして探そう」白凌が言った。「私は書類や手紙を、そなたは薬や茶葉を」


「了解」


私たちは音を立てないように慎重に部屋を探し始めた。白凌は机の引き出しを、私は棚や箱を調べる。


「あった!」私は小さく声を上げた。


見つけたのは、緑色の小さな布袋だった。中には茶葉が入っている。香りを嗅ぐと、間違いない。小桃が飲んだお茶と同じものだ。


「白凌さん、これよ」


白凌が近づいてきて、布袋を手に取った。


「確かに怪しい。通常の茶葉とは異なる香りがする」


布袋の横には、もう一つ朱色の袋があった。開けてみると、白い粉末が入っている。


「これは…」


「薬草園で調合した粉末かもしれない」白凌が言った。「持ち帰って調べよう」


私は袋を取り、脳内スプシに記録しておいた。証拠品その1:緑の布袋の茶葉。証拠品その2:朱色の袋の白い粉末。


「白凌さん、こっちも」


引き出しの奥から、小さな紙切れを見つけた。そこには薬草の名前と効果、分量が記されている。


「これは…調合の指示書だな」白凌の目が鋭くなった。「夜叉花3匁、金縷草2匁…間違いない」


「でも、これは誰が書いたの?青楓自身?」


白凌は紙を光に透かすようにして見つめた。


「違う。この筆跡は…」彼の表情が変わった。「見覚えがある」


「誰の?」


「確証はないが…」


その時、廊下に足音が聞こえた。私たちは一瞬で固まった。


「誰か来る!」私は小声で叫んだ。


白凌は素早く窓を指さした。「逃げるぞ」


私たちは証拠品を持って窓から飛び出した。幸い一階だったので怪我はなかったが、着地の衝撃で朱色の袋が少し破れ、白い粉が漏れた。


「やばい!」


「構うな、急げ」


私たちは茂みに身を隠し、足音が遠ざかるのを待った。やがて、部屋の明かりがついた。誰かが戻ってきたようだ。


「危なかった…」私はため息をついた。


「証拠は集まったな」白凌が言った。「次はどうする?」


「まだ足りないわ」私は脳内スプシを開きながら言った。「青楓が勝手にこんなことをするとは思えない。背後に誰がいるのか、はっきりさせたい」


「そのためには?」


「不審行動リストを作る必要があるわ」


白凌は眉を寄せた。「不審行動リスト?」


「そう。最近の出来事を時系列で整理して、誰が何をしていたかを明らかにするの」


私たちは紫煙閣を抜け出し、清風院へと向かった。小桃の様子が気になる。


◆◆◆


清風院に戻ると、医官が小桃の様子を診ていた。


「どうですか?」私は息を切らせて尋ねた。


「呂朗殿から解毒剤が届いて投与しました」医官が答えた。「容体は安定しましたが、まだ意識は戻っていません」


小桃のベッドに近づくと、彼女は青白い顔で眠っていた。呼吸は以前より深くなっているようだが、まだ弱々しい。


「良かった…」私は彼女の手を握った。「ごめんね、小桃。あなたを巻き込んでしまって…」


白凌が医官に向き直った。「追加の解毒剤は?」


「十分な量があります」医官は頷いた。「呂朗殿が大量に調合してくださいました」


「呂朗には感謝しないとね」私は言った。


白凌が部屋の隅を指さした。「作業を始めよう」


私たちは机を挟んで向かい合い、証拠を広げた。


「まずは時系列で整理するのね」私は大きな紙を取り出し、脳内スプシのデータを書き出し始めた。「五日前から青楓が薬草園に通い始めた…」


「三日前に夜叉花と金縷草を調合…」白凌が続けた。


「そして昨日、私が瑞珂殿下の元に報告に行っている間に…」


「小桃が紫煙閣に行き、茶葉を入手したのだろう」


私たちは事件の流れを紙に記していった。縦軸には日付と時間、横軸には場所と人物。そして不審な行動を赤線で結んでいく。


「こうして見ると…」白凌がつぶやいた。「青楓の行動は明らかに計画的だ」


「でも、彼女一人でこんな計画を立てられるかしら?」


「いや、無理だろう」白凌は首を振った。「彼女には動機はあるが、宮中の警備体制を知り尽くした上でこの計画を立てるのは難しい」


「つまり、背後にいるのは…」


白凌は静かに頷いた。「玄碧だ」


それは予想通りの答えだった。しかし、証拠はまだ不十分だ。


「でも、玄碧と直接結びつける証拠がない」私は眉をひそめた。「あの指示書も、彼女の筆跡とは断定できないんでしょう?」


「ああ」白凌は認めた。「だが、もう一人、気になる人物がいる」


「誰?」


夕蘭せきらんだ」


その名前を聞いて、記憶が蘇った。夕蘭は玄碧のもう一人の側近侍女で、物資横流し事件でも名前が挙がっていた人物だ。


「夕蘭も関わっているの?」


「おそらく」白凌は言った。「私が記憶する限り、あの指示書の筆跡は夕蘭に似ている」


「じゃあ、彼女の部屋も調べるべきね」


「時間がない」白凌が首を振った。「もうすぐ茶会が終わる。玄碧が戻ってくる」


「では、別の方法で…」


私は不審行動リストに新たな欄を設けた。「夕蘭の最近の行動」


「彼女について、何か知っている?」


白凌は少し考えてから答えた。「彼女は玄碧の"影"と呼ばれている。表立った行動は少ないが、裏で様々な工作を行うことで知られている」


「工作?」


「うむ。噂の流布や、ライバルへの嫌がらせなどだ」


「そういえば…」私は思い出した。「紫煙閣で改革を始めようとした時、突然私の悪評が広まったわ。『神算術の才女は目下の者を蔑ろにする』とか…」


「それも夕蘭の仕業かもしれない」白凌の目が鋭くなった。


私は夕蘭の欄に、分かっている情報を書き込んだ。玄碧の側近、噂の流布、裏工作…。


「白凌さん、夕蘭の居場所は把握できる?」


「難しいな…」白凌が眉をひそめた。「彼女は影のような存在だ。普段から姿を見せないことが多い」


「でも、彼女が青楓に指示を出していたとしたら、連絡を取り合っているはずよね?」


「そうだな…」


私たちは不審行動リストをさらに詳しく見ていった。青楓の薬草園訪問、夜叉花と金縷草の調合、茶葉の準備…そのどれにも、裏で夕蘭が関わっていた可能性がある。


「ちょっと待って」私は急に思いついた。「白凌さん、あなたは宮中の誰がどこで何をしているか、かなり詳しいわよね?」


「それが私の仕事だ」彼は穏やかに答えた。


「だったら、過去五日間で、夕蘭が青楓と接触した可能性のある時間と場所を教えてくれない?」


白凌は少し考え込み、やがて口を開いた。


「五日前の夕方、二人は玄碧の執務室の外で顔を合わせている。三日前の未明、中庭で短時間会話していた。そして昨日…」


「昨日は?」


「昨日の午前中、二人は薬草園の近くで立ち話をしていた」


「それだわ!」私は興奮して言った。「昨日の午前中、青楓が最後に薬草園を訪れたのと同じ時間!」


白凌の表情が変わった。「つまり、夕蘭が青楓に最終指示を出したのだろう」


私は不審行動リストに、夕蘭の動きを赤線で追加した。パターンが見えてきた。


「夕蘭が計画を立て、青楓が実行した…」私はつぶやいた。「でも、指示を出したのは…」


「玄碧だ」白凌がきっぱりと言った。


「でも、それを証明するには…」


「そのためには、夕蘭を追い詰める必要がある」


私たちは顔を見合わせた。夕蘭を追い詰めるには、さらなる証拠が必要だ。


「白凌さん、あなたは玄碧と夕蘭の関係についてどれくらい知っているの?」


白凌はしばらく沈黙していたが、やがて決意したように口を開いた。


「実は…夕蘭は玄碧の影武者のようなものだ。玄碧が直接手を下したくないことは、すべて彼女が担当する」


「それって、今回のような…」


「暗殺未遂のような汚れ仕事もだ」白凌の声は冷たかった。


「暗殺…」その言葉に背筋が凍りついた。私はようやく状況の深刻さを理解した。これは単なる嫌がらせではなく、命を狙った本格的な陰謀だったのだ。


「白凌さん、私たちはもっと大きな問題に直面しているのかもしれないわ」


「ああ」彼は静かに頷いた。「これは紫煙閣内の権力闘争ではなく、宮中政治そのものだ」


私は不審行動リストを改めて見つめた。「これだけでは証拠として弱いわね」


「そうだ」白凌が認めた。「だが、これを基に調査を進めることはできる」


「夕蘭の行動パターンを分析して、次の動きを予測する…」


「それができれば、現行犯で捕まえることも可能だ」


私たちの会話が続く中、ドアがノックされた。


「入って」


翡翠が部屋に入ってきた。「勇姫様、白凌様、皇太子殿下がお呼びです」


私と白凌は顔を見合わせた。


「殿下が?」


「はい」翡翠が頷いた。「小桃の件を聞かれたそうです。すぐに来るようにとのことでした」


「わかった」白凌が立ち上がる。「勇姫、証拠品を持っていこう」


私は茶葉と粉末が入った袋、そして不審行動リストを集めた。


「小桃、すぐに戻ってくるからね」まだ眠っている彼女に声をかけ、部屋を出た。


廊下を歩きながら、白凌が小声で言った。「殿下なら、私たちを助けてくれるだろう」


「ええ」私も頷いた。「瑞珂殿下は公正な方だもの」


「それだけではない」白凌の声は静かだった。「殿下はそなたを大切にしている」


その言葉に、心臓が少し早くなった。私は何も言い返せず、黙って歩き続けた。


瑞珂の執務室に向かう途中、私は不審行動リストをもう一度頭の中で整理した。青楓、夕蘭、そして玄碧…彼女たちの動きが、スプシの中で明確なパターンを描いている。


「これで関係者は特定できたわ」私は自分に言い聞かせるように言った。「あとは証拠を集めるだけ」


「うむ」白凌が頷いた。「不審行動リストを基に、夕蘭を追い詰めよう」


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