「ささやき声が聞こえるわ」と私は白凌に囁いた。
「うむ」白凌は静かに頷いた。「宮中の噂は風よりも速い。だが大方は真実からかけ離れている」
通りすがりの侍女たちが私たちをちらりと見ては、慌てて目をそらすのが分かる。彼女たちの目には不安と好奇心が混じっていた。
「何て噂になってるのかしら」
「おそらく『神算術の才女の侍女が毒を飲まされた』程度だろう」白凌は冷静に答えた。「犯人については、まだ噂になっていないはずだ」
それは幸いだった。今の段階で犯人が警戒されては、証拠集めが難しくなる。
瑞珂の執務室に到着すると、扉の前には数人の近衛兵が立っていた。いつもよりも多い。
「白凌様、勇姫様」近衛兵の一人が私たちに頭を下げた。「殿下がお待ちです」
扉が開くと、中からは熱のこもった議論の声が聞こえてきた。瑞珂の執務室には、瑞珂本人のほかに、宰相と文官長の姿があった。彼らは私たちが入ってくると、一斉に振り向いた。
「勇姫、来たか」瑞珂の声には安堵が混じっていた。
「殿下」私は深々と頭を下げた。「お呼びとのことで」
文官長の
「小桃は『一人の女官』ではない」瑞珂の声が冷たくなった。「彼女は勇姫の側近であり、内務改革の立役者だ」
「それにしても」宰相が口を挟んだ。「この件を殿下自らが扱う必要があるのでしょうか」
「必要がある」瑞珂はきっぱりと言った。「これは単なる毒殺事件ではない。宮中改革に対する妨害工作だ」
宰相と文官長は顔を見合わせ、渋々と頷いた。この場での議論は続けられないと判断したようだ。
「では、我々はこれで」文官長が立ち上がった。「詳細な報告を待っています」
二人が退出すると、部屋の空気がぐっと軽くなった。瑞珂はため息をついた。
「やれやれ…彼らはこの件を矮小化したがっている」
「なぜですか?」私は不思議に思って尋ねた。
「おそらく…」瑞珂は窓の外を見つめた。「彼らも紫煙閣の力を恐れているのだろう」
白凌が一歩前に出た。「殿下、我々は証拠を持ってきました」
「話してくれ」瑞珂は真剣な表情になった。「小桃の容体はどうだ?」
「解毒剤が投与され、命に別状はないようです」私が答えた。「ただ、まだ意識は戻っていません」
「そうか…」瑞珂の表情に安堵の色が浮かんだ。「彼女は勇敢な女官だ。無事であることを願う」
私は小桃のことを思い出し、胸が痛んだ。彼女は私のために命を危険にさらしたのだ。
「さて」瑞珂が話題を戻した。「証拠を見せてくれ」
私と白凌は持ってきた証拠品を机の上に並べた。緑の布袋に入った茶葉、朱色の袋の白い粉末、指示書、そして私が作成した不審行動リスト。
「これらは青楓の部屋から見つかりました」白凌が説明した。「茶葉と粉末は、薬草園で調合された毒物だと思われます」
瑞珂は慎重に証拠品を調べ、特に不審行動リストに目を留めた。
「なるほど…」彼はリストを詳しく見ていく。「よく整理されている。これは勇姫の作品か?」
「はい」私は頷いた。「スプシで各人の行動を時系列で整理しました」
「見事だ」瑞珂は真剣な顔で言った。「この図を見れば、青楓の背後に夕蘭がいて、さらにその背後に玄碧がいることが一目瞭然だ」
私はほっとした。瑞珂が私たちの分析を理解してくれたのだ。
「ただ」瑞珂は続けた。「これだけでは公式な証拠として弱い。特に玄碧を直接結びつける証拠がない」
「そうなんです」私は肩を落とした。「どうすればいいでしょう?」
瑞珂はしばらく考え込んだ。その横顔は若いながらも威厳に満ちていた。窓から差し込む月明かりが、彼の姿を神々しく照らしている。
「白凌」瑞珂が突然言った。「夕蘭の居場所を特定できるか?」
「難しいですが…」白凌は眉をひそめた。「この時間であれば、玄碧の執務室か、紫煙閣の南側にある彼女の私室にいる可能性が高いです」
「よし」瑞珂が立ち上がった。「我々で捜査するぞ」
「殿下ご自身が?」私は驚いて声を上げた。
「うむ」瑞珂はきっぱりと言った。「これは単なる女官間の争いではない。宮中政治そのものだ。私自ら動かねばならない」
瑞珂が自ら動くという決断に、私は感動した。彼は本当に改革を望んでいるのだ。
「ただし」瑞珂が付け加えた。「捜査には私の権限が必要だ。玄碧の部屋を調べるには、皇太子である私が立ち会わねばならない」
「玄碧様の部屋ですか?」私は不安を隠せなかった。
「恐れる必要はない」瑞珂は優しく笑った。「私がついている」
その言葉に、心が温かくなった。
「では行動計画を立てましょう」私は気を取り直した。「まず夕蘭の部屋を…」
「その前に」瑞珂が私の言葉を遮った。「勇姫、この件で最も守るべきは、そなただということを忘れるな」
「え?」
「青楓が毒を仕込んだ茶葉は、本来そなたに向けられたものだった」瑞珂の声は真剣だった。「小桃がそなたの代わりに飲んだのだ」
「そうなんです…」私は罪悪感で胸が締め付けられた。「私のせいで小桃が…」
「自分を責めるな」瑞珂が優しく言った。「責めるべきは犯人だ。そして、そなたを守るのは私の責務だ」
白凌がうなずいた。「殿下の仰る通りです。勇姫、そなたの命が狙われているという事実を忘れてはならない」
二人の言葉に、私は深く頷いた。確かに、これは私の命を狙った暗殺未遂なのだ。小桃は単に巻き込まれてしまった。
「わかりました」私は決意を固めた。「でも、だからこそ真実を明らかにしたいんです」
「よし」瑞珂が頷いた。「では計画を立てよう」
私たちは執務室の中央に集まり、作戦を練り始めた。私が不審行動リストを基に説明し、白凌が宮中の見取り図を描き、瑞珂が全体の指揮を執る。三人の息が完璧に合っていた。
「夕蘭の部屋から調査を始め、証拠が見つかれば玄碧の執務室も調べる」瑞珂が整理した。「白凌、近衛兵を何人か連れていくべきか?」
「いいえ」白凌は首を振った。「大人数では目立ちすぎます。我々三人と、信頼できる兵士二人程度がよいでしょう」
「同意する」瑞珂は頷いた。「では、すぐに出発するぞ」
私たちが部屋を出ようとした時、突然ドアがノックされた。
「殿下、緊急事態です!」扉の向こうから声が聞こえる。
「入れ」
扉を開けると、翡翠が息を切らせて立っていた。「勇姫様、大変です!小桃の容体が急変しました!」
「何?」私は血の気が引いた。「どうして?解毒剤を投与したはずなのに…」
「医官が言うには、別の毒が使われていた可能性があるとのことです」翡翠は慌てて言った。
「別の毒?」白凌の表情が変わった。「我々が見つけた証拠は偽装だったのか…」
瑞珂の表情が険しくなった。「罠だな」
「どういうことですか?」私は混乱していた。
「敵は我々の動きを予測していた」瑞珂が説明した。「我々が証拠を探しに行くと見込んで、偽の証拠を残し、本当の毒は別のものを使った」
「な、なんてことを…」
「急ごう!」瑞珂が言った。「小桃を救うには、本当の毒を特定しなければならない」
私たちは急いで清風院へと向かった。廊下を走りながら、私の頭の中では様々な考えが渦巻いていた。敵の策略は私たちの想像を超えている。彼らは私たちの行動を読み、一歩先を行っていた。
清風院に到着すると、小桃の部屋には医官が数人集まっていた。彼女はベッドで苦しそうに呼吸している。顔は以前よりも青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいた。
「小桃!」私は彼女のベッドに駆け寄った。
「状況は?」瑞珂が医官に尋ねた。
「夜叉花の毒に対する解毒剤を投与しましたが、効果が薄いようです」医官が答えた。「別の毒、おそらく
「菫草?」白凌が眉をひそめた。「それなら解毒剤は…」
「
「なんだって?」私は声を上げた。
「菫草の毒は珍しく、解毒剤もあまり必要とされないのです」医官は申し訳なさそうに言った。
「どこで手に入りますか?」瑞珂が尋ねた。
「薬草園か、もしくは…」医官が言いよどんだ。
「もしくは?」
「玄碧様の私室です」医官がようやく言った。「彼女は様々な珍しい薬を収集していることで知られています」
私たちは顔を見合わせた。皮肉な話だ。小桃を救うためには、敵の陣地に乗り込まなければならない。
「行くぞ」瑞珂がきっぱりと言った。「白凌、玄碧の私室へ案内せよ」
白凌は頷いた。「はい、殿下」
「私も行きます」私は決意を込めて言った。
「いや、勇姫はここに残れ」瑞珂が言った。「小桃のそばにいてやれ」
「でも…」
「彼女には友が必要だ」瑞珂の声は優しかった。「それに、そなたが現場にいれば、玄碧はますます警戒するだろう」
それはもっともな判断だった。小桃のそばを離れたくない気持ちもある。
「わかりました」私は頷いた。「でも、気をつけてください」
「もちろんだ」瑞珂は微笑んだ。「我々はすぐに戻る」
瑞珂と白凌が部屋を出て行くと、私は小桃のベッドの横に座った。彼女の手を握ると、少し冷たく感じた。
「小桃、しっかりして…」私は彼女に囁きかけた。「みんなが解毒剤を取りに行ったから、もう少しの辛抱よ」
小桃の呼吸は浅く、不規則だった。胸の上げ下げが時折止まりそうになる。医官がじっと様子を見守っている。
「もう少しの辛抱だからね…」
時間がゆっくりと流れていく。窓の外は真っ暗で、室内の灯りだけが私たちを照らしていた。祈るような気持ちで、小桃の手を握り続ける。
「お願い、小桃…私のせいであなたを失いたくない…」
約一時間後、足音が廊下に響いた。瑞珂と白凌が戻ってきたのだ。
「解毒剤は?」私は立ち上がって尋ねた。
瑞珂は小さな瓶を掲げた。「見つけた。玄碧の私室にあった」
「ありがとうございます!」
医官が素早く瓶を受け取り、解毒剤を準備し始めた。
「どうだった?」私は小声で二人に尋ねた。
「玄碧は不在だった」白凌が答えた。「だが、夕蘭がいた」
「夕蘭が?」
「うむ」瑞珂の表情が厳しくなった。「彼女は我々を見るなり逃げようとした。だが、白凌が取り押さえた」
「彼女を
「そんな…あっさり白状したの?」
「いや、あっさりではない」瑞珂の目が鋭くなった。「だが、皇太子である私の前では、嘘をつくことはできなかったようだ」
彼の言葉には強い威厳が込められていた。さすが皇太子、その権威の前では、敵も抗えないのだ。
「夕蘭は現在、白凌の部下が監視している」瑞珂が説明した。「彼女の証言は、事件の全貌を明らかにするだろう」
「玄碧様は?」
「まだ捕まえていない」白凌が言った。「だが、逃げられはしない」
その時、医官が振り向いた。「解毒剤を投与しました」
私たちは一斉に小桃に目を向けた。しばらくの間、彼女の様子に変化はなかったが、やがて…
「呼吸が安定してきました」医官が言った。「効いているようです」
安堵のため息が部屋中に広がった。
「良かった…」私はつぶやいた。「本当に良かった…」
小桃の顔に少しずつ血の色が戻り始めた。まだ意識は戻っていないが、確実に回復に向かっている。
「ありがとうございます、殿下」私は瑞珂に深く頭を下げた。「白凌さんも」
「礼はいらない」瑞珂は微笑んだ。「小桃は宮中の宝だ。彼女を失うわけにはいかない」
「それに」白凌が付け加えた。「夕蘭の証言のおかげで、玄碧の罪を証明できそうだ」
「これで…」
「うむ」瑞珂が頷いた。「この事件は解決に向かうだろう」
医官が部屋を出て行き、私たち三人だけが残された。
「勇姫」瑞珂が静かに言った。「ここまで来られたのは、そなたのおかげだ」
「いいえ、皆さんが…」
「違う」瑞珂はきっぱりと言った。「君がいなければ、気づけなかった」
その言葉に、私の心臓が高鳴った。
「殿下…」
「そなたの『頭の中の表』がなければ、我々は今頃、偽の証拠に惑わされ、本当の毒にも気づかなかっただろう」瑞珂の目には真摯な光があった。「そなたの存在が、宮中を変えている」
「殿下の仰る通りです」白凌も同意した。「勇姫の"不審行動リスト"があったからこそ、我々は夕蘭に辿り着けた」
二人の言葉に、胸が熱くなった。前世では誰にも評価されなかった私のスキルが、ここでは命を救う力になるなんて。
「ありがとうございます」私は心からの感謝を込めて言った。「でも、これからが本当の戦いですね」
「そうだ」瑞珂は頷いた。「玄碧との対決だ」
「彼女は簡単には降伏しないでしょう」白凌が言った。「強大な後ろ盾があります」
「構わん」瑞珂の声には強い決意が込められていた。「正義は我々の側にある」
その時、小桃がかすかに唇を動かした。
「小桃?」私は彼女に近づいた。
「ゆ…き…さま…」彼女の声はかすかだったが、確かに私の名を呼んでいた。
「小桃!」私は彼女の手を握りしめた。「大丈夫よ、もう安全だから」
小桃はゆっくりと目を開けた。その瞳は弱々しかったが、確かに意識は戻っていた。
「よかった…勇姫さまが…無事で…」
「バカ!」私は涙をこらえきれなかった。「心配するのはこっちよ!」
小桃は弱々しく微笑んだ。「ごめんなさい…でも…お役に立てて…嬉しいです…」
「十分すぎるほど役に立ったわ」私は彼女の頬を優しくなでた。「ゆっくり休んで」
小桃はうなずき、再び目を閉じた。今度は安らかな眠りに落ちたようだ。
「これで一安心だな」瑞珂が言った。「さて、我々は次の戦いに備えよう」
私は小桃の寝顔を見つめながら、静かに頷いた。
「はい、殿下」
私は立ち上がり、二人に向き直った。「玄碧様との決戦、準備しましょう」
この夜明け前の静けさの中で、私たちは新たな決意を固めた。小桃を狙った者たちに、必ず裁きを与える。そして、宮中の改革を止めようとする者たちにも。
瑞珂の言葉が心に響く。「君がいなければ、気づけなかった」
その信頼に応えるためにも、私は強くならなければ。