紫煙閣での初日から一週間が過ぎた。私——
「このように、書類の流れを整理するだけで、作業時間が三割削減できるのです」
大きな紙に描いた図を指さしながら説明を続ける私に、紫煙閣の女官たちは半信半疑の目を向けていた。
「本当に...そんなに効率が上がるのですか?」
質問したのは、玄碧の側近ではない比較的若い女官の
「はい」私は自信を持って答えた。「尚書房では既に実績があります。残業が減り、書類の紛失も激減しました」
「でも...」別の女官が不安そうに口を開いた。「玄碧様が...」
言葉を濁す彼女に、私は優しく微笑んだ。
「改革は強制ではありません。試してみたい方だけでいいのです」
それを聞いて、一部の女官たちの顔が明るくなった。強制ではないという言葉が、彼女たちを安心させたようだ。
「では、明日から実験的に始めましょう。希望者は名前を書いてください」
紙を回すと、思った以上に多くの女官たちが名前を書いた。翠雨をはじめ、七名ほどが参加を希望したのだ。
「これは予想外ね」
会議室を出ると、
「霜蘭さん、こんにちは」
「勇姫...」彼女は少し驚いた顔をしていた。「あれほど名前を書く女官がいるとは思わなかったぞ」
「ええ、私も驚いています」
「玄碧の影響力は絶大だ」霜蘭は小さな声で言った。「彼女が反対していることに協力するなど、通常ならあり得ない」
「では、なぜ...?」
「あなたの評判だ」霜蘭はきっぱりと言った。「『神算術の才女』の力を、自分の目で確かめたいのだろう」
その言葉に少し照れくさくなる。
「それほどでも...」
「謙遜することはない」霜蘭は珍しく柔らかな表情で言った。「実績が人を動かすのだ」
私たちが廊下を歩いていると、先ほどの翠雨が小走りで追いかけてきた。
「勇姫様、少しよろしいでしょうか?」
「もちろん」
翠雨は周囲を警戒するように見回し、小声で言った。
「実は...私たちの間でも、勇姫様の方法について話し合っていまして...」
「話し合い?」
「はい」彼女は目を輝かせた。「内務部で小桃様が成功を収めたことは、こちらでも噂になっています。私たちも...できれば同じように...」
霜蘭と私が顔を見合わせる。小桃の評判が紫煙閣にまで届いているとは。
「嬉しいことですね」私は真摯に答えた。「小桃はとても頑張り屋さんなんですよ」
「はい!」翠雨の声には憧れが込められていた。「彼女のような...活躍をしてみたいのです」
これは思わぬ展開だった。小桃が他の女官たちの目標になるとは。
「明日、具体的な実践方法をお教えします」私は約束した。「皆さんと一緒に改革を進められることを楽しみにしています」
翠雨はお辞儀をして去っていった。その背中を見送りながら、霜蘭がつぶやいた。
「変化の波が、紫煙閣にも届き始めたようだな」
◆◆◆
翌日、私は約束通り改革の実践講座を開いた。集まった女官たちは熱心に私の話を聞き、実際に手を動かして新しい文書管理方法を学んでいった。そして、スプシスキル「共有」が活躍した。頭の中のイメージを、他人にもおすそわけ出来る事が発覚したのだ。
「このように分類するだけで、探す時間が大幅に減ります」
「なるほど!色分けするのですね!」
「これなら私にもできそうです!」
女官たちの目が次第に輝いていくのを見て、心が温かくなる。彼女たちは本当は変化を望んでいたのだ。ただ、その方法がわからなかっただけ。
「みなさん、とても上手です」私は心から褒めた。「これを続けていけば、必ず効率は上がりますよ」
そんな私たちの様子を、部屋の隅から
私は気にせず続けた。大切なのは、実際に成果を出すこと。たとえ妨害があっても、結果が全てを物語る。
講座が終わり、片付けをしていると、翠雨が再び近づいてきた。
「勇姫様、これは...魔法のようです」
「魔法?」思わず笑みがこぼれる。
「はい」翠雨は目を輝かせた。「こんな簡単なことで、混乱が収まるなんて...」
「魔法ではなく、ただの整理術ですよ」私は謙虚に答えた。「誰にでもできることです」
「でも、誰も思いつかなかった」翠雨は感嘆した。「勇姫様の頭の中の表は、本当にすごいです」
その言葉に複雑な気持ちが湧き上がる。前世では当たり前だったスプシの知識が、この世界では「魔法」とまで言われる。
「頑張ってください」私は彼女の肩を軽く叩いた。「成果が出たら、また教えてね」
◆◆◆
三日後、予想外の出来事が起きた。
「勇姫様!大変です!」
清風院での休憩中、小桃が駆け込んできた。彼女の顔は興奮で紅潮している。
「どうしたの、小桃?」
「紫煙閣の女官たちが、あたしに会いに来たんです!」
「紫煙閣の?」
「はい!」小桃は目を丸くした。「翠雨さんという方と、他の方々が...あたしの分担表について質問したいって!」
驚きのあまり言葉を失う。紫煙閣の女官たちが、小桃に教えを請いに来たというのか。
「何を聞かれたの?」
「分担表の作り方や、伝言管理の方法です」小桃は嬉しそうに続けた。「あたし、勇姫さまから教わったことを全部教えました!」
「そう...」
私の脳内に一つの可能性が浮かんだ。もしかして、女官たちの間で自発的に改革の輪が広がり始めたのでは?
「小桃、素晴らしいわ」私は心から褒めた。「あなたが橋渡し役になったのね」
「えへへ...」小桃はてれくさそうに笑った。「あたし、頑張っただけです」
「いいえ、あなたの功績よ」私はきっぱりと言った。「紫煙閣の女官たちは、私より小桃に親しみを感じたのね」
確かに、私は「神算術の才女」という神秘的な存在だが、小桃は彼女たちと同じ女官。心理的な距離が近いのだろう。
「これからどうしましょう?」小桃が尋ねた。
「このまま見守りましょう」私は答えた。「自発的な動きは、強制より価値があるわ」
◆◆◆
その翌日、紫煙閣を訪れると、思いがけない光景が広がっていた。女官たちが集まり、何やら熱心に図を描いている。近づいてみると...それは私が教えた分類表だった。
「あら...」
私の声に気づいた女官たちが振り向く。翠雨が代表して前に出た。
「勇姫様!」彼女は目を輝かせた。「私たち、自分たちで改良版を作ってみました!」
「改良版?」
「はい!」翠雨は誇らしげに図を広げた。「小桃様の分担表と、勇姫様の分類法を組み合わせたんです」
見れば、確かに私の方法をベースにしながらも、紫煙閣独自の工夫が加えられていた。色分けがより細かく、特に儀式関連の書類に重点を置いた構成だ。
「これは...素晴らしいわ」心からの感嘆を込めて言った。「自分たちで考えたのね」
「はい!」翠雨は他の女官たちと誇らしげに顔を見合わせた。「昨日から試してみたのですが、もう効果が出始めています」
「効果が?」
「書類探しの時間が半分になりました!」別の女官が興奮して言った。「それに、間違いも減って...」
彼女たちの声には、確かな手応えが込められていた。自分たちで考え、実行した改革の成果を実感しているのだ。
「素晴らしい」私は心から言った。「これこそが本当の改革です」
「本当の改革...」翠雨が首を傾げた。
「ええ」私は穏やかに説明した。「私が上から押し付けるのではなく、皆さん自身が考え、改善していく。それが持続可能な変化なのです」
女官たちの目に理解の光が灯る。彼女たちは初めて、自分たちが改革の主役なのだと気づいたようだった。
「でも...」一人の女官が不安そうに言った。「玄碧様が知ったら...」
確かにそれは問題だ。玄碧はまだ改革に賛同していない。
「最初は小規模に始めましょう」私は提案した。「成果が出てから、正式に報告するのです」
「それがいいでしょうね」翠雨が頷いた。「少しずつ...でも確実に」
彼女たちとの話を終え、廊下に出ると、予想外の人物と鉢合わせた。
「なかなか興味深い光景だったな」
低く落ち着いた声の主は、白凌だった。彼はいつの間にか紫煙閣に来ていたようだ。
「白凌さん...」私は少し驚いた。「見ていたんですか?」
「うむ」彼は静かに頷いた。「女官たちが自ら改革に取り組む姿は...新鮮だった」
「ええ...」私も同感だった。「彼女たち自身の力で変わり始めているんです」
「それこそが、真の成功だ」白凌の口元に珍しい微笑みが浮かんだ。「上からの命令ではなく、下からの変革」
「そうですね」
「皇太子殿下にも報告しよう」白凌は真剣な表情になった。「紫煙閣での進展は、殿下も喜ばれるだろう」
「ありがとうございます」
白凌は去り際に、意味深な言葉を残した。
「気をつけるといい。変化の波が大きくなれば、抵抗も強くなる」
◆◆◆
その警告通り、翌日になると状況は一変した。
「勇姫様!大変です!」
翠雨が青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「玄碧様が...私たちの改革を知って...激怒されています」彼女の声が震えていた。「青楓様から密告があったようで...」
やはり監視役だったか。
「皆さんは叱られたの?」
「はい...」翠雨は肩を落とした。「『私の許可なく勝手なことをするな』と...」
心が沈む。せっかく芽生えた自主性が摘み取られるのは残念だ。
「そして...」翠雨はさらに続けた。「勇姫様にも、すぐに来るよう命じられています」
玄碧との直接対決の時が来たか。
「わかったわ」私は気持ちを引き締めた。「行きましょう」
玄碧の私室に案内されると、そこには怒りに満ちた彼女の姿があった。美しい顔立ちが、憤怒で歪んでいる。
「勇姫...」彼女の声は氷のように冷たかった。「私の許可なく、女官たちを扇動したか」
「扇動などしていません」私は冷静に答えた。「彼女たちは自ら学びたいと望んだのです」
「黙りなさい!」玄碧の声が鋭く響いた。「あなたは紫煙閣の秩序を破壊している!」
「秩序を破壊するのではなく、改善しているのです」私は動じずに言った。「女官たちの労働時間は減り、効率は上がっています」
「効率?」玄碧は嘲笑うように言った。「伝統と格式が大事なのに、効率など...」
「伝統と効率は両立できます」私はきっぱりと言った。「女官たちが疲弊せず、最高のパフォーマンスを発揮できれば、伝統はより輝きます」
玄碧の目が怪訝な色を浮かべた。彼女は反論を準備していたはずが、その論理に一瞬たじろいだようだった。
「それに...」私は続けた。「紫煙閣こそ、宮中最高の儀式を司る場所。その品格を保つためにも、無駄は省くべきではないでしょうか」
これは彼女の自尊心を利用した論法だった。効率化は品格を下げるのではなく、むしろ高めるのだと。
玄碧はしばらく黙っていたが、やがて冷たく言った。
「あなたの言うことには一理あるかもしれない。しかし...」
彼女は鋭い視線を私に向けた。
「改革するなら、私の指揮下で行うべきだ。勝手な動きは許さない」
これは譲歩の兆しだろうか。完全な拒絶ではなく、主導権を握りたいという意図が見える。
「もちろんです」私は丁寧に頭を下げた。「紫煙閣の主は玄碧様です。私はただのアドバイザーに過ぎません」
玄碧の表情が少し和らいだ。彼女の虚栄心をくすぐることに成功したようだ。
「よろしい」彼女はようやく言った。「明日から、私の監督の下で改革を進めよう」
「ありがとうございます」
「だが...」玄碧の目が再び鋭くなった。「私の許可なく女官たちと接触することは禁ずる。全て私を通すこと」
これは明らかな制限だ。私の影響力を抑えようとしている。
「わかりました」表面上は従うことにした。
玄碧の部屋を出ると、翠雨たちが不安そうな顔で待っていた。
「大丈夫ですか?」翠雨が小声で尋ねた。
「ええ」私はにっこりと笑った。「玄碧様も改革に協力してくださることになりました」
女官たちの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ただし...」私は声を潜めた。「これからは公式には玄碧様の指示に従って動きましょう」
「公式には...?」翠雨が首を傾げた。
私は意味深に微笑んだ。
「皆さんの間では、引き続き情報共有していいのよ。ただ、目立たないように」
翠雨たちは意味を理解したようで、小さくうなずいた。
「わかりました。私たちの間では、続けます」
◆◆◆
その夜、瑞珂の執務室に報告に行くと、彼は私の話を興味深く聞いていた。
「なるほど...」瑞珂は感心したように言った。「玄碧が妥協したか」
「はい。形式上は彼女の指揮下ですが...」
「実質的には、女官たちの間で自発的な動きが続いている」瑞珂が言葉を継いだ。
「その通りです」
「これは興味深い展開だ」瑞珂は穏やかな笑みを浮かべた。「トップダウンではなく、ボトムアップの改革」
「小桃の活躍も大きいです」私は付け加えた。「彼女が内務女官として成功した例が、他の女官たちの希望になっているようです」
「波紋が広がっているということだな」瑞珂は満足げに頷いた。「そなたの撒いた種が、思いがけない場所で芽を出し始めている」
その表現に、心が温かくなった。確かに、私の改革は単なる制度の変更ではなく、人々の意識を変えることだったのかもしれない。
「瑞珂殿下」私は決意を込めて言った。「これからも続けます」
「うむ」彼は優しく微笑んだ。「そなたの"頭の中の表"が、宮中を変える。それは間違いないだろう」
◆◆◆
翌日から、奇妙な共存状態が始まった。表向きは玄碧の指揮の下で改革が進み、裏では女官たちの自発的なネットワークが広がっていく。
「勇姫様」ある日、翠雨が小声で言った。「私たち、仲間が増えました」
「仲間?」
「はい」彼女は嬉しそうに頷いた。「内務部の方々と交流が始まったんです。小桃様を通じて...」
なるほど。部署の壁を越えた交流が生まれ始めたというわけだ。
「それは素晴らしいわ」
「はい!」翠雨の目が輝いた。「みんな『スプシ』という言葉を使い始めているんです」
「スプシ?」思わず声が上ずる。
「はい、勇姫様の頭の中の表のことです」翠雨は説明した。「小桃様から聞いた言葉なのですが...今や合言葉のようになっています」
信じられない。私が何気なく使った言葉が、宮中の女官たちの間で広まっているなんて。
「そうなんですね...」
「勇姫様」翠雨は真剣な表情になった。「私たちは、あなたの教えを広げていきます。『スプシの力』を使って...」
その言葉に、胸が熱くなった。彼女たちは単に命令に従っているのではない。自分たちの意思で変化を選び、広げようとしているのだ。
「翠雨さん...」私は心からの感謝を込めて言った。「あなたたちが主役です。私はただのきっかけに過ぎません」
「いいえ」彼女はきっぱりと言った。「勇姫様は私たちに目を開かせてくれました。これからも、導いてください」
この時、私は確信した。スプシの本当の力は、効率化だけじゃない。見えないものを可視化し、人々に「変わる勇気」を与えることだったのだ。
他の女官たちにもスプシの考え方が伝播し始め、宮中全体に「見える化」の波が広がっていく。玄碧のような抵抗勢力はまだ存在するが、もはや流れを止めることはできないだろう。
改革は、確実に根づき始めていた。