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第32話

紫煙閣での初日から一週間が過ぎた。私——勇姫ゆうきは、予想通りの敵意と妨害に遭いながらも、なんとか改革の足場を築こうと奮闘していた。


玄碧げんぺきの冷たい視線を背に受けながら、今日も改革案の説明会を開いている。彼女は直接妨害はしないものの、侍女たちに「好きにするがよい」と言い放ち、実質的に協力しないことを表明していた。


「このように、書類の流れを整理するだけで、作業時間が三割削減できるのです」


大きな紙に描いた図を指さしながら説明を続ける私に、紫煙閣の女官たちは半信半疑の目を向けていた。


「本当に...そんなに効率が上がるのですか?」


質問したのは、玄碧の側近ではない比較的若い女官の翠雨すいう。彼女の目には純粋な好奇心が宿っていた。


「はい」私は自信を持って答えた。「尚書房では既に実績があります。残業が減り、書類の紛失も激減しました」


「でも...」別の女官が不安そうに口を開いた。「玄碧様が...」


言葉を濁す彼女に、私は優しく微笑んだ。


「改革は強制ではありません。試してみたい方だけでいいのです」


それを聞いて、一部の女官たちの顔が明るくなった。強制ではないという言葉が、彼女たちを安心させたようだ。


「では、明日から実験的に始めましょう。希望者は名前を書いてください」


紙を回すと、思った以上に多くの女官たちが名前を書いた。翠雨をはじめ、七名ほどが参加を希望したのだ。


「これは予想外ね」


会議室を出ると、霜蘭そうらんが待っていた。彼女は最近、様子を見に来てくれることが増えていた。


「霜蘭さん、こんにちは」


「勇姫...」彼女は少し驚いた顔をしていた。「あれほど名前を書く女官がいるとは思わなかったぞ」


「ええ、私も驚いています」


「玄碧の影響力は絶大だ」霜蘭は小さな声で言った。「彼女が反対していることに協力するなど、通常ならあり得ない」


「では、なぜ...?」


「あなたの評判だ」霜蘭はきっぱりと言った。「『神算術の才女』の力を、自分の目で確かめたいのだろう」


その言葉に少し照れくさくなる。


「それほどでも...」


「謙遜することはない」霜蘭は珍しく柔らかな表情で言った。「実績が人を動かすのだ」


私たちが廊下を歩いていると、先ほどの翠雨が小走りで追いかけてきた。


「勇姫様、少しよろしいでしょうか?」


「もちろん」


翠雨は周囲を警戒するように見回し、小声で言った。


「実は...私たちの間でも、勇姫様の方法について話し合っていまして...」


「話し合い?」


「はい」彼女は目を輝かせた。「内務部で小桃様が成功を収めたことは、こちらでも噂になっています。私たちも...できれば同じように...」


霜蘭と私が顔を見合わせる。小桃の評判が紫煙閣にまで届いているとは。


「嬉しいことですね」私は真摯に答えた。「小桃はとても頑張り屋さんなんですよ」


「はい!」翠雨の声には憧れが込められていた。「彼女のような...活躍をしてみたいのです」


これは思わぬ展開だった。小桃が他の女官たちの目標になるとは。


「明日、具体的な実践方法をお教えします」私は約束した。「皆さんと一緒に改革を進められることを楽しみにしています」


翠雨はお辞儀をして去っていった。その背中を見送りながら、霜蘭がつぶやいた。


「変化の波が、紫煙閣にも届き始めたようだな」


◆◆◆


翌日、私は約束通り改革の実践講座を開いた。集まった女官たちは熱心に私の話を聞き、実際に手を動かして新しい文書管理方法を学んでいった。そして、スプシスキル「共有」が活躍した。頭の中のイメージを、他人にもおすそわけ出来る事が発覚したのだ。


「このように分類するだけで、探す時間が大幅に減ります」


「なるほど!色分けするのですね!」


「これなら私にもできそうです!」


女官たちの目が次第に輝いていくのを見て、心が温かくなる。彼女たちは本当は変化を望んでいたのだ。ただ、その方法がわからなかっただけ。


「みなさん、とても上手です」私は心から褒めた。「これを続けていけば、必ず効率は上がりますよ」


そんな私たちの様子を、部屋の隅から青楓せいふう——玄碧の側近の一人が冷ややかに見ていた。彼女は明らかに監視役として送り込まれたのだろう。


私は気にせず続けた。大切なのは、実際に成果を出すこと。たとえ妨害があっても、結果が全てを物語る。


講座が終わり、片付けをしていると、翠雨が再び近づいてきた。


「勇姫様、これは...魔法のようです」


「魔法?」思わず笑みがこぼれる。


「はい」翠雨は目を輝かせた。「こんな簡単なことで、混乱が収まるなんて...」


「魔法ではなく、ただの整理術ですよ」私は謙虚に答えた。「誰にでもできることです」


「でも、誰も思いつかなかった」翠雨は感嘆した。「勇姫様の頭の中の表は、本当にすごいです」


その言葉に複雑な気持ちが湧き上がる。前世では当たり前だったスプシの知識が、この世界では「魔法」とまで言われる。


「頑張ってください」私は彼女の肩を軽く叩いた。「成果が出たら、また教えてね」


◆◆◆


三日後、予想外の出来事が起きた。


「勇姫様!大変です!」


清風院での休憩中、小桃が駆け込んできた。彼女の顔は興奮で紅潮している。


「どうしたの、小桃?」


「紫煙閣の女官たちが、あたしに会いに来たんです!」


「紫煙閣の?」


「はい!」小桃は目を丸くした。「翠雨さんという方と、他の方々が...あたしの分担表について質問したいって!」


驚きのあまり言葉を失う。紫煙閣の女官たちが、小桃に教えを請いに来たというのか。


「何を聞かれたの?」


「分担表の作り方や、伝言管理の方法です」小桃は嬉しそうに続けた。「あたし、勇姫さまから教わったことを全部教えました!」


「そう...」


私の脳内に一つの可能性が浮かんだ。もしかして、女官たちの間で自発的に改革の輪が広がり始めたのでは?


「小桃、素晴らしいわ」私は心から褒めた。「あなたが橋渡し役になったのね」


「えへへ...」小桃はてれくさそうに笑った。「あたし、頑張っただけです」


「いいえ、あなたの功績よ」私はきっぱりと言った。「紫煙閣の女官たちは、私より小桃に親しみを感じたのね」


確かに、私は「神算術の才女」という神秘的な存在だが、小桃は彼女たちと同じ女官。心理的な距離が近いのだろう。


「これからどうしましょう?」小桃が尋ねた。


「このまま見守りましょう」私は答えた。「自発的な動きは、強制より価値があるわ」


◆◆◆


その翌日、紫煙閣を訪れると、思いがけない光景が広がっていた。女官たちが集まり、何やら熱心に図を描いている。近づいてみると...それは私が教えた分類表だった。


「あら...」


私の声に気づいた女官たちが振り向く。翠雨が代表して前に出た。


「勇姫様!」彼女は目を輝かせた。「私たち、自分たちで改良版を作ってみました!」


「改良版?」


「はい!」翠雨は誇らしげに図を広げた。「小桃様の分担表と、勇姫様の分類法を組み合わせたんです」


見れば、確かに私の方法をベースにしながらも、紫煙閣独自の工夫が加えられていた。色分けがより細かく、特に儀式関連の書類に重点を置いた構成だ。


「これは...素晴らしいわ」心からの感嘆を込めて言った。「自分たちで考えたのね」


「はい!」翠雨は他の女官たちと誇らしげに顔を見合わせた。「昨日から試してみたのですが、もう効果が出始めています」


「効果が?」


「書類探しの時間が半分になりました!」別の女官が興奮して言った。「それに、間違いも減って...」


彼女たちの声には、確かな手応えが込められていた。自分たちで考え、実行した改革の成果を実感しているのだ。


「素晴らしい」私は心から言った。「これこそが本当の改革です」


「本当の改革...」翠雨が首を傾げた。


「ええ」私は穏やかに説明した。「私が上から押し付けるのではなく、皆さん自身が考え、改善していく。それが持続可能な変化なのです」


女官たちの目に理解の光が灯る。彼女たちは初めて、自分たちが改革の主役なのだと気づいたようだった。


「でも...」一人の女官が不安そうに言った。「玄碧様が知ったら...」


確かにそれは問題だ。玄碧はまだ改革に賛同していない。


「最初は小規模に始めましょう」私は提案した。「成果が出てから、正式に報告するのです」


「それがいいでしょうね」翠雨が頷いた。「少しずつ...でも確実に」


彼女たちとの話を終え、廊下に出ると、予想外の人物と鉢合わせた。


「なかなか興味深い光景だったな」


低く落ち着いた声の主は、白凌だった。彼はいつの間にか紫煙閣に来ていたようだ。


「白凌さん...」私は少し驚いた。「見ていたんですか?」


「うむ」彼は静かに頷いた。「女官たちが自ら改革に取り組む姿は...新鮮だった」


「ええ...」私も同感だった。「彼女たち自身の力で変わり始めているんです」


「それこそが、真の成功だ」白凌の口元に珍しい微笑みが浮かんだ。「上からの命令ではなく、下からの変革」


「そうですね」


「皇太子殿下にも報告しよう」白凌は真剣な表情になった。「紫煙閣での進展は、殿下も喜ばれるだろう」


「ありがとうございます」


白凌は去り際に、意味深な言葉を残した。


「気をつけるといい。変化の波が大きくなれば、抵抗も強くなる」


◆◆◆


その警告通り、翌日になると状況は一変した。


「勇姫様!大変です!」


翠雨が青ざめた顔で駆け寄ってきた。


「どうしたの?」


「玄碧様が...私たちの改革を知って...激怒されています」彼女の声が震えていた。「青楓様から密告があったようで...」


やはり監視役だったか。


「皆さんは叱られたの?」


「はい...」翠雨は肩を落とした。「『私の許可なく勝手なことをするな』と...」


心が沈む。せっかく芽生えた自主性が摘み取られるのは残念だ。


「そして...」翠雨はさらに続けた。「勇姫様にも、すぐに来るよう命じられています」


玄碧との直接対決の時が来たか。


「わかったわ」私は気持ちを引き締めた。「行きましょう」


玄碧の私室に案内されると、そこには怒りに満ちた彼女の姿があった。美しい顔立ちが、憤怒で歪んでいる。


「勇姫...」彼女の声は氷のように冷たかった。「私の許可なく、女官たちを扇動したか」


「扇動などしていません」私は冷静に答えた。「彼女たちは自ら学びたいと望んだのです」


「黙りなさい!」玄碧の声が鋭く響いた。「あなたは紫煙閣の秩序を破壊している!」


「秩序を破壊するのではなく、改善しているのです」私は動じずに言った。「女官たちの労働時間は減り、効率は上がっています」


「効率?」玄碧は嘲笑うように言った。「伝統と格式が大事なのに、効率など...」


「伝統と効率は両立できます」私はきっぱりと言った。「女官たちが疲弊せず、最高のパフォーマンスを発揮できれば、伝統はより輝きます」


玄碧の目が怪訝な色を浮かべた。彼女は反論を準備していたはずが、その論理に一瞬たじろいだようだった。


「それに...」私は続けた。「紫煙閣こそ、宮中最高の儀式を司る場所。その品格を保つためにも、無駄は省くべきではないでしょうか」


これは彼女の自尊心を利用した論法だった。効率化は品格を下げるのではなく、むしろ高めるのだと。


玄碧はしばらく黙っていたが、やがて冷たく言った。


「あなたの言うことには一理あるかもしれない。しかし...」


彼女は鋭い視線を私に向けた。


「改革するなら、私の指揮下で行うべきだ。勝手な動きは許さない」


これは譲歩の兆しだろうか。完全な拒絶ではなく、主導権を握りたいという意図が見える。


「もちろんです」私は丁寧に頭を下げた。「紫煙閣の主は玄碧様です。私はただのアドバイザーに過ぎません」


玄碧の表情が少し和らいだ。彼女の虚栄心をくすぐることに成功したようだ。


「よろしい」彼女はようやく言った。「明日から、私の監督の下で改革を進めよう」


「ありがとうございます」


「だが...」玄碧の目が再び鋭くなった。「私の許可なく女官たちと接触することは禁ずる。全て私を通すこと」


これは明らかな制限だ。私の影響力を抑えようとしている。


「わかりました」表面上は従うことにした。


玄碧の部屋を出ると、翠雨たちが不安そうな顔で待っていた。


「大丈夫ですか?」翠雨が小声で尋ねた。


「ええ」私はにっこりと笑った。「玄碧様も改革に協力してくださることになりました」


女官たちの表情が明るくなる。


「本当ですか?」


「ただし...」私は声を潜めた。「これからは公式には玄碧様の指示に従って動きましょう」


「公式には...?」翠雨が首を傾げた。


私は意味深に微笑んだ。


「皆さんの間では、引き続き情報共有していいのよ。ただ、目立たないように」


翠雨たちは意味を理解したようで、小さくうなずいた。


「わかりました。私たちの間では、続けます」


◆◆◆


その夜、瑞珂の執務室に報告に行くと、彼は私の話を興味深く聞いていた。


「なるほど...」瑞珂は感心したように言った。「玄碧が妥協したか」


「はい。形式上は彼女の指揮下ですが...」


「実質的には、女官たちの間で自発的な動きが続いている」瑞珂が言葉を継いだ。


「その通りです」


「これは興味深い展開だ」瑞珂は穏やかな笑みを浮かべた。「トップダウンではなく、ボトムアップの改革」


「小桃の活躍も大きいです」私は付け加えた。「彼女が内務女官として成功した例が、他の女官たちの希望になっているようです」


「波紋が広がっているということだな」瑞珂は満足げに頷いた。「そなたの撒いた種が、思いがけない場所で芽を出し始めている」


その表現に、心が温かくなった。確かに、私の改革は単なる制度の変更ではなく、人々の意識を変えることだったのかもしれない。


「瑞珂殿下」私は決意を込めて言った。「これからも続けます」


「うむ」彼は優しく微笑んだ。「そなたの"頭の中の表"が、宮中を変える。それは間違いないだろう」


◆◆◆


翌日から、奇妙な共存状態が始まった。表向きは玄碧の指揮の下で改革が進み、裏では女官たちの自発的なネットワークが広がっていく。


「勇姫様」ある日、翠雨が小声で言った。「私たち、仲間が増えました」


「仲間?」


「はい」彼女は嬉しそうに頷いた。「内務部の方々と交流が始まったんです。小桃様を通じて...」


なるほど。部署の壁を越えた交流が生まれ始めたというわけだ。


「それは素晴らしいわ」


「はい!」翠雨の目が輝いた。「みんな『スプシ』という言葉を使い始めているんです」


「スプシ?」思わず声が上ずる。


「はい、勇姫様の頭の中の表のことです」翠雨は説明した。「小桃様から聞いた言葉なのですが...今や合言葉のようになっています」


信じられない。私が何気なく使った言葉が、宮中の女官たちの間で広まっているなんて。


「そうなんですね...」


「勇姫様」翠雨は真剣な表情になった。「私たちは、あなたの教えを広げていきます。『スプシの力』を使って...」


その言葉に、胸が熱くなった。彼女たちは単に命令に従っているのではない。自分たちの意思で変化を選び、広げようとしているのだ。


「翠雨さん...」私は心からの感謝を込めて言った。「あなたたちが主役です。私はただのきっかけに過ぎません」


「いいえ」彼女はきっぱりと言った。「勇姫様は私たちに目を開かせてくれました。これからも、導いてください」


この時、私は確信した。スプシの本当の力は、効率化だけじゃない。見えないものを可視化し、人々に「変わる勇気」を与えることだったのだ。


他の女官たちにもスプシの考え方が伝播し始め、宮中全体に「見える化」の波が広がっていく。玄碧のような抵抗勢力はまだ存在するが、もはや流れを止めることはできないだろう。


改革は、確実に根づき始めていた。


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