目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第33話

紫煙閣の改革から一ヶ月が過ぎた頃、宮中に新たな風が吹き始めていた。私——勇姫ゆうきの始めた改革は、もはや私の手を離れ、女官たちの間で自然に広がりつつあったのだ。


「勇姫さま!大変です!」


朝の静寂を破り、小桃が駆け込んできた。彼女の表情は興奮と驚きが入り混じっている。


「どうしたの?息を切らして」


霜蘭そうらん様が、宮中中の女官を集めているんです!」


「女官を集めて?」私は眉を寄せた。「何のために?」


「なんでも『重大発表がある』って...」小桃は目を丸くした。「しかも、勇姫さまのスプシのことらしいんです!」


私の胸に不安と期待が交錯する。霜蘭は私の改革に協力的ではあったが、独自の動きをとることは珍しい。


「場所は?」


尚書房しょうしょぼうの大広間です」


「行ってみましょう」


急いで身支度を整え、小桃と共に尚書房へと向かった。廊下を急ぐ間も、様々な憶測が頭をよぎる。霜蘭が何を企んでいるのか、まったく見当がつかなかった。


大広間に着くと、そこには想像以上の人だかりができていた。内務部、庶務部、侍医局じいきょく、さらには紫煙閣からも女官たちが集まっている。部屋の前方には、厳かな面持ちの霜蘭の姿があった。


「勇姫、来たか」


私たちが入室すると、霜蘭が静かに声をかけた。彼女の横には大きな軸物じくものが置かれている。まだ開かれていないそれは、何か重要な文書のようだった。


「皆さんが集まっているけど...何かあったの?」


「うむ」霜蘭は珍しく晴れやかな表情を浮かべた。「今日は重要な日だ。勇姫、前に来なさい」


戸惑いながらも、私は人々の視線を集めつつ前に進み出た。


「皆さん」霜蘭が一同に向かって声を上げた。「ここ数ヶ月、宮中には大きな変化が起きています。勇姫がもたらした『スプシ』という新たな知恵によって...」


会場にざわめきが広がる。「スプシ」という言葉が、今や宮中中に知れ渡っていることに、少し照れくさい気持ちになる。


「この知恵により、多くの部署で業務が効率化され、女官たちの労働時間は減り、ミスも減少しました」霜蘭は続けた。「これは単なる偶然の成功ではありません。体系的な改革の成果なのです」


彼女の言葉に、女官たちが小さく頷き合っている。自分たちの職場環境が実際に改善されたことを実感しているのだろう。


「しかし」霜蘭の声が少し引き締まった。「この改革を永続えいぞく的なものとするには、単なる慣習ではなく、明文化された規範きはんが必要です」


その言葉とともに、霜蘭は横の軸物に手をかけた。


「そこで私は、これを作成しました」


軸物が開かれると、そこには美しい楷書かいしょで書かれた文書が現れた。その冒頭には「後宮業務憲章けんしょう」と記されている。


「後宮業務...憲章?」思わず声に出してしまった。


「そう」霜蘭はきっぱりと言った。「私は、これを後宮の憲法にするつもりだ」


「憲法...」


会場に驚きの声が広がる。憲法とは国の基本法。それを後宮の業務に適用するというのは、前代未聞の発想だ。


「この憲章には」霜蘭は静かに説明を続けた。「業務の透明性、効率性、公平性を保証するための基本原則が記されています。勇姫のスプシの考え方を基にしながら、後宮の伝統とも調和させました」


私は軸を近くで見せてもらった。そこには確かに、私が教えた業務フロー図や文書管理システムの基本原則が、伝統的な言い回しで記されている。だが単なるマニュアルではなく、より普遍的な理念が盛り込まれていた。


「これは...」言葉が出ない。


「勇姫の考えを、私なりに発展させたものだ」霜蘭は少し誇らしげに言った。「業務効率化だけでなく、後宮で働く全ての者の権利と義務を明確にした」


軸をさらに読み進めると、確かにそうだった。業務時間の上限、休息の保証、不当な命令への抗弁こうべん権...これらは現代の労働基準法のような内容だ。


「霜蘭、これは単なる業務改革を超えている」私は驚きを隠せなかった。


「そうだ」霜蘭の目が鋭く光った。「真の改革とは、目に見える変化だけでなく、目に見えない理念りねんを変えることだ」


「でも...」私は周囲の反応が気になった。「これが受け入れられるの?」


「すでに陛下の承認を得た」霜蘭は静かに告げた。


「陛下が!?」思わず声が大きくなる。


「うむ」霜蘭は小さく頷いた。「陛下は改革の成果に満足されており、これを全宮中に広げることを望んでおられる」


驚きを隠せない私の横で、小桃が小さく歓声を上げた。


「すごいです!霜蘭様!」


霜蘭は微笑み、再び一同に向かって声を上げた。


「この憲章は、今日から全ての部署に配布されます。皆さんには、これを学び、実践していただきたい」


女官たちの間に期待と緊張が入り混じった雰囲気が広がる。憲章の内容を早く知りたい様子だ。


「質問がある者は?」霜蘭が問いかけた。


翠雨すいうが恐る恐る手を挙げた。


「これは...玄碧げんぺき様の紫煙閣にも適用されるのですか?」


鋭い質問だ。玄碧は依然として改革に全面的には協力していない。


「すべての部署に適用される」霜蘭はきっぱりと答えた。「陛下のご命令だ」


別の女官が手を挙げた。


「これによって、私たちの仕事はどう変わるのでしょう?」


「基本的な流れは変わりません」霜蘭は丁寧に説明した。「ただ、より透明に、より効率的に、そしてより公正になる。無駄な残業や理不尽な命令は減り、各自の役割が明確になります」


質疑応答が続く中、私は霜蘭の変化に感嘆していた。彼女はかつて伝統を重んじる保守派だったはずだ。それが今や、革新的な改革の旗振り役になっている。


やがて集会が終わり、女官たちが思い思いの感想を語り合いながら散っていく。私と霜蘭だけが残された広間で、ようやく二人きりで話せる時間ができた。


「霜蘭さん...なぜ突然こんなことを?」率直に尋ねた。


霜蘭はしばらく黙って窓の外を見ていたが、やがて静かに口を開いた。


「勇姫、私はかつて改革を試みたことがある」


「ええ、聞いています」


「だが失敗した」彼女の声には珍しく感情が滲んでいた。「なぜか分かるか?」


「なぜでしょう?」


「理念がなかったからだ」霜蘭は真剣な眼差しで私を見た。「単なる効率化では、人の心は動かない。より大きな価値が必要なのだ」


なるほど。霜蘭は私の改革を見て、自分の過去の失敗の原因を理解したのだろう。


「そして、あなたの『スプシ』に、その可能性を見た」彼女は続けた。「単なる表ではない。透明性という価値だ」


「透明性...」


「そう」霜蘭の目が輝いた。「これまでの後宮は、不透明さの上に成り立っていた。誰が何をしているか、なぜそうするのか、全てが曖昧あいまいだった」


確かにその通りだ。伝統や慣習という名の下に、多くの不合理が隠されていた。


「あなたのスプシは、その不透明さを打ち破った」霜蘭は情熱的に言った。「業務を可視化し、誰もが理解できるようにした。それは単なる効率化ではなく、民主化なのだ」


「民主化...」その言葉に、胸が熱くなる。


「だから、私はこの憲章を作った」霜蘭は決意を込めて言った。「あなたの始めた改革を、一時的な流行ではなく、永続的な制度にするために」


「霜蘭さん...」感動で言葉に詰まる。


「感謝するのは私の方だ」霜蘭は柔らかく微笑んだ。「勇姫、あなたは私に希望を取り戻させた」


互いに理解し合った二人は、暖かな沈黙の中に佇んでいた。


◆◆◆


その日の夕方、私は瑞珂の執務室を訪れた。彼はすでに霜蘭の憲章について聞いていたようだ。


「勇姫、驚いたか?」瑞珂が少し面白そうに尋ねた。


「はい、まったく予想していませんでした」正直に答える。「霜蘭さんがあそこまでするとは...」


「彼女は以前から、宮中の改革に情熱を持っていた」瑞珂は穏やかに言った。「だがチャンスがなかったのだ。そなたが、そのきっかけを作った」


「私が...」


「うむ」瑞珂は頷いた。「そなたの改革は、単なる業務の変更ではなく、人々の意識を変えた。それが最も重要な点だ」


「人々の意識...」


「かつての後宮は、権力者の気まぐれに左右される場所だった」瑞珂は少し厳しい表情になった。「それを、理性と透明性によって動く場所に変えようとしている。これは革命と言ってもいい」


「そんな大げさな...」思わず照れ隠しの言葉が出る。


「いや、大げさではない」瑞珂はきっぱりと言った。「父上も同じ考えだ。だからこそ、憲章を承認された」


皇帝陛下までもが、この改革を支持してくださっていると知り、身が引き締まる思いだ。


「ただ、すべての者が喜んでいるわけではない」瑞珂の声が低くなった。


「玄碧様ですか?」


「彼女だけではない」瑞珂は慎重に言葉を選んだ。「宮中の古い秩序から利益を得ていた者たちだ。彼らは透明性を恐れている」


「反発が強まりそうですね...」


「覚悟はできているか?」瑞珂の眼差しが真剣になった。


「はい」私は迷わず答えた。「この改革を止めるつもりはありません」


「そうあってほしい」瑞珂は満足げに頷いた。「私もそなたを支える」


その言葉に、心強さを感じる。一人ではなく、多くの味方がいるのだ。


◆◆◆


翌日、宮中に衝撃が走った。何者かが霜蘭の憲章を盗み、汚損おそんしたのだ。


「勇姫さま!」小桃が悲痛な面持ちで駆け込んできた。「尚書房の憲章が...!」


急いで尚書房に向かうと、そこには怒りと悲しみに満ちた女官たちが集まっていた。壁に掲げられていたはずの憲章は引き裂かれ、赤い墨汁ぼくじゅうのようなものがかけられていた。


「誰がこんなことを...」言葉を失う。


「まだわかりません」霜蘭が厳しい表情で近づいてきた。「夜の間に誰かが忍び込んだようです」


この卑劣な行為に、憤りが込み上げる。だが同時に、これは私たちの改革が確実に誰かの利益を脅かしている証拠でもあった。


「どうしますか?」小桃が不安そうに尋ねた。


「新しいものを作ろう」霜蘭はきっぱりと言った。「そして今度は、すべての部署に一度に配布する」


彼女の決意に、周囲の女官たちが賛同の声を上げた。


「手伝います!」

「私もです!」

「みんなで守りましょう!」


その声を聞きながら、私は確信した。もはや改革は私一人のものではない。多くの人々の希望となり、彼女たち自身の手で守られるものになったのだ。


「みんな...」感動で胸がいっぱいになる。


「勇姫」霜蘭が静かに私の肩に手を置いた。「あなたが蒔いた種は、確実に芽を出している」


「はい...」


「これからは、私たち全員でこの芽を育てる」霜蘭の声には決意が満ちていた。「後宮の憲法として、永遠に残るように」


その言葉に、私は強く頷いた。


社畜だった前世では想像もできなかった展開だ。単なる業務効率化のツールだったスプシが、この世界では人々を解放する理念となり、「憲法」にまで発展したのだから。


「私も全力で協力します」


◆◆◆


その日の夕方、紫煙閣を訪れると、そこでも動揺が広がっていた。玄碧は不機嫌な顔で側近たちを叱責している。


「玄碧様」私は丁寧に挨拶した。「何かありましたか?」


「勇姫...」彼女は冷たい視線を向けた。「陛下から直々に命令があったそうね。『憲章を受け入れよ』と」


ああ、やはり陛下は本気だったのだ。


「これが...あなたの望みだったのですか?」玄碧の声には苦々しさが混じっていた。


「いいえ」私は正直に答えた。「霜蘭さんの考えです。私も驚きました」


「驚いた?」玄碧は半信半疑の表情だった。


「はい。でも、素晴らしい考えだと思います」私は真剣に言った。「これは誰かの権力を奪うためではなく、宮中で働く全ての人のためのものです」


「全ての人のため...」玄碧がつぶやいた。「そんな建前で語るものなのかしら」


「建前ではありません」私はきっぱりと言った。「実際、多くの女官たちの労働環境が改善されています。玄碧様の部下たちも、もっと効率的に、もっと誇りを持って働けるようになるでしょう」


玄碧は少し考え込む様子だった。


「憲章には、紫煙閣の伝統と儀式を尊重する条項もあります」私は付け加えた。「これは破壊ではなく、進化なのです」


「進化...」玄碧はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。「わかったわ。陛下の命令なら、従うしかないでしょう」


それは表面上の譲歩に過ぎないかもしれない。だが、少なくとも公然たる反対はしないという意思表示だった。


「ありがとうございます」私は誠実に答えた。「きっと良い変化になると思います」


玄碧は何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。


◆◆◆


数日後、新たな憲章が完成し、今度は一斉に全部署へと配布された。その日、宮中は祝賀ムードに包まれていた。


「勇姫様!見てください!」小桃が興奮して駆け寄ってきた。「内務部の皆も、独自の実施細則を作りました!」


彼女が見せてくれたのは、憲章の理念に基づいた、より具体的な業務ガイドラインだった。内務女官たちが自主的に作ったものだという。


「素晴らしいわ、小桃」心からの称賛を込めて言った。「皆さんの主体性が芽生えているのね」


「はい!」小桃は誇らしげに胸を張った。「みんな『自分たちの職場は自分たちで良くする』って言ってます!」


その言葉に、胸が熱くなる。これこそが真の成功だ。押し付けではなく、自発的な変革。


「勇姫」


背後から呼ばれて振り返ると、霜蘭が立っていた。彼女の顔には、穏やかな満足感が浮かんでいる。


「霜蘭さん」


「ついに実現したな」彼女は少し感慨深げに言った。「私が長年夢見てきた改革が」


「あなたの情熱があってこそです」私は心から言った。


「いや」霜蘭は首を振った。「あなたのスプシがなければ、この変化は起きなかった」


二人は穏やかな沈黙の中に佇んでいたが、やがて霜蘭が不思議そうに尋ねた。


「勇姫、私はずっと気になっていたのだが...」


「何でしょう?」


「あなたのスプシとは、一体どこから来たのだ?」彼女の目は純粋な好奇心に満ちていた。「生まれつきの才能なのか、それとも...」


その質問に、一瞬言葉に詰まる。前世の記憶は、この世界では説明しづらい。


「それは...」言葉を選びながら答えた。「私の中にずっとあったものです。ただ、この宮中に来て、それが必要とされる場所を見つけただけ」


霜蘭はしばらく私の顔を見つめ、やがて小さく頷いた。


「そうか...」彼女の目には理解の色が浮かんでいた。「運命というものがあるのかもしれないな」


「運命...」


「あなたがこの宮中に来たことが、私たちにとっての転機だった」霜蘭は静かに言った。「これからも、共に進もう」


「はい!」


私たちの会話を聞いていた小桃が、突然嬉しそうに声を上げた。


「まるで...革命かくめいみたいですね!」


霜蘭と私は顔を見合わせ、思わず笑みがこぼれた。


「革命か...」霜蘭がつぶやいた。「確かに、そう呼んでもいいかもしれないな」


「スプシ革命...」私も思わず口にした。


三人の笑い声が、春の陽光に包まれた宮中に響いた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?