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第45話

今日も一日が終わる。


夜の帳が宮中に降り、蝋燭の光だけが廊下を照らす頃合い。私——勇姫ゆうきは透明院の執務室で最後の書類に目を通していた。


「ふぅ…これで今日の分は終わり」


山のような報告書を片付け、疲れた肩をゆっくりと回す。瑞珂ずいか陛下の即位から一ヶ月が過ぎ、透明院の活動も軌道に乗り始めていた。日々の忙しさに追われながらも、確かな成果が見え始めている。


「勇姫様、まだご在室でしたか」


振り返ると、侍従の翠雨すいうが扉から顔を覗かせていた。かつての紫煙閣の女官だった彼女は、透明院の発足と共に私たちのチームに加わった一人だ。


「ええ、ちょっと書類の確認が長引いてね」


「陛下からのお呼びです」翠雨が小声で言った。「御花苑でお待ちとのこと」


「御花苑?」思わず声が上ずる。「こんな時間に?」


「はい」翠雨の目が少し輝いた。「"月見つきみの宴"をお一人で、とおっしゃってました」


月見の宴。それは二人きりの時間を意味する暗号のような言葉だった。瑞珂陛下と私の間で使われる、ごく限られた人だけが知る合言葉。


「わかりました」私は立ち上がり、急いで身だしなみを整えた。「案内してくれる?」


「もちろんです」


翠雨に導かれ、宮殿の裏手にある御花苑ごかえんへと向かった。日中は多くの女官や官僚が行き交う場所だが、夜ともなれば人影はなく、静寂が支配している。


「ここからは私一人で大丈夫よ」入口で翠雨に告げた。「ありがとう」


「お気をつけて」彼女は会心の笑みを浮かべながら立ち去った。


深呼吸をして、私は庭園へと足を踏み入れた。


◆◆◆


御花苑ごかえんは宮中でも特に美しい場所の一つだ。昼間は色とりどりの花々が咲き誇るが、夜はまた違った魅力がある。月明かりに照らされた花々は神秘的な銀色に輝き、睡蓮すいれんが浮かぶ池からは微かな水音が聞こえる。


「どこにいらっしゃるのかしら…」


小道を進んでいくと、池のほとりに設けられた東屋あずまやが見えてきた。そこに佇む人影を認め、私の足取りは自然と速くなる。


「陛下」


東屋に近づくと、瑞珂陛下が振り返った。普段の皇帝の装いではなく、簡素な夜着姿だ。それでも、その姿には確かな威厳が漂っている。


「勇姫、来てくれたか」


彼の声は優しく、疲れた顔に微笑みが浮かんだ。


「お呼びですので」私も笑顔で答えた。「こんな夜更けに、何かあったのですか?」


「特別なことではない」瑞珂陛下は隣に座るよう手招きした。「ただ、少し息抜きがしたくてな」


私は彼の隣に腰掛け、共に池に映る月を眺めた。秋の夜風が心地よく頬を撫でる。


「陛下も毎日お忙しそうですね」自然と言葉が出た。


「うむ」彼は小さく笑った。「即位してみて、父上の大変さがようやく分かってきた」


「皆さん、陛下の采配に満足されているようですよ」私は励ますように言った。「特に透明院の設立は高く評価されています」


「それはそなたの手柄だ」彼の声には感謝が込められていた。「私は単に承認しただけだ」


「いいえ」私は首を振った。「陛下の決断があったからこそです。皆、陛下の器の大きさを讃えていますよ」


「器か…」瑞珂陛下は空を見上げた。「まだまだ、父上には遠く及ばないが…」


しばらくの間、私たちは静かに月を眺めていた。言葉を交わさずとも、心地よい時間が流れる。


「勇姫」


不意に瑞珂陛下が口を開いた。その声には、普段聞かない感情が滲んでいる。


「はい?」


「そなたは…これからどうするつもりだ?」


意外な質問に、私は少し戸惑った。


「どうするつもりとは?」


「透明院の仕事が軌道に乗ったら」彼は静かに言った。「そなたの目標は達成されるわけだが…その先は?」


その問いに、私は考え込んだ。確かに、改革という当初の目的はかなりの部分で実現しつつある。だが、その先のことは…


「正直、考えていませんでした」正直に答えた。「目の前のことで精一杯で…」


瑞珂陛下はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと私の方を向いた。


「勇姫」彼の声が低く、真剣になる。「私には夢がある」


「夢…ですか?」


「うむ」彼は静かに頷いた。「この国を、もっと平和で、もっと公正な場所にしたい。宮中だけでなく、民の暮らしも豊かにしたい」


その言葉に、心が温かくなる。これが瑞珂陛下の本心なのだ。権力のためではなく、民のために統治したいという純粋な願い。


「素晴らしい夢です」私は心から言った。


「だが、それには力が必要だ」彼は続けた。「知恵と勇気と…そして信頼できる仲間が」


彼の視線が私に注がれる。その瞳には、言葉以上の思いが込められていた。


「勇姫」瑞珂陛下は真剣に言った。「そなたの力を貸してほしい。宮中だけでなく、国全体の改革に」


「陛下…」


「そなたのスプシの力があれば、もっと多くのことが変えられる」彼の声には熱が籠もっていた。「共に、この国の未来を創れないだろうか」


その言葉に、私は言葉を失った。前世では考えられなかったほどの大きな期待と信頼。それは重圧でもあるが、同時に心躍る挑戦でもある。


「私にそんな力があるでしょうか…」不安を隠せずに言った。


「ある」瑞珂陛下はきっぱりと言った。「そなたは既に証明している。宮中という頑固な場所を変えたのだから、国も変えられる」


彼の確信に満ちた目を見ていると、勇気が湧いてくる。私のスプシが、本当にこの世界の役に立っているのだ。


「わかりました」私は決意を込めて答えた。「力の限り、お手伝いします」


「ありがとう」瑞珂陛下の表情が明るくなった。「それを聞いて安心した」


しかし、彼の表情にはまだ何か言い残したことがあるような色が浮かんでいる。


「陛下?まだ何か…」


「実は」彼は少し言葉に詰まるような素振りを見せた。「これは皇帝としてではなく、一人の男としての願いでもある」


「男として…?」


「勇姫」彼はまっすぐに私の目を見つめた。「君の未来を共に見たい」


その一言に、私の心臓が大きく跳ねた。瑞珂陛下が「君」と呼んだのは初めてだ。そして、その言葉の持つ意味は…


「それは…」言葉が喉に詰まる。


「紛らわしい言い方をしてすまない」彼は少し照れたように微笑んだ。「皇帝として言えば、永く補佐官として仕えてほしい。だが…」


彼は一度深く息を吸い、続けた。


「瑞珂として言えば、勇姫を傍に置きたい。単なる臣下としてではなく…伴侶として」


「伴侶…」


思わず言葉が漏れる。まさか、そんな言葉が皇帝の口から出るとは。


「突然で驚かせたね」彼は優しく言った。「すぐに答えを求めるつもりはない。ただ…」


「陛下」私は震える声で言った。「私のような平民出身の女官が…」


「身分など関係ない」彼はきっぱりと言った。「父上も母上も喜ぶだろう。そなたのような聡明で勇気ある人を」


月の光が彼の横顔を照らし、その表情は真剣そのものだった。冗談でもなければ、一時の気まぐれでもない。彼の本心だ。


「でも、宮中の皆さんは…」


「新しい時代を創るのだ」瑞珂陛下…いや、瑞珂は静かに言った。「古い因習に縛られる必要はない」


私の頭の中は混乱していた。前世では恋愛すら縁のなかった私が、異世界で皇帝からの求婚を受けるなんて。あまりにも突然の展開に、現実感がない。


「考える時間をください」やっとの思いで言葉にした。


「もちろん」彼は優しく微笑んだ。「急かすつもりはない。ただ…」


彼はそっと私の手に触れた。その温もりが、夜風の冷たさを吹き飛ばす。


「いつか、肯定的な返事をもらえることを願っている」


「瑞珂殿下…」思わず彼の名を呼んでしまった。


彼の顔が少し近づいてくる。その瞬間、私の心臓は早鐘を打ち始めた。距離が縮まっていく…


「陛下!」


突然の声に、私たちは慌てて距離を取った。振り返ると、白凌びゃくりょうが庭園の入口に立っていた。


「白凌か」瑞珂の声は少し苛立ちを含んでいた。「何事だ?」


「申し訳ありません」白凌は深々と頭を下げた。「急ぎの報告がございまして」


「わかった」瑞珂は静かに立ち上がった。「勇姫、すまない。少し席を外すよ」


「はい、どうぞ」


私は頬の熱さを感じながら頷いた。瑞珂は一度だけ振り返り、微笑んでから白凌と共に歩き去った。


残された私は、さっきまでの出来事が夢ではないかと思うほど、心が高鳴っていた。


「伴侶…か」


月に向かって呟く。前世では考えられなかった展開だ。平凡な社畜だった私が、異世界の皇帝から愛を告げられるなんて。


ふと、瑞珂の言葉が頭によみがえる。

『君の未来を共に見たい』


その言葉の温かさに、私は自分の胸の内を見つめ始めた。


◆◆◆


しばらくして、足音が近づいてきた。振り返ると、瑞珂が戻ってきたところだった。


「お待たせした」彼は少し慌ただしく言った。「北部の情報だった」


「何かあったのですか?」


「うむ、少し国境付近で騒動があったようだ」彼は再び私の隣に座った。「白凌が対応してくれる」


「そうですか…」


気まずい沈黙が流れる。先ほどの続きをどう切り出せばいいのか、互いに迷っているようだった。


「勇姫」


「陛下」


二人の声が重なった。思わず目が合い、くすりと笑いがこぼれる。


「そなたから」瑞珂が優しく言った。


「いえ…」私は頭を振った。「ただ、香炉廊の話の続きを…」


「うむ」彼は静かに頷いた。「突然だったね。驚かせてしまったようで申し訳ない」


「いいえ」私は小さく微笑んだ。「嬉しかったです」


「本当か?」瑞珂の顔が明るくなる。


「はい」正直な気持ちを伝えた。「覚悟は出来たのですが、私にふさわしいかどうか…」


「ふさわしさなど関係ない」彼はきっぱりと言った。「お互いが選んだのだ。それでいい」


彼の確信に満ちた言葉に、私の心は揺れた。社畜時代、誰からも必要とされなかった私が、この世界ではこんなにも大切にされている。その違いに、胸が熱くなる。


「ありがとうございます」思わず涙ぐんでしまった。


「なぜ泣く?」瑞珂は心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「いえ…」私は涙を拭った。「ふふ、幸せすぎて…」


「勇姫」彼は優しく私の手を取った。「私もだ。そなたと出会えて、本当に幸せだ」


月の光の下、二人の指が絡み合う。瑞珂の手は温かく、力強かった。


「私を選んだ理由を…教えてください」私は恥ずかしながらも尋ねた。


瑞珂は少し考え、やがて静かに答えた。


「最初は、そなたの力に惹かれた」彼は正直に言った。「スプシという不思議な能力、宮中を変える決意。それらに感銘を受けた」


「最初は?」


「うむ」彼は微笑んだ。「だが、共に過ごすうちに…そなたという人間そのものを見るようになった」


「私という人間…」


「勇姫の優しさ、強さ、時々見せる弱さ…すべてが愛おしくなった」彼の声は静かだが力強かった。「そなたがいると、私はより良い皇帝になれる。より良い人間になれる」


その言葉に、胸がいっぱいになる。


「私も…」言葉を絞り出す。「瑞珂殿下といると、自分の存在意義を感じます。前世…いえ、以前は誰からも必要とされなかったのに」


「そうだったのか」瑞珂は驚いたように言った。「そんなことがあるなんて信じられないが…」


「本当なんです」少し笑いながら言った。「だから、こんなに大切にされると、夢みたいで…」


「夢ではない」彼は真剣に言った。「これは現実だ。そして…」


彼はゆっくりと私に近づき、そっと額に唇を寄せた。かすかな温もりが額に伝わる。


「香炉廊で伝えた通り、これからも、共にいてほしい」


それは命令でも懇願でもなく、純粋な願いだった。


「はい」私は小さく頷いた。「これからも、そばにいます」


「ありがとう」彼の表情に優しい笑みが広がる。「共に、未来を見ていこう」


その夜、月光の下で交わした約束。それは前世では想像もできなかった奇跡の始まりだった。


「共に歩む未来」


私たちはもう一度、池に映る月を見つめた。そこに映るのは、二人の姿。これからの人生を共に歩む、皇帝と書記官——いや、一人の男と一人の女の姿だった。


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