「皇后様、これでよろしいでしょうか?」
「うーん、もう少し色分けをはっきりさせたほうがいいわね」
私——今や皇后となった
「は、はい!」女官は熱心に頷きながらメモを取る。「赤は緊急事項、青は定期業務、緑は…」
「そう、その通り」私は微笑んだ。「色で直感的に理解できるのが大事なの」
彼女は真剣な表情で私の言葉を受け止めている。この光景を見ていると、不思議な感慨に襲われる。前世では「スプシおばさん」と陰で呼ばれていた私が、ここでは崇拝の対象になっているのだから。
「皇后様!」
勢いよく扉が開き、小桃が飛び込んできた。相変わらずの元気ぶりだ。
「小桃、走るのは控えなさい」思わず苦笑する。「宮中を走り回ると、他の妃たちに怒られるわよ」
「だって大変なんです!」小桃は目を丸くして言った。「霜蘭様と翠雨様が
「またなの?」思わず頭を抱えてしまう。「どこで?」
「東の回廊です!」
「わかった、行ってみる」
女官たちに指示を出してから、小桃と共に東の回廊へと急いだ。廊下を歩きながら、小桃がくすくす笑っている。
「何がおかしいの?」
「いえね」小桃はまるで子供のように目を輝かせた。「皇后様のスプシをめぐって、宮中中が大騒ぎになるなんて、面白いなって」
確かに、ちょっと滑稽かもしれない。一介の書記だった私の発明が、今や宮中を動かす根幹になっているのだから。
「あら、あれが噂の『見える後宮マニュアル』ですか?」
振り返ると、
「ええ、まだ完成品ではないけれど」私は微笑んだ。「よかったら一緒に来て、ご意見をいただけると嬉しいわ」
「まあ、光栄ですわ」蓮華は上品に微笑んだ。「皇后様の神秘の術を間近で見られるなんて」
「神秘の術なんかじゃないのよ」思わず苦笑する。「ただの整理術よ」
「でも皆、そう呼んでますよ」小桃が嬉しそうに付け加えた。「『皇后様の
宮中では、私のスプシが「神算術」と呼ばれるようになっていた。何度「ただの表よ」と説明しても、人々にとっては神秘的な技術に映るようだ。
◆◆◆
東の回廊に到着すると、案の定、霜蘭と翠雨が熱心に言い合っていた。二人の間には大きな図表が広げられ、周りには困惑した女官たちが立ち尽くしている。
「色分けは原則を崩すべきではない!」霜蘭が厳しい表情で言い放つ。
「でも特殊例が多すぎて、現場が混乱します!」翠雨も負けじと反論する。
「二人とも、落ち着いて」私は静かに声をかけた。
「皇后様!」二人が同時に振り向く。
「どんな問題があるの?」私は図表に近づいた。
「宮中マニュアルの後宮儀式セクションについてです」霜蘭が説明を始めた。「原則では儀式は紫色で統一することになっていますが…」
「現場では儀式の種類によって準備が全然違うんです!」翠雨が熱心に言った。「だから種類ごとに色分けしたいんです!」
なるほど。理論と実践の衝突だ。霜蘭は体系の美しさを重視し、翠雨は実用性を優先している。
「両方の意見、わかります」私は穏やかに言った。「ここは折衷案はどうかしら?基本色は紫で統一して、縁取りや記号で種類を区別する」
二人は顔を見合わせ、考え込む様子。
「それなら」霜蘭が慎重に言った。「体系の一貫性は保たれる」
「現場の区別もつきやすくなりますね」翠雨も頷いた。
「そこよ」私は笑顔で言った。「スプシの本質は、誰にでもわかりやすくすること。美しさも実用性も両方大事なの」
二人はやっと納得した表情になった。周りで見ていた女官たちからは安堵のため息が漏れる。
「さすが皇后様」蓮華が感心したように言った。「一言で解決されるなんて」
「いえいえ」私は照れくさそうに手を振った。「二人とも正しいことを言っていましたから」
「皇后様!」
また新たな声。振り返ると、白凌が静かに近づいてきた。
「白凌さん、どうしたの?」
「陛下がお呼びです」彼は丁重に頭を下げた。「宮務マニュアルの件で」
◆◆◆
瑞珂陛下の執務室に案内されると、そこには思いがけない光景が広がっていた。大きな机の上には、私が作った様々なスプシが広げられ、周りには大臣や官僚たちが集まっている。瑞珂陛下は中央で何かを説明しているようだった。
「あ、勇姫」瑞珂陛下が気づいて振り向いた。「来てくれたか」
「はい」私は恭しく礼をした。「お呼びと伺いまして」
「ちょうど良かった」彼は嬉しそうに言った。「皆に説明していたところだ」
「何をですか?」
「『
私は驚いて、机に広げられた文書に目を落とした。そこには見覚えのある図表と、それを基にした法律の条文が記されている。
「これは…私のスプシ…?」
「ああ」瑞珂陛下は満足げに頷いた。「そなたの『見える帳』を基に、宮中運営の基本法を作成しているところだ」
驚きで言葉を失う。私が実用的な目的で作ったスプシが、国の法律になろうとしているなんて。
「この法律が制定されれば」宰相が厳かに言った。「今後の皇帝や官僚が交代しても、透明性の高い宮中運営が保証されます」
「まさに『未来へ残す制度』となるな」瑞珂陛下は私を見て微笑んだ。「そなたの改革が、永く続くということだ」
胸がいっぱいになる思いだった。前世ではせいぜい自分の部署の業務改善が関の山だったのに、ここでは国の根幹を変えるほどのインパクトがある。
「皇后」一人の大臣が恭しく言った。「一つ質問があります」
「はい、どうぞ」
「この『見える後宮マニュアル』は、素晴らしい制度です。しかし、これを維持・更新していくには、あなたのような才能が必要なのでは?」
鋭い質問だ。確かに、システムの構築は私がやってきたが、これを将来にわたって維持するためには…
「ご心配には及びません」私は自信を持って答えた。「このシステムは、私がいなくても運用できるように設計してあります」
「どういうことだ?」別の大臣が尋ねた。
「見える後宮マニュアルには、『更新の仕方』も記載されています」私は説明した。「毎月どの部分を見直し、誰が確認し、どう修正するか…全てが明文化されています」
「なるほど」宰相が感心したように頷いた。「自己更新する仕組みを内包しているわけですね」
「はい」私は嬉しく思った。「まさにそれが、私の目指したことです」
瑞珂陛下が私の方を見て、誇らしげに微笑んだ。
「それでは、この基本法の草案について、皇后の意見も取り入れたい」彼は宣言した。「宮中最大の改革者として、そなたの知恵が必要だ」
「光栄です」私は深々と頭を下げた。
◆◆◆
その日から一週間、私は瑞珂陛下と共に宮中統治基本法の草案作りに没頭した。スプシの要素を取り入れながらも、誰にでも分かりやすい言葉で法文を整えていく。
「これで最後の条文も完成ね」
深夜の執務室で、私はようやく筆を置いた。瑞珂陛下も満足げに頷いている。
「よく頑張ったな」彼は優しく私の肩に手を置いた。「これで本当に、そなたの改革が制度として残る」
「ええ」私は感慨深く言った。「でも、これは私一人の力ではありません。皆さんの協力があったからこそ」
「謙虚だな」瑞珂陛下は微笑んだ。「だが、始まりはそなただ。スプシという概念がなければ、ここまで来られなかった」
窓から見える月を眺めながら、私は思わずため息をついた。
「どうした?」瑞珂陛下が心配そうに尋ねた。
「いえ…」私は少し恥ずかしそうに言った。「前世…いえ、以前の私からは想像もできない展開で…」
「前世?」彼の目が好奇心に輝いた。「そなたはよくそんな言葉を使うな」
「あ…」思わず口を滑らせてしまった。「ただの言い間違いです」
瑞珂陛下はしばらく私を見つめ、やがて静かに言った。
「勇姫、私にはすべて話してもいいんだよ」
その優しい言葉に、胸が熱くなった。この人となら、本当のことを話しても…いや、いつか機会があれば。
「ありがとう」私は微笑んだ。「でも今は、この法律の完成を喜びましょう」
「そうだな」彼も微笑み返した。「明日は、
◆◆◆
翌日の朝、
「ここに、『宮中統治基本法』を公布する」
瑞珂陛下の力強い宣言と共に、大臣が巻物を広げた。その内容が一言一句、読み上げられていく。
「第一条、宮中のすべての業務は『見える帳』に記録され、定期的に公開されるものとする…」
「第七条、いかなる決定も、責任者と理由が明記され、透明性を保つものとする…」
「第十三条、『見える帳』の管理と更新のために、透明院を常設機関として設置する…」
法律の朗読が続く間、私は感慨深い思いに浸っていた。スプシを使った単なる業務改善のつもりが、一国の基本法にまで発展するなんて。前世では想像もできなかった展開だ。
「これより、この法は宮中の全てに適用される」瑞珂陛下の宣言に、広間から大きな拍手が沸き起こった。
儀式の後、幾人もの高官や貴族が私に祝福の言葉をかけてくれた。
「皇后様の知恵が国を変えました」
「見える帳の恩恵を、私たちも日々実感しております」
「これぞ真の改革です」
その中で最も心に残ったのは、
「私は三十年以上宮中で働いてきましたが」彼女は目に涙を浮かべながら言った。「こんなに働きやすくなったのは初めてです。若い女官たちが夢を持って働ける宮中になりました」
彼女の言葉に、胸が熱くなった。スプシが単なる効率化ツールではなく、人々の生活を本当に良くしているのだ。
◆◆◆
公布の儀式から数日後、私は透明院で最後の指導をしていた。「見える後宮マニュアル」が正式に制度化された今、その運用方法を伝える必要がある。
「これで説明は以上です」
広間に集まった女官たちに向かって、私は締めの言葉を述べた。
「あとは皆さんの手で、この制度を育ててください」
「はい!」一同が力強く応えた。
「最後に一つ」私は満面の笑みで言った。「この『見える帳』は完璧ではありません。時代と共に変わっていくべきものです。だから、どんどん改善してください」
「改善…ですか?」一人の若い女官が驚いたように尋ねた。
「ええ」私は頷いた。「制度は生き物です。固定化せず、より良いものに進化させていくのが大切なの」
「でも、皇后様の作られたものを…」
「私の作ったものだからこそ」私はきっぱりと言った。「もっと良くしてほしいのです。それが本当の意味での『未来へ残す』ということよ」
女官たちは驚きながらも、次第に納得した表情になっていった。
「皇后様」霜蘭が静かに前に出た。「ご安心ください。私たちが責任を持って、この制度を守り、育てます」
「ありがとう、霜蘭」私は心からの感謝を込めて言った。
「あたしも頑張ります!」小桃が元気よく手を挙げた。「勇姫さま…じゃなかった、皇后様の教えを忘れません!」
「私も」白凌が静かに頷いた。「見える帳の精神を継承する」
三人の誓いに、胸がいっぱいになる。彼らがいれば、私のスプシは安泰だ。
「これで本当に、私の役目は終わったわね」私は満足げに言った。
「いいえ」翠雨が静かに言った。「皇后様の役目は、これからも続きます。私たちの指針として」
その言葉に、思わず目頭が熱くなった。前世では誰にも認められなかった私のスキルが、異世界では人々の希望になっている。それは何物にも代えがたい喜びだった。
「ありがとう、皆」私は笑顔で言った。「これからも共に、より良い宮中を作っていきましょう」
その日、「見える後宮マニュアル」は正式に宮中の制度として根付いた。私のスプシは、未来へと続く道を得たのだ。