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第47話

「皇后様、これでよろしいでしょうか?」


透明院とうめいいんの大広間で、若い女官が恐る恐る声をかけてきた。目の前には、巨大な机の上に広げられた何十枚もの図解や説明書。今や宮中で「見える帳みえるちょう」と呼ばれる私のスプシの集大成だ。


「うーん、もう少し色分けをはっきりさせたほうがいいわね」


私——今や皇后となった勇姫ゆうきは、指先で図の一部を指し示した。透明院設立から半年、瑞珂陛下との結婚から三ヶ月が過ぎ、私のスプシは「宮中マニュアル」として形を整えつつあった。


「は、はい!」女官は熱心に頷きながらメモを取る。「赤は緊急事項、青は定期業務、緑は…」


「そう、その通り」私は微笑んだ。「色で直感的に理解できるのが大事なの」


彼女は真剣な表情で私の言葉を受け止めている。この光景を見ていると、不思議な感慨に襲われる。前世では「スプシおばさん」と陰で呼ばれていた私が、ここでは崇拝の対象になっているのだから。


「皇后様!」


勢いよく扉が開き、小桃が飛び込んできた。相変わらずの元気ぶりだ。


「小桃、走るのは控えなさい」思わず苦笑する。「宮中を走り回ると、他の妃たちに怒られるわよ」


「だって大変なんです!」小桃は目を丸くして言った。「霜蘭様と翠雨様が見える帳みえるちょうのフォーマットのことで大げんかしてるんです!」


「またなの?」思わず頭を抱えてしまう。「どこで?」


「東の回廊です!」


「わかった、行ってみる」


女官たちに指示を出してから、小桃と共に東の回廊へと急いだ。廊下を歩きながら、小桃がくすくす笑っている。


「何がおかしいの?」


「いえね」小桃はまるで子供のように目を輝かせた。「皇后様のスプシをめぐって、宮中中が大騒ぎになるなんて、面白いなって」


確かに、ちょっと滑稽かもしれない。一介の書記だった私の発明が、今や宮中を動かす根幹になっているのだから。


「あら、あれが噂の『見える後宮マニュアル』ですか?」


振り返ると、側妃そくひの一人、蓮華れんかが立っていた。彼女は瑞珂陛下の旧側妃だが、私が皇后になった今も友好的な関係を保っている数少ない人物の一人だ。


「ええ、まだ完成品ではないけれど」私は微笑んだ。「よかったら一緒に来て、ご意見をいただけると嬉しいわ」


「まあ、光栄ですわ」蓮華は上品に微笑んだ。「皇后様の神秘の術を間近で見られるなんて」


「神秘の術なんかじゃないのよ」思わず苦笑する。「ただの整理術よ」


「でも皆、そう呼んでますよ」小桃が嬉しそうに付け加えた。「『皇后様の神算術しんさんじゅつ』って!」


宮中では、私のスプシが「神算術」と呼ばれるようになっていた。何度「ただの表よ」と説明しても、人々にとっては神秘的な技術に映るようだ。


◆◆◆


東の回廊に到着すると、案の定、霜蘭と翠雨が熱心に言い合っていた。二人の間には大きな図表が広げられ、周りには困惑した女官たちが立ち尽くしている。


「色分けは原則を崩すべきではない!」霜蘭が厳しい表情で言い放つ。


「でも特殊例が多すぎて、現場が混乱します!」翠雨も負けじと反論する。


「二人とも、落ち着いて」私は静かに声をかけた。


「皇后様!」二人が同時に振り向く。


「どんな問題があるの?」私は図表に近づいた。


「宮中マニュアルの後宮儀式セクションについてです」霜蘭が説明を始めた。「原則では儀式は紫色で統一することになっていますが…」


「現場では儀式の種類によって準備が全然違うんです!」翠雨が熱心に言った。「だから種類ごとに色分けしたいんです!」


なるほど。理論と実践の衝突だ。霜蘭は体系の美しさを重視し、翠雨は実用性を優先している。


「両方の意見、わかります」私は穏やかに言った。「ここは折衷案はどうかしら?基本色は紫で統一して、縁取りや記号で種類を区別する」


二人は顔を見合わせ、考え込む様子。


「それなら」霜蘭が慎重に言った。「体系の一貫性は保たれる」


「現場の区別もつきやすくなりますね」翠雨も頷いた。


「そこよ」私は笑顔で言った。「スプシの本質は、誰にでもわかりやすくすること。美しさも実用性も両方大事なの」


二人はやっと納得した表情になった。周りで見ていた女官たちからは安堵のため息が漏れる。


「さすが皇后様」蓮華が感心したように言った。「一言で解決されるなんて」


「いえいえ」私は照れくさそうに手を振った。「二人とも正しいことを言っていましたから」


「皇后様!」


また新たな声。振り返ると、白凌が静かに近づいてきた。


「白凌さん、どうしたの?」


「陛下がお呼びです」彼は丁重に頭を下げた。「宮務マニュアルの件で」


◆◆◆


瑞珂陛下の執務室に案内されると、そこには思いがけない光景が広がっていた。大きな机の上には、私が作った様々なスプシが広げられ、周りには大臣や官僚たちが集まっている。瑞珂陛下は中央で何かを説明しているようだった。


「あ、勇姫」瑞珂陛下が気づいて振り向いた。「来てくれたか」


「はい」私は恭しく礼をした。「お呼びと伺いまして」


「ちょうど良かった」彼は嬉しそうに言った。「皆に説明していたところだ」


「何をですか?」


「『宮中統治基本法きゅうちゅうとうちきほんほう』の草案だ」


私は驚いて、机に広げられた文書に目を落とした。そこには見覚えのある図表と、それを基にした法律の条文が記されている。


「これは…私のスプシ…?」


「ああ」瑞珂陛下は満足げに頷いた。「そなたの『見える帳』を基に、宮中運営の基本法を作成しているところだ」


驚きで言葉を失う。私が実用的な目的で作ったスプシが、国の法律になろうとしているなんて。


「この法律が制定されれば」宰相が厳かに言った。「今後の皇帝や官僚が交代しても、透明性の高い宮中運営が保証されます」


「まさに『未来へ残す制度』となるな」瑞珂陛下は私を見て微笑んだ。「そなたの改革が、永く続くということだ」


胸がいっぱいになる思いだった。前世ではせいぜい自分の部署の業務改善が関の山だったのに、ここでは国の根幹を変えるほどのインパクトがある。


「皇后」一人の大臣が恭しく言った。「一つ質問があります」


「はい、どうぞ」


「この『見える後宮マニュアル』は、素晴らしい制度です。しかし、これを維持・更新していくには、あなたのような才能が必要なのでは?」


鋭い質問だ。確かに、システムの構築は私がやってきたが、これを将来にわたって維持するためには…


「ご心配には及びません」私は自信を持って答えた。「このシステムは、私がいなくても運用できるように設計してあります」


「どういうことだ?」別の大臣が尋ねた。


「見える後宮マニュアルには、『更新の仕方』も記載されています」私は説明した。「毎月どの部分を見直し、誰が確認し、どう修正するか…全てが明文化されています」


「なるほど」宰相が感心したように頷いた。「自己更新する仕組みを内包しているわけですね」


「はい」私は嬉しく思った。「まさにそれが、私の目指したことです」


瑞珂陛下が私の方を見て、誇らしげに微笑んだ。


「それでは、この基本法の草案について、皇后の意見も取り入れたい」彼は宣言した。「宮中最大の改革者として、そなたの知恵が必要だ」


「光栄です」私は深々と頭を下げた。


◆◆◆


その日から一週間、私は瑞珂陛下と共に宮中統治基本法の草案作りに没頭した。スプシの要素を取り入れながらも、誰にでも分かりやすい言葉で法文を整えていく。


「これで最後の条文も完成ね」


深夜の執務室で、私はようやく筆を置いた。瑞珂陛下も満足げに頷いている。


「よく頑張ったな」彼は優しく私の肩に手を置いた。「これで本当に、そなたの改革が制度として残る」


「ええ」私は感慨深く言った。「でも、これは私一人の力ではありません。皆さんの協力があったからこそ」


「謙虚だな」瑞珂陛下は微笑んだ。「だが、始まりはそなただ。スプシという概念がなければ、ここまで来られなかった」


窓から見える月を眺めながら、私は思わずため息をついた。


「どうした?」瑞珂陛下が心配そうに尋ねた。


「いえ…」私は少し恥ずかしそうに言った。「前世…いえ、以前の私からは想像もできない展開で…」


「前世?」彼の目が好奇心に輝いた。「そなたはよくそんな言葉を使うな」


「あ…」思わず口を滑らせてしまった。「ただの言い間違いです」


瑞珂陛下はしばらく私を見つめ、やがて静かに言った。


「勇姫、私にはすべて話してもいいんだよ」


その優しい言葉に、胸が熱くなった。この人となら、本当のことを話しても…いや、いつか機会があれば。


「ありがとう」私は微笑んだ。「でも今は、この法律の完成を喜びましょう」


「そうだな」彼も微笑み返した。「明日は、公布こうふの儀式だ」


◆◆◆


翌日の朝、天輝殿てんきでんの大広間に宮中の全ての高官や貴族が集まった。厳かな音楽が流れる中、瑞珂陛下が玉座に着き、私も皇后の席に座る。


「ここに、『宮中統治基本法』を公布する」


瑞珂陛下の力強い宣言と共に、大臣が巻物を広げた。その内容が一言一句、読み上げられていく。


「第一条、宮中のすべての業務は『見える帳』に記録され、定期的に公開されるものとする…」


「第七条、いかなる決定も、責任者と理由が明記され、透明性を保つものとする…」


「第十三条、『見える帳』の管理と更新のために、透明院を常設機関として設置する…」


法律の朗読が続く間、私は感慨深い思いに浸っていた。スプシを使った単なる業務改善のつもりが、一国の基本法にまで発展するなんて。前世では想像もできなかった展開だ。


「これより、この法は宮中の全てに適用される」瑞珂陛下の宣言に、広間から大きな拍手が沸き起こった。


儀式の後、幾人もの高官や貴族が私に祝福の言葉をかけてくれた。


「皇后様の知恵が国を変えました」

「見える帳の恩恵を、私たちも日々実感しております」

「これぞ真の改革です」


その中で最も心に残ったのは、翡翠ひすいという年配の女官の言葉だった。


「私は三十年以上宮中で働いてきましたが」彼女は目に涙を浮かべながら言った。「こんなに働きやすくなったのは初めてです。若い女官たちが夢を持って働ける宮中になりました」


彼女の言葉に、胸が熱くなった。スプシが単なる効率化ツールではなく、人々の生活を本当に良くしているのだ。


◆◆◆


公布の儀式から数日後、私は透明院で最後の指導をしていた。「見える後宮マニュアル」が正式に制度化された今、その運用方法を伝える必要がある。


「これで説明は以上です」


広間に集まった女官たちに向かって、私は締めの言葉を述べた。


「あとは皆さんの手で、この制度を育ててください」


「はい!」一同が力強く応えた。


「最後に一つ」私は満面の笑みで言った。「この『見える帳』は完璧ではありません。時代と共に変わっていくべきものです。だから、どんどん改善してください」


「改善…ですか?」一人の若い女官が驚いたように尋ねた。


「ええ」私は頷いた。「制度は生き物です。固定化せず、より良いものに進化させていくのが大切なの」


「でも、皇后様の作られたものを…」


「私の作ったものだからこそ」私はきっぱりと言った。「もっと良くしてほしいのです。それが本当の意味での『未来へ残す』ということよ」


女官たちは驚きながらも、次第に納得した表情になっていった。


「皇后様」霜蘭が静かに前に出た。「ご安心ください。私たちが責任を持って、この制度を守り、育てます」


「ありがとう、霜蘭」私は心からの感謝を込めて言った。


「あたしも頑張ります!」小桃が元気よく手を挙げた。「勇姫さま…じゃなかった、皇后様の教えを忘れません!」


「私も」白凌が静かに頷いた。「見える帳の精神を継承する」


三人の誓いに、胸がいっぱいになる。彼らがいれば、私のスプシは安泰だ。


「これで本当に、私の役目は終わったわね」私は満足げに言った。


「いいえ」翠雨が静かに言った。「皇后様の役目は、これからも続きます。私たちの指針として」


その言葉に、思わず目頭が熱くなった。前世では誰にも認められなかった私のスキルが、異世界では人々の希望になっている。それは何物にも代えがたい喜びだった。


「ありがとう、皆」私は笑顔で言った。「これからも共に、より良い宮中を作っていきましょう」


その日、「見える後宮マニュアル」は正式に宮中の制度として根付いた。私のスプシは、未来へと続く道を得たのだ。


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