◆セクション5-1:東の裏切りと本命彼女の怒り
午前十一時――夜勤を終えた姫雪は、疲労した身体を引きずるように自宅の四畳半へ戻った。深夜の魔法を凌いだ達成感とともに、心の奥にはかすかな高揚も残っている。サファイアのネックレスを胸元でそっと撫で、これから始まる新たな決断に向けて意識を研ぎ澄ます。
しかし、その日の午後、予期せぬ連絡が姫雪の平穏を乱す。スマホの画面に表示されたのは〈京一〉の名前。東 京一――元カレの呼び出しだ。
【京一:急なんだけど、今日夕方会えない? 直接謝りたいことがある】
メッセージを見た瞬間、姫雪の胸中で何かが弾けた。東に振られて以来、彼との接点はほぼなく、連絡は封印していた。なのに今さら「謝りたい」とは。下心が透けて見える誘い文句に、眉がぴくりと動く。
(どうせ、また“銀髪美少女”の噂で釣ろうとしてるんだ)
そう直感しつつ、姫雪は返信しない道を選んだ。が、十数分後、着信が鳴った。画面には「Without Caller ID」とだけ。迷わず拒否するが、その後、SNSのダイレクトメッセージが一斉に通知を起こす。見ると、大学時代の同級生グループLINEで「ねえ、京一が“雪女に騙された”って騒いでるよ!」という書き込みが流れている。
スマホを手に、姫雪は真っ青になる。すぐにニュースアプリを立ち上げると、「深夜コンビニ店員、謎の美少女“雪女”と同一人物か? 当人が否定」といった見出しが複数飛び込んできた。見出しだけでは詳細はわからないが、東が撒いた噂が既に広まっているのは間違いない。
(京一、何を……)
動揺を押さえつつ、姫雪はメッセージ履歴を確認する。〈京一:会って謝りたい〉の後、〈京一:君の真実を知らせたい〉という文面が追加されていた。真実――それは雪女としての変身を指すのか、別の裏切りを指すのか。姫雪は胸をつかまれるような気分で、頭痛を覚えた。
◆
その夕方、約束の場所はかつて二人が初めてデートした古びた喫茶店。木製のドアを押し開けると、珈琲の香りとクラシック音楽が薄暗がりの空間を満たしている。姫雪はカウンター席の奥を見渡し、京一の姿を探した。
すぐに見つけた。窓際のテーブルに肘をつき、書類のような紙束を並べている。颯爽としたスーツ姿は以前と変わらない。だが、彼の表情は硬く険しい。姫雪が近づくと、京一は目を上げずに口を開いた。
「来てくれてありがとう。今日は大事な話をしに来たんだ」
紙束を押しやり、彼は一枚の書面を姫雪へ差し出す。タイトルには「姫川姫雪 本契約書」と印字され、下には署名欄と、膨大な文字がびっしりと詰まっている。
「これを見てくれ。君がオレのことを騙していた『許諾違反』についての内容だ」
許諾違反──聞き慣れない法律用語に、姫雪の心臓が跳ねた。書面には、コンビニでの雇用契約と併せて「深夜時間帯における肖像権使用許諾」「PR活動に伴う身元保証」「転貸禁止条項」が列挙されている。要約すれば、京一がSNSやメディアで「自分の知り合いの雪女」として姫雪の映像や写真を無断で配信し、その代償として優先的な雇用契約とギャラを保証しろ、という内容だ。
「君があの噂を利用してPRするなら、オレは君を守る契約を結ぶ。そうすれば問題は丸く収まるだろ?」
図星を突かれ、姫雪は目を細めた。京一は元彼としてではなく、ビジネスマンとして交渉を仕掛けてきたのだ。二人だけの思い出の場所で、契約書を広げるその冷酷さに、姫雪は言葉を失いかけた。
「何考えてるの? 私の人生は商品じゃない。あなたのビジネスの素材でもない」
姫雪が声を震わせると、京一は書面をテーブルへ叩きつけた。
「それでも君はわかってない。オレが君を放っておけば、あの噂は更に膨れ上がる。君は『伝説』になるか、『怪物』になるかの二択しかない。オレは君を『伝説』にしたいだけなんだ」
伝説か怪物か。京一の選択肢提示は、姫雪の心を深く抉った。彼はかつて、見た目で彼女を振った卑劣な元カレでもある。だが今は「君を守る」と言いながら、契約書と金銭を盾に支配しようとしている。
「契約がなければ君を守れない? だったら私とあなたの関係なんて、最初から偽物だったわけね」
姫雪は立ち上がり、カフェの椅子を勢いよく引いた。背後の客が振り返る。店内に緊張が張りつめる中、姫雪は京一の目をまっすぐに見据えた。
「私は誰かの契約書の下の名前じゃない。あなたのビジネスパートナーでもなければ、商品でもない。雪女だろうがコンビニ店員だろうが、私は私。勝手に私を動かそうとしないで」
その言葉に、京一の唇がわずかに震えた。これまで優勢だった彼の表情に、初めて焦りと狼狽が浮かぶ。
「……姫川、待ってくれ」
だが姫雪は振り返りもせず、ドアへと歩き出した。肩越しに最後の言葉を投げつける。
「二度と、私に関わらないで」
自動ドアが静かに閉まる音とともに、姫雪は冷たい夜風の中へ踏み出した。胸を打つのは怒りでも悲しみでもなく、ようやく解き放たれた自由への鼓動だった。
◆セクション5-2:ファイサルのプロポーズ(再)
コンビニを飛び出し、深夜の路地を駆け抜けた姫雪の背後から、柔らかな足音が追いかけてきた。振り返れば、黒塗りセダンのヘッドライトに浮かぶ少年――ファイサル・アル=サイード王子だった。
「姫雪!」
少年は息を切らしながら駆け寄る。護衛の車列は奥でエンジンを切り、二人きりの空間が生まれた。
「ごめん……東のことで余計な心配かけたね」
ファイサルはポケットから、あの小箱を取り出した。月光を受けたサファイアの輝きが、夜の闇を淡く染める。
「またその箱?」
姫雪は無意識に指先で胸元を守るように触れた。
「違う。これは“本物”のプロポーズだ」
ファイサルはしゃがみ込み、小箱をゆっくりと開いた。中には金箔の刻まれたプラチナリングが静かに佇んでいる。昨夜の“保留”宣言を受けて用意した、正式な婚約指輪だった。
「東みたいに“契約”じゃない。これは、君と僕、二人だけの約束の証だ」
少年の声は震えていた。恋愛の駆け引きなど存在しない、本気の熱意。姫雪の胸に、熱い波紋が広がる。
「僕はね、姫雪。この雪女の呪いと、君の人生の両方を背負いたい。零時の変身も、昼の働き者の顔も、全部、君そのものだと証明したい」
ファイサルはそっとリングを姫雪の左手に滑り込ませた。プラチナとサファイアが皮膚に触れる感触は、ひんやりと澄んでいた。
「どうか、僕の婚約者になってほしい」
深い静寂に染み渡るその言葉に、姫雪の瞳は潤んだ。少しだけ俯き、リングの輝きを見つめる。
(私は、どんな顔をして答えればいいの?)
ふいに背後から別れたはずの東の幻影がよぎる。だが次に浮かんだのは、雪女姿の姫雪を恐れず抱きしめたファイサルの笑顔だった。彼はいつも、本当の姫雪を見せたときに逃げなかった。逃げた相手に未練はない。
息を吸い込み、澄んだ声で答える。
「……わかった。私で、いいの?」
「もちろん。ただの“私”でいいんだ」
ファイサルは満面の笑みを浮かべ、両手で姫雪の指を握りしめた。その瞬間、彼女の心に張りつめていた糸が切れ、涙が頬を伝った。
「ありがとう……ファイサル」
二人は夜風に包まれながら、そっと抱き合った。
──
翌朝早く、姫雪は店長へ退職届を差し出した。震える手を店長の前に突きつけると、言葉は自然と溢れた。
「ごめんなさい、店長。今日で辞めさせてください。私、別の場所で働きます」
店長は驚きながらもニコリと笑い、「君らしい考えだね」と頷いて受け取ってくれた。
その日の午後、姫雪は黒塗りのセダンに乗り込み、護衛付きで空港へ向かった。夜勤用の制服やコンビニグッズはすべて箱詰めされ、彼女の手には小さな旅行バッグだけが残っている。
車窓から見下ろす街並みは、深夜から昼へ移り変わる瞬間。姫雪はリングを指で転がしながら、小さく呟いた。
「――さよなら、私の夜勤コンビニ」
そして、遠ざかる日本の大地に別れを告げ、姫雪は新たな人生を胸に飛行機へと歩みを進めた。
サファイアの光が彼女の未来をほんのり照らし、旅立ちの空は静かに微笑んでいた。
◆セクション5-3:職場への別れと覚悟
深夜三時。
コンビニ「ミッドナイトマート」から最後の客が出ると、姫雪はゆっくりとレジカウンターに歩み寄った。制服のポケットに収めた名札には、これまで自分がこの店で名乗ってきた「姫川姫雪」の文字が刻まれている。だが今日の彼女には、その名前を掲げるだけの場所がもうない。
店内を見渡すと、ホットスナックケースにはわずかにフライドチキンが残り、棚には値下げシールを貼り終えた弁当が並んでいる。廃棄ボックスは空っぽで、トイレ清掃用具も所定の場所にきちんと収まっている。いつもと変わらない深夜のルーティン。しかし、今日は“ルーティン”ではなく、“区切り”だ。
姫雪は背中のロッカーへ回り、そこに貼り付けられた写真をそっと触れた。そこには、自動ドアから飛び出す不良高校生を睨みつける、自分の不機嫌そうな顔がある。仲間と笑い合った新人バイトの集合写真もある。どれもが、姫雪がこの店で過ごした証だ。
「店長、すみません……」
店長室のドアをノックする。中からは「どうぞ」という声。姫雪は腰を折り、深い礼をしてから言葉を続けた。
「本日をもって退職いたします。四年間、本当にお世話になりました」
店長は書類を置き、にこりと微笑んだ。
「姫川さん、お疲れさま。急に辞めるって聞いたから驚いたよ。でも、自分の人生を大事にするって話なら、応援する」
姫雪は胸を撫でおろし、提出済みの退職届を差し出した。店長はそれを受け取り、捺印をして返してくれた。その間にも、壁のスピーカーからは閉店後の消灯アナウンスが流れている。
「姫川さんの笑顔は、夜勤に来るお年寄りの心まで温めてたよ。君がいたから、安心して帰宅できたって言う人も多かった。だから、忘れないでくれ」
その言葉に、姫雪は目尻を熱くした。コンビニをただのバイト先と思っていたが、この店は彼女にとって“家”でもあった。夜の孤独を支えてくれたのは、常連客と同僚たちの何気ない声がけだった。
店長室を辞し、自分のロッカー前へ戻る。最後に制服と名札を外し、手荷物に詰め込んだ。エプロンもたたみ、クリーニング袋に入れる。すべてをリュックに収めたとき、姫雪は深く息を吐いた。
「ありがとう、ミッドナイトマート。おかげで強くなれた」
静かな声を呟くと、自動ドア前に立った。カウンターの上には、最後に片付けたままのホットコーヒーのカップがひとつ。まだほんのり温かい。姫雪は一口すすり、すーっと冷えた体を温めた。
そのとき、店の自動ドアが開き、新人バイトのユイが飛び込んできた。
「姫川お姉さん!? もう帰っちゃうんですか!?」
ユイの目は真剣そのもの。姫雪は笑顔を作り、肩をぽんと叩いた。
「うん、今日でお別れだよ。でも大丈夫。君たちには私の代わりが何人でもいるから。いつもみたいに元気に頑張って」
ユイは頭を下げ、しゃがんで姫雪の靴紐を直してくれた。
「姫川お姉さんのことは忘れません! ありがとうございました!」
姫雪は胸がいっぱいになり、目を伏せた。
「またどこかで会おうね」。
ユイと別れると、姫雪は店内をもう一度見渡した。ホットケースのランプが赤く瞬き、棚のLEDが柔らかな白光を放つ。数秒間、店内のすべてを体に刻むように目を凝らした。
「よし、行くか……」
背筋を伸ばし、自販機横の通路を抜ける。駐車場にはファイサルのセダンが待っている。彼は護衛の制服姿で車のドアを開け、優しく姫雪を招き入れた。
「準備はできた?」
ファイサルの声に、姫雪は小さく頷いた。
「うん。どこへ行くかは分からないけど……行くよ」
車の窓が閉まり、エンジンが静かに唸った。
姫雪は胸元のサファイアを撫で、視線を前へ向けた。
かつての自分では想像できなかった未来がそこにある。けれど、ここで見送られた仲間の笑顔が、後押しをしてくれた。
夜空にひとつだけ瞬く星のように――
姫雪は自分自身の意志で、新たな道を進み始める覚悟を固めた。
◆セクション5-4:リムジンの中の“くだらない会話”
ファイサルが手配した黒塗りのリムジンは、羽田空港の国際線ターミナルを出ると、そのまま都心部へと向かっていた。深夜とはいえ街灯が潤むように道路を照らし、信号が赤から青へと切り替わるたびに車体のシートが揺れた。
車内の照明は落とされ、わずかに間接光が二人の輪郭を描く。姫雪は窓に寄りかかり、肘掛けに置かれたサファイアのリングを指で転がしていた。隣席のファイサルは革張りのヘッドレストにもたれ、前方をじっと見つめている。
「ねえ、姫雪」
ファイサルが口を開く。声音は少年の無邪気さを残しつつも、王子としての気品を感じさせる。
「なんだよ」
姫雪は視線を窓から外し、隣を覗き込む。
「ドバイって、日本よりずっと暑いって聞いたけど……君、溶けない?」
その問いに、姫雪は思わず顔を跳ね上げた。前夜まで数え切れないほど聞かれたであろう質問の、さらに奥をついたようなユーモア。
「溶けねーよ! ばか!」
冗談めかした口調でツッコミを入れると、ファイサルは小さく吹き出し、両手で額を押さえた。揺れるシートの奥から護衛が一礼する。夜間走行中なので静かにせねば、と釘を刺されたらしい。
「ごめんごめん。でも心配だったんだ。氷の君がドバイでスムージーみたいにシャーベットになったら困るから」
「スムージーって何だよ……」
車内に甘い笑い声が響き、姫雪はつい顔をほころばせる。サファイアのリングが胸元でくすんだ瞬間、ファイサルがさらに続けた。
「冗談はさておき、プロポーズの続きを……あ、待って?」
少年は突然、助手席のポケットから薄いカードを取り出した。
「ついでにもうひとつ、君に渡したいものがある」
姫雪は思わず身を乗り出し、指先でリングをはめた左手をかざす。
「また指輪?」
「違う。こちら」
ファイサルはカードに小さな四つ葉のクローバーを挟み込んでいた。金色の枠に「Forever Bloom」の文字。
「四つ葉のクローバーは幸福の象徴。君がどこに行っても、僕の想いは枯れないって意味さ」
姫雪は心がじんわり温かくなるのを感じ、思わず頬が緩む。
「本気かよ……王族なのに、どんどんロマンチストになるな」
「君が普通の言葉で笑ってくれるからさ」
その言葉を聞いて姫雪はそっとカードを胸元にしまった。シートベルトを締め直し、夜気を胸いっぱいに吸い込む。
「そういえばさ、ドバイには“シェイク”って呼ばれるものがあるでしょ? 僕の国の貴族たちが飲むシェイク、君にも試してほしいんだ」
「また飲み物かよ」
「もちろん雪女専用にアレンジしてもらう。氷を使わず、温度が変わらない魔法みたいなシェイクをね」
車内にささやかな笑い声がこだまする。姫雪はふうっと息を吐き、やわらかな安心感に包まれた。凍てに怯えていた日々が遠い昔のようだ。
「でも本当、あんたってどんな魔術使うんだよ……」
「魔術? 僕は天文学者もいるし、錬金術師みたいなのもいる。君を溶かさないシェイクなら任せて」
ファイサルは胸ポケットからさらに小箱を取り出した。中には小さなゴールドのスプーン。柄にはサファイアが装飾され、先端は四つ葉の形になっている。
「雪女シェイクには、このスプーンを使うんだ。『真の幸福』をすくい取る道具さ」
「くっ……また演出だ。この王子、ハートを撃ち抜くどころかトドメさす気か」
姫雪は恥ずかしさのあまり視線を逸らす。だが、小箱を胸に抱えたまま、ふとファイサルを見返した。彼の大きな瞳は真剣そのものだ。
「もう、こういうの……嫌いじゃないんだろ?」
「うるさい! でも……嫌いじゃない」
互いに頬を赤らめ、静かな瞬間が流れる。護衛の運転するリムジンは高速道路を滑るように進み、風が窓を震わせた。
「ところでさ……妻が三人いるって嘘、本当?」
突如、姫雪がからかうように尋ねる。数夜前の冗談がまだ心に残っていた。
「はは、あれは完全な冗談さ。君だけの“唯一無二”の妻だからね」
ファイサルは真顔で答え、姫雪は再び笑いをこらえる。
「クソガキ……」
そう軽く呟くと、姫雪は胸元の二つの神器――サファイアリングと四つ葉スプーンの柄を重ね合わせた。微かな宝石の煌めきが、深夜の闇を祝福する星灯のように瞬いた。
リムジンは静かに走り続ける。
そこには、くだらない会話を重ねながらも、不思議と確かな信頼と幸福が満ちていた。
夜明け前の車内で、雪女とマセガキ王子の物語は、ほんの少しずつだけ、確実に未来へ傾き始めていた。