◆セクション4-1:変身する自分と向き合う姫雪
黎明の光が街路樹の枝越しに差し込み始めた頃、姫雪はいつものようにコンビニを後にし、夜明け前の住宅街を無言で歩いていた。銀色の髪は再び深い栗色に戻り、透き通っていた肌もほのかな血色を取り戻している。だが、その足取りは軽くなっていなかった。
(私は、一体何者なんだろう……)
心の奥底に燻る問いに答えを出せぬまま、路地裏の小さな寺院の前に立ち止まる。冒頭の新聞紙に包んだチラシをポケットから取り出し、手で破ってゴミ箱へ放り込んだ。そこに書かれていたのは、地元の神社で開かれる「身代わり祈願祭」の案内。怪異を恐れ祓おうとする人々の思いは理解できる。だが、姫雪は自分を“祓う”わけにはいかなかった。
木製の鳥居の柱に手を触れ、冷たい木目を確かめる。境内に一歩足を踏み入れると、夜露に濡れた砂利が軽やかに音を立てた。まだ人の気配はない。拝殿へ向かう参道の脇には、小さな手水鉢と鏡が置かれている。
姫雪は指先で柄杓を取り、ゆっくりと水を汲んだ。掌に注がれた冷たい水で手を清めながら、自分自身への観照を始める。柄杓を伏せたとき、鏡の前に佇む自分と対峙した。
そこに映るのは、雪女として変身したときの自分ではない。普通のコンビニ店員──素肌にエプロン姿をまとった、自分。しかし、目に宿る光だけはいつもの自分と少し違っていた。まるで内側に秘めた冷気を映し出すかのように、瞳の奥に揺らめく濁りを感じた。
(私は……夜になると、自分を奪われるみたいに変わってしまう。それを“自分”だと受け入れていいのか?)
子どもの頃、鏡をのぞき込んでは「姫雪、姫雪」と名前を呼んでいた無邪気な日々が、幻のように遠い。雪の精霊となった姿も、電気の下で見せる素の自分も、どちらも自分だから――そう言い聞かせようとしても、胸の奥で揺れる苛立ちは消えない。
冷たい水滴が首筋を伝う。
(誰にも相談できない。東には冷たく当たり、ファイサルには面倒をかけて……)
夜の変身を隠しつつ、人との距離を詰める術を学ぼうとすればするほど、孤独の輪郭が濃くなっていった。
重いため息をひとつ。姫雪は手水鉢の縁に肘をつき、額に手を当てる。
(祖母は“凍ては感情を糧に目覚める”って言った。でも私は、怒りや悲しみも抑え込めない。凍てを止めるために心を鈍らせれば、人生の彩りまでも喪う)
鏡越しの視線が少し揺らいだ。やがて姫雪は足を踏み出し、本殿へ向かった。絵馬殿に伸びる廊下を歩き、不意に戸を開けた。中は誰もおらず、祭壇の白紙だけが風に揺れていた。
姫雪は絵馬掛けに向かい、ポケットからペンと小さな木札を取り出した。木札にはすでに何か願いが書かれている。彼女は自らの筆跡を確かめ、息を整えてから新しい願い事を刻む。
〈私が変身しても、私のまま生きていけますように〉
杉板に櫛で毛筆のようにゆったりと書かれた文字は、揺れる炎のように微かに黒光りした。願いを唱えながら、姫雪は手を合わせ、胸の奥で揺れる凍てを意識する。
(変身は呪いじゃない。私の一部。だから呪いを祓うのではなく、共存を祈る)
祈りを終えて絵馬を結びつけた時、距離も覚悟も少しだけまとまった気がした。
帰り道、姫雪はスマホを取り出し、ファイサルへのメッセージを下書きに書いた。
「今夜、また会える?」
だが送信ボタンを押す手が止まる。彼には優しさを向けられる一方、まだ踏み込めない領域がある。姫雪は下書きを破り捨てた。
(まずは、変身する自分と向き合うこと。それが本当の第一歩だ)
そうして姫雪は深呼吸し、朝露に濡れた参道を後にした。小さな勇気とともに、自らの“凍て”と、夜に待つファイサルと、そして自分自身の人生へ歩を進める決意を固めていた。
◆セクション4-2:日常とのギャップに疲れる
深夜の変身を抑えこもうと躍起になった数日間の疲れが、姫雪の身体を重く引きずっていた。
零時に訪れる雪女の魔力に怯えながらも、日が昇ると人並みの日常に戻ろうとする──その繰り返しは、まるで二つの世界を同時に生きるような疲労感をもたらす。
午前十時。ようやく寝ついた姫雪が目覚めると、窓には眩しい陽射しが差し込んでいた。目覚まし時計を止め、掛け布団を蹴り飛ばしながら背伸びをすると、昨夜の戦いの跡が全身に残る。肩から背中へ張りつくような倦怠感、指先のわずかなしびれ、そして瞼の奥に残る雪女の残像。
(今日も普通に過ごさなきゃ……)
昼過ぎには家を出て、買い物や役所手続きなど、人と会う予定がいくつか入っている。ふだんは夜勤明けにこなす用事だが、最近はファイサルとの約束を優先したため、全てが後倒しになっている。
エプロンや制服を引っ掛けるハンガーを見つめながら、姫雪はため息をつく。鏡の前でさっと化粧を落とし、午後用のナチュラルメイクに仕上げてから、淡いベージュのカーディガンに着替えた。銀色の髪が栗色に戻っているのは助かるが、時折ちらつく光沢に自分でもぎこちなさを覚える。
銀行で通帳記入を済ませ、次はスーパーへ向かう。カートを押しながら陳列棚を眺めると、今日も“銀髪の美少女”目撃談がSNSの町ニュースに出回っている。店員のアルバイト仲間や常連客の目につくと厄介だと思いながらも、スマホで見出しだけを斜め読みした。
>「深夜のコンビニで ‘雪女’ 目撃か?」
>「通報相次ぐも正体不明、ネットで拡散中」
見出しを見ただけで背筋がざわつく。記事の内容に関わらず、あの姿が疑われているとすれば、身の危険すら感じる。スーパーのレジ待ちでうっかり顔を上げると、前に並ぶ主婦がスマホのディスプレイをちらりと覗き込み、「こんなニュース、怖いわねえ……」と隣のレジ係に小声で囁くのが聞こえた。
(誰にもバレたくない……)
買い物袋を手に駐車場へ急ぎ足で向かう。アスファルトの照り返しが眩しく、昼の世界は雪女とは対極にあるはずなのに、その光すら心の奥を凍らせる。
帰宅後、数時間の仮眠を取りつつ、姫雪はソファで眠りながら夢うつつにファイサルの笑顔を思い出していた。あの雪女の呪縛を解いてくれるのは、彼の言葉とサファイアだけだ──そんな思いに捕らわれながらも、目覚めればまた現実の日常が待っている。
午後六時、再び支度を始める。夕食の買い置きを準備しながら、姫雪は目の前の皿に盛りつける野菜スープの湯気を見つめる。夜勤前の腹ごしらえはいつも自炊だ。淡い香りが食欲を誘うものの、箸はなかなか進まない。
(空腹なのに、胃が重い……心がついてこない)
スープを半分ほど残して、姫雪は皿をシンクへ片付ける。仕事に備えて軽く運動をしようと靴を履きかえ、玄関先で瞼を閉じる。深呼吸を繰り返すうちに、指先にかすかな冷気が戻ってきた。蹲るほどの痛みではないが、心拍がゆっくり上がっていく兆候を感じた。
(また変身が始まる……)
空を見上げると、夕焼けがまだ西の空に残っていて、これから夜の帳が降りることを告げている。姫雪はゆっくりと立ち上がり、スマホのストップウォッチを起動した。零時までのカウントダウンだ。
時計の針が19時を指すころ、友人からのLINEが届く。
【A子:今夜飲まない? ちょっと相談したいことがあってさ!】
プライベートでの交流は最小限にしているはずだった。姫雪は返信を一瞬ためらい、次のメッセージを眺めた。
【A子:仕事の愚痴聞いてほしいんだけど、終電で間に合う?】
友人の人生相談は昔から姫雪の得意分野だ。だが今は、夜勤と変身のプレッシャーで余裕がなかった。食いかけのスープを引き取るように、姫雪は指先で「ごめん」を打ち込み、通話を断った。
(申し訳ないけど、私は“普通”をやってる場合じゃない)
扉を締めて鍵をかけると、姫雪は玄関先で深呼吸を繰り返し、制服を取りに部屋へ戻った。息を整えるほどに、“雪女”としての身体が待っている焦りが募る。
仕事場へ向かうタクシーの中で、姫雪は窓ガラスに映る自分を見つめた。栗色の髪、いつもの制服姿──だが瞳の奥には夜の残像が揺れている。日常と異能、そのギャップに疲弊しながらも、両立させなければならない。
タクシーを降りると、自動ドアのライトが冷たく煌めいた。姫雪は小さく息を吸い込み、胸のサファイアを撫でた。
「今日も……踏ん張らなきゃ」
夜の帳はまだ遠い。だが日常との隔たりは既に心の中で深い溝となり、姫雪はそのギャップに疲れを覚えながらも、零時の雪女へと身を委ねる覚悟を新たにした。
◆セクション4-3:ファイサルの庇護と提案
夜十一時。
街灯に照らされたコンビニ前駐車場には、いつもの黒塗りセダンが静かに待機していた。深夜勤の終盤を迎えつつある姫雪は、自販機にもたれて水を一口飲む。その背後から、かすかな足音──ファイサルがゆっくりと近づいてきた。
「疲れてるね」
声には心配が滲む。姫雪は振り向かずに続ける。
「夜勤はいつもこんなもんだ」
「君には不釣り合いだよ。零時になるたびに、命を削るみたいに変わってしまう。僕はもう、君を“圧縮保存”するかのような仕事は終わりにしてほしい」
差し出されたのは小さな名刺サイズのカードだった。手に取ると、表面には金箔で王家の紋章が刻まれ、裏には英語と日本語でこうあった。
――ファイサル・アル=サイード直轄庇護局
貴女専用シェルター「アル=サイード荘」ご招待
姫雪は一瞬目を細め、夜風に揺れるカードを見つめる。庇護局? シェルター? 日本語だからわかるが、どれだけ本気なのか、まだ信じられない。
「ドバイに別荘を用意するって言ったよね?」
「そうだ。夜勤専用の安全な場所として、ドバイ郊外に“君のためだけの”シェルターを用意した。そこで僕の護衛が君を守る。零時の変身も完全に隔離できるはずだ」
胸のサファイアが微かに脈動する。変身を抑える効果があったからこそ彼の用意した磁場鉱物だと信じたいが、さすがに異国の王子の話だけに簡単には頷けない。
「別荘って……渡航費用とか手続きとか、急に言われても無理だよ?」
「手続きは全部僕の国でやる。ヴィザから住民登録まで。君は荷物をひとつ持って来るだけでいい。必要なら携帯もWi-Fiも用意する。生活必需品はすべてドバイの家で揃えておくよ」
姫雪は用意されたカードをポケットにしまうが、声は冷静を装い続ける。
「私は日本で生まれ育った。家族も友達も職場も、全部ここにある。突然、異国で暮らせなんて……」
「家族だって“延命措置”を必要とする病気じゃないよね? 君には日本での居場所も大切だろう。でも、僕が君を守りたいという思いは、それを否定しない。両方あるべきなんだ」
一歩後ろから護衛が現れ、無言で手招きする。
「公衆の面前で話すと噂になってしまうから、まずは護衛車両へ」
姫雪は一瞬逡巡したが、例のスパイス入りミルクのぬくもりと、零時の恐怖から解放された夜を思い出し、ゆっくり頷いた。
◆護衛車両の中──
車内は重厚なレザーシートと間接照明に包まれ、コンビニの寒い蛍光灯とは別世界だった。姫雪は深く座り込むと、ファイサルが助手席から折り畳み式のタブレットを取り出した。
「これがシェルターの間取り図。敷地内に研究所、医療棟、住居棟がある。夜の透明隔離室は昼夜逆転しても安全に過ごせるよう設計済みだ」
画面をタップすると、俯瞰図と内装イメージが表示される。温かな木材と大理石が落ち着いた雰囲気を醸し、広いリビングには暖炉と、夜空が見えるガラス張りの天井。研究棟には顕微鏡や分析装置も備えられている。
「これは……まるで別荘じゃない。研究施設兼用の邸宅だ」
「君の“凍て”を詳しく調べたい。安全な環境を作るには、まず原因を知る必要があるからね」
「原因て……まさか遺伝子操作とか言わないよね?」
「医学的には、覚醒遺伝子に近いものだ。君の血筋を継いだ雪女因子。僕の国の研究者が協力してくれる。君の体質を抑える薬や装置の開発も、ここで行うつもりだ」
タブレットを閉じ、ファイサルは真剣な表情で姫雪を見つめた。
「僕は君を“助けたい”だけじゃない。君に自由を与えたい。夜が来るたび怯えなくてもいい人生を」
その言葉は、どこか切実だった。姫雪は胸の内で揺れる思いを整理しようと、深呼吸を繰り返す。
「でも、私が変わってしまったら、君の国に受け入れてもらえるかな……」
「受け入れるよ。僕の家族も、君を待っている。君の能力は王国のプライドであり、誇りになる。僕は君を“公人”として守る覚悟がある」
少女のような無邪気さと王族の責任感が交錯するファイサルの瞳に、姫雪は初めて素顔で向き合った。
「わかった。約束は……保留でいい。でも、少しだけなら考えてみる」
姫雪はポケットから取り出したカードを差し出す。
「まずは、間取り図のコピーを送って。冷静に検討する」
ファイサルは手を伸ばし、名刺を指で摘んで笑った。
「君の“検討”ほど大事なことはないよ。いつでも協議に乗る。シェルターは君の帰りを待っている」
夜の風を切る車の窓から、ネオンが流れる。コンビニでの疲労と、未来への小さな希望が混ざり合った胸の鼓動を確かめながら、姫雪は静かに呟いた。
「夜の帳が降りる前に、私も覚悟を決めなきゃね」
暗闇に浮かぶサファイアの光は、氷の呪いではなく、新しい希望の種を孕んでいるようだった。
◆セクション4-4:日常への未練と小さな決意
タクシーを降り、アパートの自動ドアをくぐった瞬間、姫雪はほっと肩の力を抜いた。闇に包まれた外の世界から、自分だけの小部屋へ戻ってきた安心感。鍵を閉め、明かりを点すと、深夜の疲れがいっきに押し寄せ、背中から重苦しい倦怠感が広がった。
ソファに腰掛け、手に取ったのはスマホ。スクリーンにはファイサルから届いた間取り図のリンクが表示されている。それを開きながらも、姫雪の視線は遠く宙を漂っていた。
(私は、ここで何を守りたいんだろう……?)
画面のシェルターは確かに魅力的だった。夜の安全だけでなく、研究所も医療施設も完備されている。しかし、その一方で、彼女の頭に浮かぶのは「普通」の生活──母の飾らない笑顔、同僚の東とは違う温かい言葉を掛け合ったコンビニの仲間たち、そして自分の小さな部屋で独り頬張る夜食の味だった。
画面を閉じ、姫雪はリビングを見渡した。狭いながらも自分の選んだ家具、使い慣れた電子レンジ、そして棚の隅に置かれた祖母から譲られた小さな風鈴。どれもが、彼女の足跡であり、「私らしさ」の証だった。
(奪われたくない、これだけは……)
膝を抱え、額に手を当てる。身体を蝕む異能と闘いつつも、日常のささやかな幸せを守りたい。神社で誓った通り、変身は自分の一部として受け入れたい。だがその先に、彼女はまだ答えを見出せずにいた。
ふと、机の上に置いたままの鍋敷きに目が止まる。昨夜、残り物のカレーを温めてから放置したままだ。冷え切った食卓の跡。姫雪は立ち上がり、台所へ向かった。ひと煮立ちさせて温かい湯気を立てると、フライパンに残った香りがやわらかく部屋を満たす。
(どんなに遠くへ行っても、結局また、ここで自炊してる自分に戻るんだろうな)
そう呟きながら、姫雪はカレーを皿に盛りつけ、薄暗いリビングのテーブルに置いた。椅子に腰掛け、一口すくう。スパイスがほんのり喉越しを刺激し、疲れた身体にじんわり染みこむ。
スマホが短く震え、画面にはA子の未読メッセージが二つ並んでいる。だが今は返信できない。彼女との付き合いは大切だが、今の自分には護らねばならないものがある。
(ごめん、また今度話を聞くよ)
指先でメッセージを既読にし、A子の名前をスワイプで消す。代わりに、ファイサルへの「ありがとう」の一言だけを下書きに残した。
食事を終えると、姫雪はソファに戻り、深い呼吸を繰り返す。時計を見ると零時まであと一時間半。胸元にはやはりサファイアのネックレスが光っている。彼が作ってくれた護符──これなしでは、もう零時の変身を乗り切れない程度に、彼女は弱っていた。
しかし同時に、姫雪の心には小さな決意が芽生えていた。
(私は、夜の戦いだけじゃなく、日中の自分も変えたいんだ)
これまで唯一の“逃げ場所”だと思っていた睡眠も、食事も、買い物も──彼女はすべてを守りながら、生きていく術を見つけなければならない。ファイサルの支援を借りるにしても、最後の判断は自分自身に委ねる。
立ち上がり、窓の外を見つめる。夜空には、まだ朝焼けへと移り変わる余韻の赤が残っている。
(零時の鐘が鳴っても、変身しても、私は私のまま──歩いていく)
そう心に誓い、姫雪はそっとネックレスを撫でた。彼女の瞳に宿る凍気は、ほんの少し和らぎ、代わりに確かな意志の灯が揺れていた。
日常への未練を抱えたまま、それでも前を向く小さな一歩。
雪女と呼ばれようと、コンビニ店員と呼ばれようと、姫雪の人生は、彼女自身の手で描き続けられる──そう感じながら、深夜の部屋に一筋の光が差し込んでいた。