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第21話 彼女は午前零時に雪女になるシンデレラ3

◆セクション3‑1:零時の目撃者




 夜十時三十分。

 月曜日の深夜帯は客足が鈍く、コンビニ「ミッドナイトマート」の店内は蛍光灯の白さだけが冴えわたっていた。姫雪はホットスナックケースにから揚げ串を並べ、油の跳ね返りを気にせずトングを操る。

 日付を跨いだバーでの出来事から三日。ファイサルはメッセージを控えめにしつつも、護衛を通じて「無理せず休んで」と菓子折りを差し入れてきた。差し入れのシリアル番号は王室御用達と一目でわかる高級品――受け取るふりをし、店の休憩室で新人たちに配って黙殺した。


(あの坊や、一旦引くと言いながら着実に包囲網を狭めてくるな……)


 胸元のサファイアが静かに脈動する。氷を抑える効果は確かで、昨夜など零時一〇分まで変身を食い止められた。

 しかし今夜は違う不安がある。売り場奥で在庫チェックをしている東 京一だ。最近、彼は深夜シフトに入り浸り、姫雪の行動を何かと観察してくる。雪女の正体を薄々勘付いたのか、視線が鋭さを帯びていた。


「姫川さーん、携帯鳴ってるぞ」


 東が休憩室の扉を開け、スマホを掲げた。ロッカー上でバイブが震え、液晶に〈Faisal〉の名が表示されている。

 姫雪は慌てて取り上げ、画面を伏せた。


「ありがと。……着信拒否し忘れてた」


「そのファイサルって誰? 最近よくかかってきてるよな」

「業者。アンケートしつこいんだ」


 嘘を噛み砕く暇もなく、背筋に冷気が漂う。壁時計は23:57。

 (まずい、今夜は早い……!)


 姫雪は油の補充を新人に任せ、在庫ケースを運ぶふりでバックヤードへ下がった。段ボールの山陰に身を隠し、深呼吸を繰り返す。胸元の石を握るが、脈動は弱い。ファイサルからの不在着信が干渉を乱したのか、氷を吸収する波長が揺らいでいる。


 ドクン――。

 血液が氷塊に変わる前触れ。髪の毛先に細雪の結晶が現れ始め、指先の皮膚温が十二度を下回る。


(お願い、あと五分……!)


 祈りも虚しく、背骨を這う冷気が爆ぜた。銀髪が弾け、肌は雪の陶器と化す。視界の色調が青白く反転し、店内の機械音が金属音のように耳奥で反響した。


 ――ガラリ。

 バックヤードの扉が勢いよく開き、東が段ボールの影を覗き込む。


「姫川さ……っ――!?」


 刹那、二人の視線が正面衝突した。

 東の黒目が見開かれ、唇から空気が漏れる。姫雪は反射的にフリースのフードを被ったが遅い。白磁の肌、氷の瞳、光を弾く銀の髪――深夜に現れた美貌の雪女と、東の眼球が十センチの距離で遭遇した。


「お、お前……姫川……? いや、違う……けど声は、姫川……?」


 東の囁きは震え、握ったメモ用紙がかさかさと鳴った。姫雪は氷のまつ毛を伏せ、口をきつく結ぶ。冷気は東の吐息を白く染めたが、凍傷を招くほどではない。


(逃げろ。言い訳を考える前に、まずこの場を離れる!)


 姫雪は段ボールを払いのけ、東の脇をすり抜けた。だが雪女の足取りは吸い付くように静かで、逆に東の混乱を煽る。店内へ出る前に腕を掴まれた。


「待て! 君は……何者なんだ? 昨日の“銀の粉”も、冷蔵庫が凍ったのも、お前……?」


 腕を掴む手が冷たさに震える。姫雪は振り払おうとしたが、力が拮抗した。


「離して。客でもないのにバックヤードへ入っちゃダメでしょ」

 声は氷を鳴らすように澄んでいる。東は息を呑み、その手を緩めた。


「……やっぱり、姫川なのか……? なんで……見た目が……」


「質問は後にして」


 姫雪は踵を返し、休憩室奥の非常口へ向かった。外は搬入口の路地。氷点下同然の体温でも人目は避けたい。

 しかし東は諦めず追い縋る。


「待ってくれ! 説明してくれよ! 君をフッたのは……俺がバカだった。でも、もし最初からその姿だったら――」


 その言葉が放たれた瞬間、姫雪の胸で凍てが炸裂した。

 “見た目が変われば態度も変える”。最も忌む発言。吹き出す冷気が廊下の非常灯を一瞬で霜で覆い、蛍光灯がバチバチと火花を散らした。


「――そういうところが嫌いなんだよ、東」


 氷の声は刃物より鋭く、東の足を凍り付かせた。膝が震えてその場に崩れる彼に背を向け、姫雪は非常口を開けて夜風の中へ滑り出た。


 ◆


 路地裏は闇に沈み、搬入用ランプだけが青白い光円を描く。銀髪が月光を掠め、霧のような冷気が舗装路を這う。

 東を置き去りにした罪悪感はある。しかし、今は己の温度――融点ギリギリを保つので精一杯だった。


 (見られた。もう元に戻れない。ファイサル……あんたの指輪がなかったら、私は人を凍らせていたかも)


 震える指でネックレスを掴むと、石が微かに鳴いた。

 同時にスマホの通知音。震源はファイサル。


【Faisal:姫雪、大丈夫? 心拍が跳ねた】


 GPSでも心拍でも構わない。今だけは、その監視を頼りたかった。


《ちょっとやらかした。迎え頼む》


 送信して数十秒。路地の向こうにハザードランプが瞬き、黒塗りの車が現れる。

 護衛の男がドアを開くと、温かい車内の空気が凍てを溶かし、姫雪の緊張を僅かに緩めた。


「プリンスからお迎えです。お急ぎを」


 足を踏み入れると、車内の奥に小柄な影。ファイサルは穿った瞳で姫雪を見つめ、ふわりと微笑んだ。


「零時を越えても綺麗だね、姫雪。でも泣きそうな顔だ」


「……泣いてない。氷が溶けかけただけだよ」


 肩がゆるみ、初めて涙腺の熱を感じた。

 ファイサルはそっと手を取り、サファイアの石に唇を寄せた。


「大丈夫。全部、僕が受け止める」


 その子どもじみた宣言が、氷より冷たい心を一瞬で融かした。

 コンビニに取り残された東の混乱、正体を見られた恐怖。それらは遠ざかるテールランプの赤に溶け、深夜の縁石へと置き去りにされた。




◆セクション3‑2:東の裏の顔と姫雪の幻滅




 ――翌朝、コンビニ従業員控室。

 時計は午前九時を回ったが、東 京一の頭の中は未明のショックから解放されぬままだった。


 銀髪の“姫川”──いや、妖精のような雪女が、確かに目の前で冷気を纏い立っていた。あれは夢か現か。それをどうにか証明しようと、東は始業前に防犯カメラの映像を確認した。だがバックヤードの該当時刻は“信号ノイズ”と“フリーズ画面”だけ。

 (まさか霜でレンズが凍った? 偶然にしては出来すぎだろ)


 思い返せば、ここ数年の自分の運は不運続きだ。第一志望だった都内難関大学の推薦を競り負け、二番手学部へ滑り込むと同時に奨学金の返済が確定。付き合った女子大生はブランド欲しさに別の男へ乗り換え、親からの仕送りは「自立しろ」の一言で打ち切られた。

 そんな矢先、あの“雪女”が映像どころか、肉眼で飛び込んできたのだ。東の脳裏に電球が灯った。


(あの容姿……SNSに流せば一夜でバズる。氷の女神と付き合ってます、って言えばインフルエンサー転身も余裕)


 理想が肥大する一方で、脳裏の姫川の罵声も残響していた。

 『そういうところが嫌いなんだよ、東』

 冷気とともに凍りついた己の足元。その舌鋒はまるで氷刃。背筋に浮いた鳥肌と、砕けた自尊心の破片。

 だが東は鼻を鳴らした。


(女ってのは結局“見られ方”が全て。綺麗になれば性格も丸くなる。元カノたちも、新しいバッグで機嫌直ったしな)


 ***


 その日のシフト終わり、東はゼミ仲間と約束があると嘘をつき、一人で街のセレクトショップを巡った。

 シルバーと白を基調にしたフェミニンなワンピース。値札は五万円。学生には痛い出費だが、彼女への“手土産”と思えば安いものだとカードを切る。

 店員の「彼女さんへのプレゼントですか?」の問いに、「特別な子で」と得意げに笑顔を返した。


 だが会計を済ませた瞬間、着信画面に〈鏡野 有沙〉の名が灯る。東の現在の本命――同じ大学の後輩で、SNSでは“量産型女子”として名を馳せるインフルエンサーだ。


「京一先輩、今日お茶する約束忘れてませんよね?」


「ああ、有沙か。ごめん、急なバイト延長で抜けられなくてさ」


 視線の先では白い紙袋がぶら下がる。綺麗に包まれた“雪女ワンピ”が嘘を嘲笑うように揺れた。


(有沙はどうせ映えカフェの写真が撮れれば満足だろ。俺にはもっとデカいチャンスがある)


 通話を切り、東は改めて鏡面ガラスに映る自分を見た。社会人仕立ての黒コート、手にはハイブラの紙袋。

 (これで準備は完璧。あとは“雪女”と再会するだけ)


 ***


 深夜――。

 コンビニのイートインに腰掛け、東は閉店間際の照明に照らされながら、スマホ画面をスクロールしていた。雪女に似た美少女アカウントがないかを探索し、「#銀髪 #激かわ」のタグで延々とタイムラインを攫う。


 その背後。バックヤードから制服を着直した姫雪が現れ、ゴミ袋を台車に積み出してきた。銀髪は黒髪へ戻り、見慣れたエプロン姿。しかし東の眼には徹夜明けの興奮でフィルターが掛かる。


「姫川さん」


 低く甘い声色を装って呼び掛けると、姫雪は眉をひそめた。


「今夜も夜勤か。体壊すぞ」


「心配か? 嬉しいな。昨日は失礼したよ。驚きすぎて……でも、ハッキリしたんだ」


 東は紙袋を掲げる。雪と月光をまとったドレスの絵柄が映える。


「これ、君に似合うと思ってさ。ほら、銀髪のときの色味に合わせたんだ」


 姫雪の表情がごく浅く歪む。笑みとも嫌悪ともつかない。


「高そうだな。アンタの奨学金で買ったのか?」


「女の子は綺麗でいてこそ。俺も男の格が上がるし……いや、そうじゃなくて! 君が昨日の子なら、やり直さないか?」


 声を潜めたつもりだが、店内の静寂に甲高く響いた。レジ脇の新人が顔をしかめ、棚の向こうへ身を隠す。


 姫雪は台車からトングを取り、油で曇った柄を磨く仕草で視線を伏せた。


「聞くが、京一。もし私が昨日の銀髪のまま、“この制服の無い世界”で過ごせるなら戻ってきたいんだろ? 反対に、雪女の仮面を脱いで皺まみれのおばあちゃんになったら?」


「そ、それは極端だろ……」


 言い淀む東。姫雪は鼻で笑い、トングをラックに戻した。冷気は一滴も漏れていない。だが彼女の声は氷雨より刺さる。


「見た目で選ぶなら、もっと若くて細い子がいいんじゃねえの? ほら、鏡野とか」


 図星を刺され、東の顔から血の気が引いた。


「な、なんで有沙の名前を……」


「レジ横で君の電話を聞く耳くらい持ってんだよ、私は」


 姫雪は深呼吸をひとつ置き、改めて東の目を覗き込んだ。雪女ではなく“姫川姫雪”の色で。


「京一、私を選んだつもりで値踏みしてるだろうけど、その逆。私はもう、選ばれる女じゃなく自分で選ぶ女だ。だから――却下だ」


 その一言は、凍てに頼らずとも十分な刃となった。東は袋を握り潰し、しわくちゃのハイブランドロゴを見下ろす。


「……姫川、変わったな」


「変わったんじゃない。素に戻っただけだよ」


 姫雪は台車を押し、ゴミ置き場へ向かう。歩幅は軽やかで、制服の裾がはためくたび、氷晶ではなく人間らしい体温が香った。


 ***


 ゴミステーションで廃棄を終えた頃、ポケットのサファイアがひそかな律動を刻む。スマホには新着。


【Faisal:心拍安定。大丈夫?】


 指先で石を撫で、短く答える。


《平気。小さな氷山、溶かしただけ》


 返信を送ったとたん、胸の石がほのかに温かくなった。凍てを吸収する役割のはずなのに、今は逆に微かな熱を返す。


「……ありがと。坊や」


 姫雪はひとり呟き、薄い夜霧を吸い込んだ。

 彼女の中で、東 京一という名の幻影はすでに溶け、二度と結晶を結ぶことはない。




◆セクション3‑3:ファイサルの宣戦布告


 コンビニ裏手の駐車スペースには、深夜にもかかわらず黒塗りの大型セダンが静かに待機していた。エンジン音すら漏らさない高級車のドアが開くと、褐色の少年――ファイサル・アル=サイード殿下が護衛に抱えられるようにして降り立った。

 柔らかな絨毯の代わりにアスファルトを踏みしめると、彼は冷たい夜気を一呼吸吸い込み、店の自動ドアへ足を向ける。煌々たる蛍光灯を背に、少年の影が床を切り裂く黒い矢印のように伸びた。


 レジ奥から戻ってきた姫雪は、思わず二度瞬きをした。制服姿の彼女にとって、ファイサルの登場は予定外だったからだ。バー以来の再会――だが背後でレジ締め作業をしている東 京一の存在を思うと、得体の知れない胸騒ぎが胴の中心で渦巻いた。


「姫雪」

 少年の口元が満開の笑みに綻ぶ。「迎えに来た」と言わんばかりの自信に満ちた声。振り返った姫雪は、しかし小さく首を振る。

「今は仕事中。お坊ちゃまのお遊びに付き合う余裕ない」

「お遊びじゃない。君を連れに来たんだ」


 年齢にそぐわぬ意志の強さが、一瞬で売場の空気を掌握する。そこへ東が現れ、視線を往復させた。


「……誰、君? 姫川さんの知り合い?」

 問いながらも東の目は、少年の着ている刺繍入りの民族上着や、護衛の黒服に釘付けになっている。

「僕はファイサル。中東サイード王国の第三王子。そして、彼女の婚約者だ」

 少年はスッと片手を差し出し、姫雪の指先を取ろうとした。しかし彼女は軽くかわし、代わりに胸元のネックストラップを握りしめた。


「話が飛躍しすぎ。まだ“保留”だって言ったはず」

「保留は拒否ではない。今日ここで正式に承認してもらう」


 宣言と同時に護衛が一歩前へ出ようとしたが、少年が手を挙げて制した。あくまで自らの言葉で交渉する意思を示す。


 東は面白半分の笑みを浮かべ、少年を値踏みする。

「王子? へえ。でも日本じゃ結婚にも親の同意がいるし、十歳じゃ無理だろ」

「僕の国の法では可能だ。第一、日本の法律を盾にしても、婚約の事実までは否定できない」

 東は鼻で笑った。

「婚約って……証拠は? 指輪でもあるの?」

 瞬間、少年はポケットからベルベットの小箱を取り出しパチンと開く。深いブルーのサファイアが蛍光灯の下で氷の刃のように光った。


 姫雪は思わず一歩下がり、胸の石を掴む。宝石同士が共鳴するように微かな振動が脈打つ。


「これが証拠。1000万ドル相当の王家宝飾。僕が彼女に贈った婚約指輪だ。代価を超える想いを示すもの――君はこれ以上のものを用意できるか?」


 数値を聞いて東は目をむいた。心の中で円換算をしたのだろう。十四億円超。彼の奨学金はおろか実家のローンでも到底及ばない額である。

「ひ、ひと、ひと千……ふざ、ふざけるな。金で愛は買えない!」

「それは愛を知らない庶民の言い訳だ。王家は想いを宝石に託す。金額ではなく重みの示し方だよ」


 東は顔を赤らめ腕を振り上げたが、護衛が無言で一歩踏み出た。圧だけで腕を固められ身動きが取れない。姫雪は慌てて少年と護衛の間に割って入り、手を広げた。


「やめて。店内で乱闘とか冗談じゃない。ファイサル、ここは日本。騒ぎを起こせば君の立場も傷つく」

 姫雪の声音には氷と火が混ざる。少年は一瞬怯むが、すぐに瞳を細め頷いた。

「わかった。手荒な真似はしない。ただし――」


 ファイサルは持っていた小箱をありったけの真剣さで姫雪に差し出した。

「君の答えを今ここで。保留期間は終わりだ。君に危害を加える者が現れた今、僕は正式に婚約者として守らねばならない」


 その言葉に、東は愕然と姫雪を見た。

「姫川……本気か? こんな子どもと?」

「子どもと見た目で切り捨てるその癖、まだ直ってないんだな」


 姫雪は深く息を吸う。胸の中でサファイアが脈動し、凍てを穏やかに鎮める。目を閉じ――開く。

「……私の答えは、今じゃない。だって私はまだ“姫雪”自身としてやりたいことがある」

 東がホッとした顔をしたのも束の間、姫雪は続けた。

「でも――この指輪は返さない。王子の誠意だってこと、今日ようやくわかったから」


 ファイサルの顔がぱっと明るくなる。姫雪は箱を手に取り、まだ指にははめずに胸ポケットへしまった。

「だから宣言だけは聞いておく。私はファイサルの“未来の婚約者候補”――で、いいよ」


 東の顔色が紙のように白くなる。姫雪の言葉は柔らかだが、拒絶を含むには十分だった。一方、少年は大きく頷き護衛に目配せする。

「姫雪を侮辱したこと、謝罪するなら許す。さもなくば――外交問題になる」

 声はよく通るベルのよう。東は護衛の無表情と威圧と、十四億のサファイアを同時に見せつけられ、膝が崩れた。


 店内は一瞬で静まり返る。商品棚の上段で動きを止めた防犯カメラが、まるで場の成行きを固唾を飲んで見守る観客のようだった。


 姫雪は袖口で口元を隠し、そっと少年を見つめた。

(子どもの宣戦布告なんて思ってた。でも……この子は本気で私を守る盾になろうとしている)


 胸の石が小さく熱を返す。凍ては完全に眠り、残るのは確かな体温――家族にも、東にも与えられなかった温もり。


「夜勤明けたら、少し話そう。正面から、ちゃんと」

「うん。僕、ずっと待ってる」


 ファイサルは握っていた拳を解き、姫雪の手を取った。驚くほど自然な温度だった。

 東は自動ドアからの寒風に当てられたように、小刻みに肩を震わせたまま立ち尽くしている。


 姫雪は最後に元カレへ視線を投げた。

「東。昨日言ったこと、もう一度言う。私を“商品”にする気ならやめろ。身の丈を知れ」

 少年王子の護衛が一斉に視線を向ける。東は震える唇で何か言いかけたが、声にならない。そのまま紙袋を抱え、小走りで店外へ逃げ去った。


 深夜の客足は途絶え、残ったのは凛とした冷気と少年の笑顔。

 姫雪はふっと肩の力を抜き、彼の手を握り返した。


「宣戦布告、受け取った。……でも私も、簡単には落ちないから覚悟しろよ」

「望むところだ。僕の姫雪」


 少年の瞳に映るのは、雪女でもフリーターでもない“ありのままの姫雪”。

 それは彼女にとって、氷の呪縛よりも眩しい解放の光だった。



◆セクション3‑4:ファイサルの優しい一言




 深夜二時。

 コンビニの駐車場には誰もいなくなり、蛍光灯が鋭い影だけをアスファルトに刻んでいた。東 京一が逃げ去った余韻を風が攫い、姫雪とファイサルだけが取り残される。

 護衛が差し出した厚手のコートに袖を通すと、姫雪の凍りがちな指先はふわりと温もりを覚えた。王家の紋章が織り込まれた生地はやわらかく、しかし指輪のサファイアと同じ淡い光を帯びている。


「大丈夫? さっきの男、手を掴んだとき震えてた。君が怖かったんじゃない。自分の浅はかさに凍りついたんだよ」


 ファイサルはそう言って微笑み、姫雪の右手をそっと両手で包んだ。褐色の掌は驚くほどあたたかい。滲むぬくもりが血管を通って心臓へ届くころ、氷の鼓動は潮騒のように静かになった。


「怖がらせたのは私の方だよ。零時を過ぎると、怒りも悲しみも温度を失って冷気になる……東には、ただの八つ当たりだったかもしれない」


「いいんだ。彼は君の本当の姿じゃなく、見かけのラベルを追いかけた。凍らせたのも氷じゃなく、君の言葉だ。君は自分を守っただけ」


 慰めではなく断言。少年の声は驚くほど落ち着いていた。十歳という年齢を忘れるほどの静けさが、姫雪の胸の棘をひとつずつ溶かしていく。

 肺の奥に残っていた冷たい吐息が漏れ、白い靄に姿を変えて消えた。指先がようやく人肌に戻り、立ちくらみのような力の抜けがやってくる。


「少し座ろう」

 ファイサルは護衛に目配せし、車のドアを開けさせた。後部シートは柔らかなレザー。姫雪が身を沈めると同時に、サファイアのネックレスがさらりと胸元で揺れた。

 少年は隣に座ると、グローブボックスから小さな魔法瓶を取り出す。中には湯気の立つスパイス入りホットミルク。カップを渡された姫雪は、一口含んで目を瞬かせた。シナモンとカルダモン。砂糖控えめで、舌の奥にほのかな甘さが残る。


「君には氷を鎮める薬がいる。砂糖じゃなく香りで体を温める。母が教えてくれたんだ。雪山の遊牧民が凍傷を避ける飲み物──“ラク=ハビーブ”、直訳すると『恋のミルク』」


「わざとダサい名前選んだろ」

 姫雪は吹き出すように笑った。けれど胸の奥がほかほかと熱い。氷の体質がなければ感じられなかった優しい温度だ。


「君が笑うと、雪が降らない。僕はそれだけで満足なんだよ」


 何気なく零れた少年の一言が、姫雪の心臓を真っ直ぐ撃ち抜いた。

 今まで“冷たさ”を止められないことを呪った。だがファイサルはその冷たさを怖れず、笑みの指標に変えてくれる。

 眼差しが潤むのを悟られたくなくて、姫雪は慌ててカップの縁へ目を落とした。琥珀色の液面に映る自分は、銀髪でも黒髪でもない、薄桃色の頬をした“ただの二十四歳”だった。


「ファイサル……あんた、本当は私なんかじゃなくて、国のもっと偉い人に守られるべきだよ。私のせいでややこしいことに巻き込まれる」


「君が“私なんか”って言うたび、僕は首都の全時計塔を止めてでも訂正させたい気分だ」


 大真面目に言うものだから、姫雪は喉を詰まらせ、思わずミルクを吹きそうになる。ファイサルは小さく笑いながら、ハンカチを差し出す。王家の紋章とサファイア色の糸で縫われた布地。

 受け取りながら、姫雪は問いを零した。


「……ねえ、私の“凍て”が将来もっと強くなって、誰かを傷つけたらどうする? 君だって危ないかもしれない」


「そのときは君ごと凍てを抱きしめる。僕が凍えるなら、世界中に暖炉を建てて火をくべる。君が悲しむなら、雪が隠す景色を全部君に見せるよ」


 冗談とも真剣ともつかない。けれど、その声色はどこまでも静かで、真冬の泉面のように澄んでいた。

 胸の石がトクトクと早鐘を打ち、姫雪の視界にじわりと涙が滲む。冷気が凍らせる暇もなく、温かい滴が頬を伝った。


「……泣いてる?」

 ファイサルが慌てて覗き込む。姫雪は首を振り、微笑んだ。


「泣いてない。氷が融けて滴っただけ。ほら、私の身体の水分だから冷たいよ」


 そっと指先で涙をすくい、ファイサルの手の甲に乗せる。少年は驚いたように目を丸くし、すぐに笑った。


「本当だ、少し冷たい。でも痛くない。むしろ気持ちいい」


 ぬるんだ夜気の中で頬を染める少年王子。その横顔を見た途端、姫雪の胸にある決意が芽を出した。凍てに怯えて生きるのはもう終わりだと――。


「ありがとう、ファイサル。君の護符、信じてみる。けど約束して。私が自分の人生を手放したくないと言ったら、必ず待っていて」


「もちろん。君が踏み出す足場を僕が作る。氷でも砂漠でも、君が望む場所を」


 姫雪は最後の一口を飲み干し、空になったカップを抱えた。

 窓の外、東の空がわずかに藍色を薄めている。零時を超えても雪は降らず、氷の欠片は息の中で静かに溶けたまま。


 そしてサファイアのネックレスは、夜明け近い心臓と同じ鼓動で淡く灯る。

 雪女と王子、その物語はまだ序章。けれど氷を溶かす一言は確かに彼女を変え、未来の扉をわずかに開いた。









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