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第20話 彼女は午前零時に雪女になるシンデレラ2

◆セクション2‑1:宝石と“婚約の証”




 朝焼けがビルの谷間に差し込む頃、姫雪は最寄り駅の改札を抜け、アパートまでの坂道を早足で歩いた。ポケットに収まったベルベットの小箱が、歩調に合わせてコトリと鳴る。

 帰宅してまずしたことは、制服を脱ぎ捨て、洗面台の前で箱を開くことだった。

 深い群青に銀の閃光を閉じ込めたサファイアのリング。プラチナの土台には流麗なアラビア文字が彫り込まれ、リング全体がひやりとした冷気を帯びている。


「……冗談にもほどがあるだろ」


 光を透かすと、鮮烈なブルーが洗面所の白タイルに反射した。

 十歳の王子が片手間で用意する指輪にしては重すぎる。質量も、意味も。


 布団に倒れ込んだ姫雪は眠気を誘う午後の日差しの中で、ファイサルの言葉を反芻した。

 ──『君を嫁にする』

 ──『婚約者候補でいい』

 幼い無邪気さの奥に、王族としてのたしかな自尊心が見え隠れする。

 だが、自分は二十四歳、コンビニ夜勤のフリーター。咄嗟に毒舌で突っぱねたものの、胸の奥が妙な熱を帯びていることに気づき、枕へ顔を埋めた。


(十歳児の戯言だ、真に受けるな。あれは異国の冗談……)


 そう言い聞かせながらも、枕元に置いた指輪は日の光を受け、氷のように冷たく輝き続けた。




 ◆ ◆ ◆ 




 夕方、短い睡眠を挟んで再び制服に袖を通すと、姫雪はバッグへ小箱を放り込み、いつものコンビニへ向かった。

 時間は二十二時。遅番の東がレジに立っている。彼は姫雪を見つけ、いつもの軽い笑顔で手を振った。


「よう、姫川さん。今日もよろしく」


「はいはい。レジ交替前にゴミ片付けとく」


 素っ気ない返事。しかし東は気にする風もなく、雑誌棚の前へ向かった。

 ――東に振られてから、まだ一週間も経っていない。だが雪女の騒動ですっかり感情は摩耗し、未練らしい未練も残っていない。

 むしろ今は、ポケットの中でスマホが震えるたび、あの少年からのメッセージではないかと胸がざわつく。


【ファイサル:姫雪、今日の夜は暇?】


 勤務開始から十分後に届いた通知を見て、姫雪は小さく舌打ちした。


(暇なわけないだろ。深夜勤なんだよ、こっちは)


 と言いつつも返信を打ちかける指が止まらない。【仕事中】の三文字を送るべきか、それとも無視するか。思案の末、彼女は定型句のようなスタンプを返した。

 数秒後、即座に新着メッセージ。


【わかった。じゃあ休憩時間に店へ行く】


 血の気が引いた。


(来るな! ……って送る前に押し寄せてきそう。監視カメラでも付いてんのか?)


 思わず首に手を伸ばし、制服の下の肌を撫でる。昨日ねじ込まれたネックレスが脈を刻むたび、僅かな振動が骨に伝わった。かすかに温度センサーでも入っているのでは、と疑いたくなる。




 ◆ ◆ ◆ 




 夜二十三時三十五分。バタバタと棚補充を終え、姫雪が廃棄予定の弁当にシールを貼っていると、店内チャイムが軽やかに鳴った。

 扉の向こうに現れたのは、濃紺のパーカーを羽織ったファイサル。襟元の金糸刺繍が高級感を隠しきれず、護衛らしき黒服が入口付近に構える。

 深夜コンビニの明かりを受け、少年の褐色の肌が健康的に艶めいた。その瞬間、姫雪の心臓がどくりと跳ねた。


「こんば……じゃなかった、いらっしゃいませ」


 ぎこちない挨拶に、ファイサルは屈託のない笑顔を返す。


「来ちゃった。夜食を買いにね」


 姫雪は観念し、廃棄弁当のシール貼りを早々に終え、レジへ立った。

 少年はハンバーガー、ホットココア、そしてスナック菓子を数点トレーに並べる。合計金額を告げると、ファイサルはクレジットカードを差し出した。ブラックカードに見えるが、カードフェイスには王家紋章のような意匠が彫られている。


「一括で」


「はい、お預かりしま……え、あんた、カード使える年齢かよ?」


「大人の許可は取ってある」


 もちろんそういう問題ではないが――姫雪はターミナルにカードを通しつつ、手元のレシートに視線を落とした。決済端末が「APPROVED」を示すまでの数秒、彼女の脳裏にある疑問が浮かぶ。


(この子の国では、十歳でもカード所持が許されるのか? それ以前に、私はこの子を“王族”として扱えているのか……?)


 決済が通り、レシートを差し出すと、ファイサルはお礼もそこそこに口を開いた。


「姫雪、シフトが終わるの零時すぎだよね? 僕、外で待ってる」


「店の前でたむろするの禁止。防犯上、客引き扱いで追い払われる」


「じゃあ迎えの車を角で待たせておく。終わったら乗って」


「……なんで、そこまで?」


 少年は少しだけ真面目な表情になり、声を潜めた。


「指輪、返しに来たでしょ?」


 バッグに入れた小箱――出勤前に“今夜こそ返却する”と決めた戦利品――その存在を読み取ったかのような言葉だった。

 不意を突かれた姫雪は、思わず目を泳がせた。


「……っ、あんな高いもの、受け取れないに決まってる」


「高いとか安いじゃない。婚約の証は、想いの重さだよ」


「想いの重さを値札に換算してんのはどこの誰だ!」


 声を張り上げそうになり、咳払いでごまかす。深夜の店内に他の客はいないが、防犯カメラは全て録画中だ。

 ファイサルは小さく笑った。


「いいよ、今夜は返しに来ただけってことで。だけど僕は諦めない。君が“それだけは無理”って言うまで、何度でも贈る」


「……それが王子の流儀か?」


「うん。僕の国では、惚れた相手に宝石を贈るのは当然の礼節だ」


 少年はトレーを抱え、イートイン席へ向かう。その背を見送りながら、姫雪は深く息を吸い、胸を押さえた。

 氷の心臓が、熱を帯びている。深夜なのに指先が温かい。雪女の温度変化に、心がリンクしているのがわかる。


(“それだけは無理”って言い切れる? 私……)


 レジ前の時計は二十三時五十五分。

 零時の変身まで、あと五分。

 王子の執念と氷の呪い、その両方が重なり合う魔の刻が迫っていた。




◆セクション2‑2:正体を隠す日々とバイト先の東(約2,400字)




 コンビニ「ミッドナイトマート」での夜勤は、姫雪にとって日常であり戦場でもあった。

 雪女に変わる零時の鐘――それをやり過ごす緊張と、元カレの東 京一(ひがし きょういち)から向けられる好奇の視線。その二重苦を、彼女は氷の心臓で受け流さねばならない。


 ***


 「姫川さん、さっきの廃棄ピザ、一切れもらっていい?」

 東は手袋を取ると、無邪気な顔で身を乗り出してきた。姫雪は温度計を握りながらため息をつく。

 「勝手にしろ。ただし廃棄申請書にサインしとけよ」

 「相変わらず口悪いなぁ。でもそこがいい」

 軽口を叩く東をかわしつつ、姫雪は心の時計を確認する。23時48分。背骨をなぞる冷気が少しずつ強まってきた。

 (今日は抑え込めるか? ファイサルはメッセージを寄越さないし……)

 そう思った瞬間、ポケットのスマホが震えた。画面には〈Faisal〉の文字。

 【姫雪、起きてる? 今日は会えないの?】

 たちまち胸元のネックレスがひんやりと重みを増し、指先に霜の感触が芽生える。

 (ダメだ、意識したら冷える……!)


 ***


 23時56分。品出し中の新人が「姫川さーん、冷蔵庫の扉が凍って開かないんですけど」と悲鳴を上げた。

 (私のせい? いや、落ち着け。冷却ファンの故障ってことで──)

 姫雪は深呼吸し、冷気を喉の奥で飲み込みながら扉をこじ開ける。白い霧が吐き出されるが、巧妙に体を盾にして新人の視界を遮った。

 「パッキンが劣化してる。殺菌灯で温めれば氷解けるから」

 淡々と指示を出し、時計を盗み見る。23時58分。


 ***


 廃棄バックヤードで段ボールを潰していると、東がひょっこり現れた。

 「なあ姫川さん。最近、夜中に店内の床で“銀の粉”見つかるの知ってる?」

 背筋が硬直する。

 「霜燃かペットボトルの結露でしょ」

 「違う。粉は溶けずに消えるんだ。……雪みたいにさ」

 東は探るような目を向けた。姫雪は腕を組み、わざと笑った。

 「都市伝説を作りたいなら、Twitterでバズってくれば?」

 牽制の笑みの裏で、指先から零れる氷晶を必死に握りつぶす。指の隙間で雪の粒が静かに溶けた。

 東は小さく肩をすくめる。

 「冗談だよ。でも……この店には、不思議を呼ぶ女の子が出入りしてる気がするんだよな」


 23時59分。姫雪は段ボールの山陰でスマホ画面を開く。

 【Faisal:君の氷は今夜も綺麗?】

 (……もう知らない。見られるくらいなら、あんたの前で変身する方がマシ)

 キーボードを叩き返す。《今夜は忙しい》の四文字を送った瞬間、零時の数字が弾けるように「00:00」へ切り替わった。


 ***


 背中を刺す氷の矢。心拍が一拍遅れ、血液が水晶に変わる。

 「っ……!」

 咄嗟にダンボールの影へ身を沈める。制服の袖が雪の波紋を広げ、銀髪が静電気のように逆立った。それでも姫雪は歯を食いしばり、声を漏らさない。

 ──お願い、五分だけ……ここでやり過ごさせて。

 凍ての力は耳鳴りに変わり、世界を白黒に塗り替えようとする。しかし片手に握りしめたネックレスの宝石が微かに脈動し、氷を緩めた。

 ファイサル。少年王子。あの褐色の笑顔を思い浮かべると、不思議と凍気が和らぐ。

 (どういう仕組みか知らないけど……あんたを思うと雪が止まる。だったら今だけ、借りるよ)

 姫雪は目を閉じ、雪女の力を紙一重で抑え込んだ。


 ***


 数分後、東がバックヤードを覗き込む。

 「姫川さん? 大丈夫か?」

 段ボールの影から出た姫雪の髪はまだ黒に近い茶色のまま、肌も人間の温度を保っていた。指先にわずかな霜痕を残すだけだ。

 「低血糖でクラッときただけ。砂糖コーヒーもらう」

 そう言い置いて厨房へ向かう彼女の背を、東はどこか寂しげに見送った。


 ***


 休憩室で缶コーヒーを飲み干し、姫雪はスマホを開く。

 【Faisal:無理なら明日迎えに行く。君が倒れたら困るからね】

 胸の奥で、氷と熱がせめぎ合う。

 (倒れるわけない。私は――雪女でも、人間でも、私のままで立ってやる)

 キーボードに指を滑らせる。

 《少し寝たら平気。余計な心配するな、お子さま》

 送信を終え、机に顔を伏せた。

 サファイアが胸骨の上で控えめに震え、まるで小さな心臓が「生きろ」と鼓動しているかのようだった。




◆セクション2‑3:ファイサルの追撃と“シンデレラ”発言




 夜勤明けの午前零時三十分。

 店じまいを終えた姫雪は、ファイサルから届いた「ホテルのバーで待つ」というメッセージを無視できず、結局タクシーに飛び乗っていた。

 制服のまま高級ホテルの回転扉をくぐるのは気が引けるが、今日は変身の兆しが薄い。サファイアのネックレスを指で弾くたび、“凍て”の冷気が奥へ引っ込むのを感じていた。


 ◆


 ロビー階段を降りた先のバーカウンター。照明は琥珀色で、クリスタルグラスが星屑のように煌めく。

 カウンター席の端――背もたれの高いハイチェアに、ファイサルは足をぶらつかせながら腰掛けていた。パーカーに薄手のジャケットを重ねただけのラフな装いだが、胸元のペンダントトップは青い宝石。姫雪の指輪と同じカットが施されている。


「遅かったね、姫雪。シンデレラみたいに午前零時で魔法が解けるかと思った」


「私は馬車にもカボチャにもならねーよ。仕事が長引いただけだ」


 肩を竦めて隣へ座ると、バーテンダーが水一杯だけを黙って差し出した。未成年を同伴していると見抜いたらしい。

 ファイサルは姫雪の制服姿を見て、頬を緩めた。


「やっぱり、その格好は好きだな。働く女性って感じでカッコいい」


「深夜コンビニ店員をカッコいいって褒める王子様、聞いたことねぇよ」


「君は誰より凛々しいよ。零時を越えても人間の姿だし。……あ、もしかして今が“魔法が解けた”姿かな?」


 核心を突くような言い回しに、姫雪の心拍が跳ねる。カウンター下でネックレスを握り、乱れた呼吸を整えると、あえて軽口で応じた。


「シンデレラは午前零時にボロ娘に戻るんでしょ? 私の場合は逆。夜が深いほど綺麗になるって言われる体質でね」


「じゃあ白雪姫? ――姫雪、白い雪。でも今は黒髪のまま」


「どっちでもねー。むしろ雪女の怪談の方が似合うって言われるくらいだ」


「怪談? 氷で人を凍らせる美女の話?」


「そう。で、しゃべり過ぎた男は血の代わりに霜を吐いて凍死するんだとさ」


 冗談めかしつつも、ファイサルは眉をひとつ跳ね上げ、楽しげに笑った。


「怖いけど……僕は口を慎めないな。君と話すほど凍えるどころか熱くなる」


 その少し大人びた言い回しに、姫雪は吹き出しそうになった。十歳児とは思えない調子の良さだ。だが同時に、背筋を撫でる冷たいざわめきが今夜は目覚めない。

 バーの空調は強めに効いているはずなのに、指先にはしびれるほどの冷えがない。彼の隣は、凍ての檻を緩める不思議な温度を持っている。


 ◆


「で? 今日の用件は指輪の回収か? それともまた新しい宝石を押し付けに来た?」


 姫雪が水を飲み干しながら訊くと、ファイサルはテーブルに小さなベルベット袋を置いた。

 「返す必要はない。けど心配だった。GPSも心拍も、この石にリンクしてるから……君が倒れないように」


「勝手に監視デバイス仕込むなって言ったろ!」


 姫雪が声を潜めながらも怒鳴ると、ファイサルは「ごめん」と笑った。


「でも効いてるでしょ? 君の氷を沈める作用は、偶然じゃなく医師に調合させた希土類鉱物の微弱磁場――」


「カタカナと難しい話で煙に巻くな!」


 注意された少年は肩を竦め、小声で続ける。


「簡単に言えば、君の『凍て』の波長を吸収して抑制する石だ。婚約指輪は身体を守る護符でもあるんだ。だから返さないで」


 姫雪は改めてネックレスの青を見下ろした。冷気を吸い込むように輝く。

 (本当に……この石のおかげで変身が遅れた? 医学か魔術か知らないが、私と同じレベルの“異常”と向き合う覚悟があるってことか)


 ◆


「姫雪」


 少年の真剣な声色に顔を上げると、ファイサルの黒く大きな瞳がまっすぐこちらを射抜いていた。


「僕には兄弟も従者も沢山いる。でも、心底本音で笑えるのは君だけだ。大きな国は要らない。君ひとりが欲しい」


 十歳の子どもが口にするにはあまりに真っ直ぐすぎる宣言。だがその軽さは嘘ではなく、王族としての生来の自信に裏打ちされているとわかる。

 姫雪は無意識に指輪の箱を握りしめた。宝石の重さ──それは子どもの戯言でも、値札でもなく、本気の想い。


「私の生活、めちゃくちゃ大変だぞ? 昼夜逆転、ブラック企業顔負けシフト、凍てつく呪いのおまけ付き」


「君が望むなら、僕は日本に別荘を建てる。君が望むなら、深夜勤務を辞めさせる。君が自分で選ぶなら、それも尊重する」


「口ばっか。……だけど」


 姫雪は天道のランプを仰いだ。黄色い光が、彼女を雪女ではなくただの二十四歳として照らす。

 胸の中で何かが溶けて滴る音がした。氷の心臓が――たった今、微かに融け始めた。


「今はまだ、『無理』とは言えない。けど『すぐに嫁になる』とも言えない。だから……保留。いい?」


 ファイサルの顔がぱっと花のようにほころぶ。


「保留=可能性あり、でしょ? 交渉は続行だ!」


「生意気。けど、その意気や良し」


 水のグラスを掲げ、二人は無音の乾杯をした。

 琥珀のライトの下でサファイアが瞬き、氷の呪いと少年王子の願いが静かに溶け合っていく。




◆セクション2‑4:夜のバーでの再会と“本音”の行き違い




 ホテルのバーラウンジ──

 シャンデリアが零す暖色の光が、テーブル上のグラスを宝石のように輝かせる。グランドピアノが奏でるジャズの旋律は深夜の静寂をやわらかく揺らし、客足の少ないフロアに残るのは、姫雪とファイサル、それに離れた位置で控える護衛だけだった。


 先ほどの“保留宣言”で少年の頬は花が咲いたように緩んだままだが、姫雪の心はまだ落ち着かない。サファイアのネックレスは確かに凍てを抑えているが、代わりに胸の奥へ熱い重石を沈めていった。


「姫雪。僕と付き合うの、そんなに難しい?」


 カウンターの縁に頬杖をつき、ファイサルが真っ直ぐに問い掛ける。幼さの残る輪郭に浮かぶ“王族の自負”は、冗談めかした口調の下でも消えない。


「難しいも何も……年齢差、国籍、身分、ぜーんぶ桁違い。私は深夜コンビニのフリーターだぞ?」


「身分や国籍は僕が解決する。年齢差も、あと数年で縮むさ」


「縮まねぇよ。私は老ける、あんたは伸び盛り。差は開くばっか」


 言いながら、姫雪は自嘲気味に笑った。口が悪いのは照れ隠しだと少年に悟られるのが悔しい。


「じゃあ質問を変える。君は、本当に“ここ”で働き続けたい?」


 少年が指先で水面を叩く。波紋が琥珀のライトを揺らし、姫雪の瞳に映る。


「……生活のためだよ。学歴も金もない。それに“夜勤”は都合がいい。私にしかわからない理由でね」


「零時で魔法がかかるから?」


「…………」


 図星を刺され、姫雪は押し黙った。ファイサルの瞳は闇を映さず星空だけを映している。十歳児にしてはあまりに澄んだ眼差し。


「僕はね、姫雪。君が“自分は呪われてる”って顔をするのを見るのがつらい。けれど君は、凍らなければ君じゃないって顔もする。どうすればいい?」


 グラスの氷がカランと転がった。姫雪は握った拳をゆっくり緩める。


「……呪いだなんて思ってない。“凍て”は、私の一部。祖母から受け継いだ血の証――でもさ、東(ひがし)みたいに、見た目で態度を変える人間はいるんだ。雪女は綺麗でも、中身の姫雪は邪魔者。だったら、“夜”だけでいいって思うだろ?」


 吐露した瞬間、胸に蓄えた氷水が溶けて喉を焼いた。ファイサルは小さく息を呑み、姫雪の手に自分の小さな手を重ねる。


「僕は違う。雪女も姫雪も、全部が好きだ」


 シンプルな言葉。なのに波紋が広がるように深く染みていく。だが姫雪は、すぐにその手をそっと外した。


「ありがとう。でも“好き”は万能じゃない。あんたには、王族としてやるべきことがある。私といたら全部捨てることになる」


「捨てるとは思わない。君を得るなら価値は等価以上だ」


「――そんな軽い天秤で国を背負うな、坊や」


 苦笑混じりの毒舌。けれど少年は怯まず頷く。


「じゃあ証明する。僕は姫雪が望むこと、ひとつずつ叶える。『夜しか働けない』――なら夜でも平気な職場を作ろう。『凍てを抑えたい』――医師と研究し続ける。君が逃げなくなるまで、僕は追いかける」


 言葉は真っ直ぐで、けれど姫雪の背を追い詰めない絶妙な距離感だった。王族という鎧を着たまま、同時に年相応の幼さで抱きつくこともせず、ただ彼女が向き直るのを待つ。


「……じゃあ、私からも条件を出す」


 姫雪は背もたれに深く寄り掛かり、バーのダウンライトを見上げた。


「私の“本物”を見ても、幻滅しないこと。雪女の姿に憧れてるだけなら、今すぐやめろ。私は……昼の顔も年相応の皺も、全部、本物だから」


 ファイサルは一拍置き、真顔で頷く。


「約束する。昼の君も、二十年後も、変わらず宝石より尊い」


「十歳児が言う台詞か、それ」


 肩の力が抜け、思わず吹き出した。笑い合った途端、張り詰めていた空気が弾ける。バーテンダーが空のグラスを下げ、新しい水を注いだ。


「姫雪、眠いなら部屋を取っている。送るよ」


「深夜料金のスイートなんて払えないぞ」


「君は客。僕の“気持ち”のお金は取らない」


 からかわれているのか本気なのか。だがネックレスの脈動は穏やかだ。凍ての冷気も鎮まり、肌温が久々に人並みに感じられる。


「……じゃあ、送迎だけ借りる。部屋は自宅の四畳半で十分だ」


「了解。護衛を呼ぶね」


 少年が指を鳴らし、黒服が静かに近付く。姫雪は席を立ち、最後にもう一度カウンターを振り返った。

 琥珀の光にサファイアが溶け、氷色の残照を残している。


 その輝きは、雪女の呪いとマセガキの執念が交差した“境界線”。

 踏み越えるのは、もう少し先でも構わない。けれど今夜は、自分の歩幅で一歩だけ近付く。


「おやすみ、ファイサル」


「おやすみ、僕のシンデレラ。魔法が解けても、迎えに行くから」


 エントランスへ続く回廊を並んで歩く。背中合わせの影が、月の淡光の下でゆっくり重なり合った。






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