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第19話 彼女は午前零時に雪女になるシンデレラ1

◆セクション1‐1:深夜コンビニと口の悪い姫雪




 国道沿いの交差点に一軒だけぽつんと灯る二十四時間営業のコンビニ──そのネオンサインは宵闇を切り裂くように青白く瞬き、行き交う車のフロントガラスを幽霊じみた色に染め上げていた。

 レジカウンターの奥で、姫川姫雪(ひめかわ・ひめゆき)は紙コップに注いだばかりのインスタントコーヒーをすすり、遠巻きにざわつく店内を鋭い目つきで一瞥した。


「ガキ共、十一時だぞ。とっとと家、帰れ! うちの店はお前らのたまり場じゃねぇ!」


 ピリッとした声音が響くやいなや、イートインコーナーに陣取っていた三人組の高校生がそろって肩を震わせた。制服のブレザーを脱いで腰パンのズボンに突っ込み、タピオカ片手にスマホを弄っていた不届き者たちは、いかにも居丈高な態度で姫雪を睨み返す。


「オバハン、店員が客に向かってその言い方はないだろ?」

「客? ほぉー、立派な客なら何か買ったらどうなんだ?」


 姫雪はカウンターに両肘をつき、顎を引いた。勢いに負けたのか、少年たちは顔を見合わせて「うーす」と気の抜けた返事を残し、自動ドアのチャイムとともに夜の歩道へと転がり出ていった。


「ったく、毎晩同じ面ばっかり……親も少しは躾けろっての」


 吐き捨てながらコーヒーを一口。紙コップの縁に落ちたリップの跡をタオルで拭い、姫雪はPOSレジを点検した。ワンオペの深夜勤はいつだって忙しい。ホットスナックの揚げ直しに、廃棄予定商品のシール貼り、トイレ清掃、補充、帳票──やることは山ほどあるのだ。


 とはいえ、姫雪は手を動かしながらも頭の片隅で時計を気にしていた。壁掛けのデジタル表示が「23:46」を刻んでから、どうにも心拍が落ち着かないのだ。


(最近、決まってこの時間帯になると背筋が冷えるんだよな。クーラー止めてるのに)


 原因はわからない。けれど、昨夜も一昨日も、その冷気は零時ちょうどにピークへ達した。思い出すだけで鳥肌が立つ。背中を這う氷の指先のような感覚。


 缶の陳列を終え、倉庫のアルミ扉を閉めたところで、姫雪は自分の指先がじわりと痺れていることに気づいた。指紋の窪みが一瞬、白く凍ったように見えて、慌てて手袋をはめる。


「……気のせい、気のせい。寝不足で手がかじかんでるだけだろ」


 強引に理屈をつけてやり過ごそうとした瞬間、どこからともなく祖母の声が脳裏をよぎった。


──姫雪や。うちの血にはな、雪女の因子が混じっとるらしいんじゃ。

──姐さん怪談好きだもんなぁ……。


 子どものころ、こたつの中で聞かされた薄気味悪い昔話。雪が降る夜の峠で旅人を凍え死なせたという女の伝説。笑い飛ばしたはずの記憶が、こんな深夜に蘇るのだから、自分でも笑えない。


 レジ前のモップ掛けを終え、最後にごみ箱の分別袋を縛っていると、再び背筋を冷やす風が吹き抜けた。今度は確実に体温が奪われていると感じる。


 壁の時計は「23:57」。秒針のチクタクが妙に大きく聞こえた。


(あと三分。なんだってんだ、マジで――)


 ドクン、と心臓が跳ねる。胸の奥で氷を飲み込んだような重さ。呼気が白い。空調は切ってある。店内は二十五度に保たれているはずなのに、姫雪の視界だけが薄い霧に包まれたように滲む。


「うそでしょ……」


 唇をこすり合わせれば、乾いた皮膚がパリッと割れ、粉雪のように白い欠片が舞った。自分の肌色が急速に青白く変わっていくのが見える。


 時計は「23:59」。客は一人もいない。だが、このままレジ前で倒れるわけにはいかない。姫雪は背面の事務スペースへ滑り込み、金庫横の小さな姿見を引き寄せた。


 針が「0:00」を指す。


 その瞬間、背骨をつたう冷気が暴発した。骨の軋む音がハウリングのように耳鳴りへと変わり、長い髪が音もなく銀へ染まる。


「……っ!」


 目の奥に走った痛みで、姫雪は視界を閉ざした。開けた瞬間、鏡のなかには別人のような少女が映っている――雪の肌、氷の瞳。理屈も現実も奪い去る、零時の魔法の始まりだった。


(やっぱり来やがった……!)


 声にならない叫びを押し殺し、姫雪は震える指で壁のアナログ時計を見上げた。秒針は相変わらず静かに進み続けている。日付は変わった。

 そして、彼女の日常もまた、戻れないラインを越えたのだった。


◆セクション1‑2:鏡に映る“雪女”と祖母の言葉




 事務スペースの片隅に立て掛けられた姿見の前で、姫雪は両頬をつまんだ。

 冷たい。氷を触ったときと同じ冷感が、指の腹から脳天を突き抜ける。白磁のような肌は血色をまるで失い、毛細血管の陰影すら見せない。


「……ホラー映画の特殊メイクかよ」


 自嘲めいたひとりごとが漏れる。長い銀髪が肩先を滑り落ちるたび、静電気のようにチリチリと霜が弾けた。瞳は淡い蒼色。光を受けて宝石のカット面のように煌めいている。

 ――事実を認めるしかなかった。深夜零時、彼女は確かに“雪女”へと化ける。


 だが、問題はそこからだ。

 この姿で朝まで生き延びる方法を考えねばならない。バイトのタイムカードにはまだ四時間も残っている。配達業者が早朝搬入に来るのも時間の問題だ。


(とりあえず、制服じゃ駄目だ。腕が透けてんのバレる)


 袖をまくり、肌が淡く発光しているのを確認してから、姫雪は倉庫の段ボールを探った。冬物フェアの売れ残り、もこもこフリースのブランケットを一枚拝借し、肩から羽織る。レジに戻り、カウンター下のタブレットを引き出した。


 検索窓に打ち込む文字は「雪女 先祖返り」「夜だけ 変身 霊異体質」。

 だが出てくるのはオカルトまとめサイトや都市伝説ばかり。医学論文なんて見当たらない。


「そりゃそうだよなぁ。国家機密級の珍事だもん」


 ため息を洩らしつつも、姫雪は手を止めなかった。次は英語で「Yuki‐Onna bloodline」「genetic atavism」。海外のフォーラムを漁り、半信半疑の体験談をいくつか読み漁る。――極寒地で氷点下でも平気な体質、雪雲を呼ぶ家系、雪の日に限り美貌が増す、など眉唾のネタが並ぶ。


 ふと、記憶の底から祖母の声がまた滲み出た。


──姫雪や。女は血の中に“凍(い)て”を飼っとる。凍ては感情を餌にして目覚めるんじゃ。

──凍て? 冷凍庫の話?

──切ない恋をすれば、凍てが疼(うず)く。恨みが極まれば雪が降る。愛が溶ければ氷は泣く。


 幼い頃はメルヘンとして聞き流したが、今は洒落にならない。

 昨夜の初変身は、東からの失恋宣告を受けて心が折れ切った直後だった。感情の痛みが引き金――祖母の言葉と符号する。


(んなオカルト……でも、もし本当なら?)


 胸を押さえた。冷たい。心拍は穏やかなのに体表温度は氷点下寸前だ。血液が凍りつかないのが不思議なくらい。

 カウンター下の温度計を脇に挟むと、液晶は「11℃」を示した。常人なら低体温症で意識が飛ぶ数値。


「私、生き物としてアウトじゃん……」


 だが指をつねっても痛覚はあるし、思考も鮮明だ。むしろ嗅覚や聴覚は鋭敏になり、遠くの冷蔵ショーケースのコンプレッサー音まで拾える。身体能力が底上げされている感覚。


 姫雪は腕を振ってみた。そよ風が生まれ、フリースの繊維に霜が降りた。目を凝らすと白い結晶がキラキラ舞う。

 ほんの数秒、ぼう然とその光景を眺めていたが、やがて実感が湧いてきた。


(力……これが凍ての力? 使いどころ、間違えたら死人が出る)


 思わず背筋が凍り、肩を抱く。けれど同時に、奇妙な高揚も芽生えた。

 これだけの異常事態――なのに恐怖より先に、好奇心が疼いている。


「はぁ、私ってば根っからの貧乏性だね。金にならない超能力とかハズレくじじゃん」


 冗談めかして呟いたとたん、レジ前の自動ドアが音を立てた。

 誰もいないはずの店内に、突如として潮風の匂いが流れ込み、濡れた靴が床を踏むキュッという音がした。


(まさか――泥棒? いや、時間帯的にトラックの搬入?)


 姫雪は咄嗟にフリースを深く被り、イートイン側を覗いた。しかし姿は見えない。

 代わりに視界の端、光沢のある床タイルに――自分とは違う足跡が、雪の結晶のように白く浮かんでは消えていくのが映った。冷気が同心円状に広がる。


「誰……?」


 問いかけは空振りだった。音も足跡も霧散し、ただ冷たい気流だけが残る。

 警戒しつつレジ横の防犯モニターをチェックする。外カメラには深夜の道路、猫一匹映っていない。内カメラにも誰も立っていない。


(霊障? それとも私自身の氷が……?)


 背中にぞくりと悪寒が走る。もしこの凍ての力が無意識に漏れ出たのだとしたら、深夜バイトどころか日常生活すら脅かす。


 姫雪は再びタブレットを叩いた。

「雪女 対処法」「霊障 クールダウン」「体温低下 自己調整」。

 だが画面をスクロールしても有効策は見当たらない。


「専門医じゃなくて、陰陽師か祈祷師案件ってか……?」


 半笑いで肩を竦めたところで、店内スピーカーから低く「ピンポン」とチャイムが鳴った。夜間はオフにしていた来客センサーだ。

 これは紛れもない“実客”の合図――凍ての幻ではない。


(ヤバい、接客どうすんの!?)


 姫雪はフリースをぐるぐる巻きにし、髪を内側へ押し込み、マスクを装着。常連のタクシードライバーなら悪ふざけで「雪女さん?」など言いかねない。

 心拍は上がらないのに、頭だけがひどく熱を帯びた。

 ――レジカウンターへ出る。

 視線の先に現れたのは、缶コーヒーを片手にしたスーツ姿のOLらしき女性。酔いが回ってふらついている。


「……い、いらっしゃいませぇ」


 声が震えた。だが相手は姫雪の銀色のまつ毛にも、青白い首筋にも気づかない。レジ袋を受け取ると、礼も言わずに足早に出て行った。


(見えてない? いや、私がうまく隠しただけ?)


 胸を撫で下ろしつつ、冷静になれと自分に言い聞かせる。

 とにかく今夜は“バレずに始発まで”が最優先ミッション。祖母の怪談の真偽も凍ての正体も、調べるのは夜明け後でいい。


 姫雪は深呼吸し、フリースの裾を整えた。

 氷の肌の下で、心だけが熱く脈打っている。

 ――零時の魔法と共存する術を見つけるまで、私は絶対に倒れない。




◆セクション1‑3:失恋の夜と再び始まる変身




 深夜二時、シフトが明けた姫雪は、店長の声も同僚の「お疲れさまです」という挨拶もろくに耳へ入れず、更衣室のロッカーを乱暴に閉めた。日付が変わってなお残る氷の余韻が、汗ばんだ制服の内側で冷気を結晶させている。

 朝焼け前の空は墨を流したように濃く、街灯のオレンジが霧に滲む。コンビニ裏の駐車場で大きく伸びをすると、肺がひやりと凍り、吐く息が白い。


(……あと二時間もすれば日差しが出る。いったん帰って寝直さなきゃ)


 けれど足は、来たときと逆方向――自宅ではなく繁華街へ向かっていた。

 理由は分かっている。傷が疼くたび、無意識に傷口を確かめに行くのだ。三日前、恋人の東 京一(ひがし きょういち)に振られた喫茶店の前。ビル外壁に貼られた鏡面ガラスには、夜勤明けの疲れと化粧崩れが色濃く映った。


「……見た目が地味で悪かったね、はいはい」


 自嘲して中指で涙袋をこする。にじむのは涙ではなく、夜風が呼んだ冷気だ。東に言われた「もっと若くて可愛い子がいい」という一言が、ペンキのように脳裏にこびりついて離れない。

 そのとき、不意にスマホが震えた。通知バーに浮かぶ名前は〈京一〉。一瞬、胸が跳ね上がる。だが表示されたメッセージは短かった。


【荷物、郵送した。鍵はポストに入れとく】


 それだけ。踏み潰された紙切れのように、姫雪の鼓動は沈んだ。未練の糸がぴんと張り詰めたのに、指先で軽く切られてしまったような虚脱感。

 画面をスリープに落とし、彼女はひとり歩道にへたりこんだ。アスファルトの冷たさが体温と共鳴し、再び全身を静かな寒気が包み込む。


(まずい、今夜は変身したくない……っ)


 懇願はむなしかった。心の痛みがぴたり零時へリンクする。体温が急降下し、吐息が氷霧へと変わる。血流が凍るような鈍痛が胸を貫き、視界の色味が青白く反転した。深夜二時であろうと、時間の鎖は容赦なく彼女を引きずり込む。


「や、めろ……!」


 叫んだつもりが声にならない。こめかみを締めつける痛みとともに、髪がさらさらと銀に染まっていくのが分かる。指先はガラス細工のように白い。変身を憎むほどに、鏡に映る“雪女の美貌”が皮肉に煌めいた。


(くそ、これが……東の理想……? だったら、最初からこの顔で会ってやれば良かった?)


 ふっと脳裏を過ぎった妄念を、自嘲の笑いで振り払う。と同時に、足音が近づく気配を察知して息を呑んだ。耳が研ぎ澄まされ、遠方の車輪音や信号機の点滅まで鮮明に拾える。真夜中の路地で出くわすのは、酔客か、あるいは――。


 カツン。

 革靴が水たまりを弾いた。現れたのはスーツ姿のビジネスマン風の青年だ。ネクタイを緩め、スマホに視線を落としたままふらつきながら歩いている。姫雪の存在に気づくと、怪訝そうに眉を寄せた。


「こんな時間に……え、コスプレ? 撮影?」

「ち、違う。通りすがりだ」


 咄嗟に口をついたが、冷気でかすれ声になり、逆に相手を不審がらせたらしい。青年はスマホを構え、無遠慮にカメラを向けた。


「ちょ、やめ……!」


 手を伸ばそうとした瞬間、掌から冷たい衝撃波が走る。次の瞬間、彼の足元の水たまりが瞬時に凍り付き、青年はツルリと滑って尻餅をついた。


「うわっ、な、なんだこれ――氷?!」


 街灯に照らされた路面が白く光を返す。姫雪自身も呆然と凍結したアスファルトを見つめた。怒りや恐怖ではない。心の奥底から湧いた羞恥と自己嫌悪が、無意識に“凍て”の力を放ったのだ。


(私が感情をこじらせるほど、凍り付く……?)


 青年は足を引きずりながら立ち上がると、罵声を吐き捨て走り去った。スマホを落としたまま。画面には撮影途中の姫雪が、雪の妖精のように白く輝く姿で映っている。


「証拠、残すなっての……!」


 姫雪は指をかざし、意を決して画面へ吹きかけた。冷気が一閃、液晶表面に霜の花を咲かせ、バリッと亀裂が走る。データは闇に葬られた――はずだ。

 罪悪感が胸を刺したが、それ以上に安堵が勝った。写真一枚で正体が拡散されれば、東の失恋どころでは済まない。


 ふと、街路樹の陰から子猫の鳴き声がした。雪女の聴覚は小動物の微かな吐息も拾い上げる。見ると、冷えた地面に震える三毛の仔がうずくまっている。

 姫雪はそっと膝を折り、指先で猫の背を撫でた。自分の手は氷なのに、仔猫は気持ちよさそうに目を細める。


「ごめんね……私、冷たいだろ?」


 小さく呟いた瞬間、しんしんと舞い落ちる白い粉が肩に積もった。雪――ではない。姫雪の髪からこぼれた、氷晶の粉だった。

 瞼がじわりと熱くなる。東に突きつけられた“外見至上主義”の呪い、自分への嫌悪、何もかもが溶けずに凍り付いて、胸を締め上げる。


(泣いたら……雪になるのかな)


 冗談めかした独り言が、息とともに白く漂い、闇へ消えていった。

 零時を過ぎた深夜三時。氷の姫は誰にも見られぬ場所でひとり、凍てつく世界に取り残されていた。




◆セクション1‑4:謎の少年との出会い




 夜明け前の街は、まるで一枚の氷版の上に置かれた模型のように、しんと静まり返っていた。

 姫雪は泣き疲れたかのように瞼の重さを覚えつつ、コンビニの方向へ歩を返した。始発まではまだ時間がある。温かい缶コーヒーでも買って指先を解凍し、落ち着いたらタクシーで帰宅しよう――そんな算段を立てていた矢先、歩道の街灯に小さな人影が浮かび上がった。


 身長はせいぜい百四十センチ弱。褐色の肌に短く刈った黒髪、星の粒をこぼしたような大きな瞳。少年は自販機脇の縁石に座り、両膝を抱えている。首や手首には銀や瑪瑙の民族調アクセサリーがいくつも重ねられ、動くたびシャラシャラと鈴のように鳴った。


「おい、ガキ。こんな時間に何してんだ。家出か?」


 姫雪が声を掛けると、少年はぱっと顔を上げ、銀の髪に氷の瞳を宿す彼女を凝視した。


「すげー……お姉さん、めちゃくちゃ綺麗だな。でも口悪いな!」


「ほっとけ。で? 迷子か? 腹減ってんのか?」


 少年はひょいと頷き、腹を撫でた。姫雪はため息をつき、手首の感覚が戻りきっていない指を鳴らす。


「コンビニでいいならチキンとポテトくらい奢ってやる。ついて来い」


 歩き出すと、少年は跳ねるように後を追った。道すがら、アクセサリーが夜の静寂に小さなベルを響かせる。




 ◆




「いらっしゃ――あれ? お、お客さま……?」


 深夜帯を任されている新人バイトが、雪女の姿の姫雪を二度見した。フリースを羽織っていても、その美貌と冷気は隠し切れない。姫雪は素早く顎を引き、レジから離れたホットスナックケースへ直行した。


「チキン二つとポテト、袋で。んでココアのパック。オレは……ブラック」


 会計を済ませ、イートインのテーブルに着く。少年はまるで飢えた小動物のように手を伸ばし、熱々のチキンにかぶりついた。肉汁が褐色の頬を伝うのも気にせず、幸福そうに目を細める。


「うまっ! お姉さん、最高! いや、女神か?」


「雪女だ。舌噛むなよ」


「へぇ、雪女? だから冷たいのに綺麗なんだ。僕はファイサル。十歳。……腹減りすぎてホテルのメイドがうるせーから抜け出してきた」


 さらっと発せられた単語に、姫雪は咀嚼の手を止めた。


「ホテル? しかもメイド? お前、観光客?」


「王族だよ。日本語はチューターに叩き込まれた。お姉さん、名前は?」


「姫川姫雪。……あんた、親とはぐれたとかじゃないんだな?」


「うるさい兄貴と護衛に囲まれるよりマシ。君と話してる方が楽しい」


 ファイサルは屈託のない笑みを浮かべた。姫雪は眉をひそめたが、その無邪気さにどこか救われるものを感じた。




 ◆




 食事を終え、姫雪は少年を連れてホテルへ戻った。

 ファイブスターホテルの玄関前――重厚な回転扉の内側で黒服たちが殺気立っている。姿を現したファイサルを見るや、護衛らしき男が駆け寄り深々と頭を下げた。


「プリンス、無事で何よりでございます!」


「大げさだなぁ。僕は腹が減っただけだって」


 ファイサルは頬を膨らませ、姫雪の袖を引いた。


「この人がご飯をくれた。お礼を用意して」


 護衛は合図し、執事風の初老が上質なベルベットの小箱を差し出した。開くと、夜明けの星を閉じ込めたような青い宝石が鎮座している。


「謝礼としてプリンス直々の贈り物を」


「待て待て待て! コンビニ飯のお代が宝石とか桁が違いすぎる!」


 姫雪は両手をぶんぶん振ったが、ファイサルは真顔で小箱を押し付ける。


「じゃあ婚約指輪として受け取れ!」


「はあ!?」


「君、強くて綺麗で毒舌で面白い。僕の嫁に相応しい」


「はあぁぁ!? マセガキが何言ってんだ!」


 護衛たちは目を伏せたまま、しかし動揺を隠しきれない。姫雪は銀髪をわずかに揺らしながら深呼吸し、宝石を突き返した。


「悪いが、私には私の生活がある。十歳児の嫁になる趣味はねぇ」


「じゃあ友達から――いや、婚約者候補からでいい!」


「そういう問題じゃねぇ!」


 押し問答の末、結局ファイサルは宝石を姫雪のポケットにねじ込み、護衛に命じて彼女のスマホへ自分の連絡先を登録させた。


「また会おうね、姫雪! 約束だ!」


 少年の無邪気な笑顔を背に、姫雪はホテルを後にした。夜空はうっすら群青から藍へ変わり、東の雲が白み始めている。

 ポケットの重みと、胸の鼓動――凍てつく肌の内側で、何か温かいものが目覚めた気がした。


(……私の夜は、まだ終わらないってことか)


 冷たい吐息が朝の光に溶けていく。雪女のヒロインは、マセガキ王子が掲げた“婚約指輪”の青を胸に、ゆっくりと歩き出した。






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